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【追悼】 リア・カンケル ─ 優しさ溢れる、ウェストコーストの良心
先週(11月26日)、またひとり、好きだったミュージシャンの訃報が届いた。亡くなったのは、シンガー・ソングライター、リア・カンケル。76歳だった。彼女のことを知っている人はそんなに多くはないかもしれない。自身のアルバムは2枚のみ、ヒットとも縁遠かった。しかし、私にとって、彼女の音楽は、70年代の「ウェストコースト・サウンド」の良質の部分を体現したもののように映っていた。彼女は歌が上手いヴォーカリストというタイプではなかったが、その歌声やサウンドプロダクションにはミストのような優しい潤い感があり、聞いていて優しい気持ちになれるような魅力があった。
リア・カンケルのことを知らなくても、70年代のウェストコースト・ロックが好きな方なら、そのラストネームには聞き覚えがあるのではないだろうか。お察しの通り、彼女のかつての夫はラス・カンケル。ジェイムス・テイラー、キャロル・キング、ジャクソン・ブラウン、リンダ・ロンシュタットら、数多くのシンガー・ソングライターたちのバックを務めてきたセッション・ドラマーだ。二人が結婚したのは1968年。80年代半ばに離婚してしまったが、二人の間には、エンジニアあるいはプロデューサーとして活躍している息子、ネイザニエル・カンケルがいる。そして、リアの結婚前の旧姓は、「コーエン」。彼女の7歳上の姉、エレン・ネイオミ・コーエンは、「キャス・エリオット」を名乗っていたシンガーだった。
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Photo by Henry Diltz(Leah Kunlel Fanpageより)
今回、リア・カンケルの訃報を知ったのは、今年9月のJ.D.サウザーのときと同じく、スティーヴン・ビショップのFacebookでの投稿でだった。
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書くのも辛いけれど、僕の最も古い大切な友人の一人、リア・カンケルが亡くなった。世の中にはずっと生きていて然るべきという人がいるが、彼女もそんな一人だった。
リアと初めて出会ったは、僕がLAに引っ越してきて数年経った1973年。友人のジェイムス・リー・スタンリーのマッケイブでのコンサートで会ったのが最初だった。遅れてきた僕は、ある空いている席の隣に座った。右隣にいた女性に「スティーヴン・ビショップの曲はまだ演ってませんか?」と尋ねたところ、その女性はにっこり微笑みながら、「まだよ、スティーヴン」と言った。それがリア・カンケルだった。僕たちはこの最初の出会いのことを、いつも笑い話にしていた。
リアがアート・ガーファンクルに僕の曲のテープを渡しれくれて、それで僕は大きなチャンスを掴むことができた。彼女は、いつも僕の音楽を応援してくれた。そして、ここぞという時に僕を信じてくれた。僕たちは「Under the Jamaican Moon」を一緒に作ったけれど、あのコラボレーションはずっと大切にしている。もっと一緒に曲を書いておけばよかったと思う。曲作りといい、美しい歌声といい、彼女の才能には目を見張るものがあった。だのに、彼女は過小評価されていたと思う。
正直、ショックを受けている。彼女のいない世界なんて想像し難い。優しくて、寛大で、真の友人だった。善良な人たちがあまりにも早く去っていくように思える。リア、安らかに眠っておくれ。君は、僕の生涯の友だ。いつも僕の心の中にいる。
息子のネイザニエルと娘のオーウェンに心から哀悼の意を表します❤️
愛と陽光と音楽をこめて
永遠の友
スティーヴン
翻訳:Lonesome Cowboy
スティーヴン・ビショップが書いているように、彼のデビューのきっかけを作ったのが、リア・カンケルだった。彼女が渡した曲を気に入ったアート・ガーファンクルがアルバム『Breakaway』(1975年)で2曲を取り上げたことで、ビショップはソングライターとして注目を浴びることになる。スティーヴン・ビショップのデビュー作『Careless』(1975年)には、謝辞(special thanks)クレジットの一番最初に「リア&ラス・カンケル」の名前が記されている。リアは、このアルバムにバックヴォーカルでも参加している。
リア・カンケルは、ソングライターとしてはさほど多くの曲を残していないが、自分の声や感性に合う曲を選ぶ能力に長けたシンガーだった。その個性はアート・ガーファンクルと非常に似通ったものであり、この二人が感性的に通じ合っていたことが違和感なく理解できる。リアは、自身のアルバムでスティーヴン・ビショップ作品のほか、ジミー・ウェブの曲も複数取り上げているが、その点もガーファンクルと共通する。その点で言えば、2010年代にデビューした英国の女性シンガー、ルーマーもウェブやビショプの作品を好んで取り上げていたが、彼女が出てきた時、私は、その声からはカレン・カーペンターを、選曲センスからはリア・カンケルをイメージしたものだった。(ルーマー自身もその共通項を意識していたのか、2022年のカバー・アウトテイク集『B Sides & Rarities Vol. 2』に収められたカーリー・サイモンの曲「You're The One」のバックヴォーカルにリアを招いている)
リア・カンケル自身の作品
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私がリア・カンケルを初めて聞いたのは、1983年頃。彼女のデビュー盤『Leah Kunkel』(1979年)を後追いで入手した時だ。元来ウェストコースト系女性ヴォーカルが好きだったし、ラス・カンケルの奥方、かつママ・キャスの妹ということで、疑いなく買ったと思う。内容は私がイメージしていた通りの「ウェストコーストらしい」音で、「LAの陽光」のように感じた。今にして思えば、ヴァル・ギャレイとラス・カンケルの共同プロデュースで、ラスのドラムスとリー・スクラーのベースがアルバム全体を貫いているのだから、それもそのはずだ。曲によっては、ダニー・コーチマーや、クレイグ・ダーギー、ダン・ダグモア、アンドリュー・ゴールド、スティーヴ・ルカサー、さらには1曲だけだがバックヴォーカルにジャクソン・ブラウンまで参加しているのだから、推して知るべしではある。しかし、このアルバムが素晴らしいのは、自作が2曲にもかかわらず、全編を通してリアの温かみのある個性が滲み出ている点だ。
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「ウェストコーストらしい」と言っても、リアの音楽は、フォークやカントリーの要素を感じさせるシンガー・ソングライター然としたものではなかったし、かと言って、サウンドプロダクションに流されがちな80年代型「AOR」でもなかった。それは、強いて言えば、ママス&パパスが所属していたダンヒル・レコードが特徴としていたような、メロディ重視の、ある種イージリスニング的な音楽だった。ただ、60年代当時のダンヒルのような過度な装飾はなく、もっとピュアでネイキッドな肌触りだった。そういう意味では、ダンヒルの創始者ルー・アドラーが次に設立したレーベル「オード」の看板アーティストだったキャロル・キングに通じるところもあるが、キャロルのような黒人音楽ルーツはリアの音楽には顕著ではなかった。
翌80年には、セカンドアルバム『I Run With Trouble』が発表される。ほぼファーストの延長線上の音だったが、こちらにはなぜかラス・カンケルの関与が一切見られない。リー・スクラーも入っておらず、ドラムスは、ジェフ・ポーカロやジョン・ゲランらが、曲によって担当。ベースは、マイク・ポーカロ、デイヴィッド・ハンゲイト、エイブラハム・ラボリエルらが弾いている。そのせいか、ファーストに比べると、若干「陽光」感が薄れた印象はある。アルバムのプロデュースは、ジョニ・ミッチェルとの仕事が多かったヘンリー・レヴィーと、リア自身だった。
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当時、このアルバムの日本盤発売はなかったと思う。その一因になったのかどうかはわからないが、本作はアルバムカバーがマーケティング的にあまり良くなかった。わけありげな黒人少女が地下鉄車内で佇む写真に、リアの顔が幻影のように重なるデザイン。それは、タイトル曲の内容を暗示するものだったのだと思うが、文字通り、リア・カンケルの姿が見えてこないものだった。実際、私はこのアルバムが中古レコード店の「黒人女性」のセクションに入っているのを見たことがある。とは言え、アルバムのクォリティは十分に高い。冒頭のジミー・ウェブ作品「Let's Begin」では、グレアム・ナッシュのハーモニーヴォーカルやトム・スコットのサックスも華美に陥ることなく、リアのソフトタッチなヴォーカルを支えている。
リアは、この後しばらく経った1984年、突如女性3人組のヴォーカル・グループ「ザ・コヨーテ・シスターズ」の一員としてアルバムを発表する。この頃までに彼女の音楽に惹かれていた私にとって、初めてのリアルタイムでのリア体験だった。それゆえ、発表後そう間をおかずして輸入盤専門店でこのアルバムを購入したのだが、中身は完全に80年代の時代の音になっていた。私が聞けた曲はB面ラストのアコースティック曲1曲のみだったため、その後、手放してしまった。今回YouTubeを検索してみたところ、本作発表当時にはPVまであったようだ。しかし、派手な衣装とメイクで着飾ったメンバーたちが部分的にしか映らない映像には、当時の風潮とは言え、非常にイタいものを感じる。
今回改めて彼女のバイオを確認してみて知ったのだが、リアは、このコヨーテ・シスターズの後、80年代後半に大学で法律を学び、弁護士の資格を取得。以降、音楽活動も多少は続けながら、弁護士として活躍。大学の非常勤教授として教鞭も執っていたようだ。このエピソードから、彼女が非常に聡明な人だったことが窺い知れる。
セッション・ヴォーカリストとして
リア・カンケルについてもうひとつの印象に残っているのは、セッション・ヴォーカリストとしての彼女の仕事だ。数自体は必ずしも多くないが、心に残る歌声を残している。バッキング・ヴォーカリストとしての彼女の歌は、同時期に同じような仕事をすることが多かったローズマリー・バトラーなどと比べれば、さほど「目立つ」ものではなかった。それよりも、リードヴォーカリストの声を柔らかい絹で纏う、そんな歌声だった。ローズマリー・バトラーやリタ・クーリッジが黒人のゴスペルやソウルに影響を受けた歌い方だとすれば、リアのそれは、白人フォークあるいは伝統的なアメリカン・ポピュラー・ソングをルーツに持つものだったと言えるだろう。
ボルチモア出身のリアは、60年代の半ば頃には、姉ママ・キャスと共にグリニッッジ・ヴィレッジのフォークシーンに出入りしていたという。その後、姉の後を追ってカリフォルニアにやってきた彼女は、ママス&パパスと同じダンヒル・レーベルから、68年(20歳の時)に「コットン・キャンディ」名義でシングル盤を1枚出していたようだ。その後は、ソングライターとして姉のアルバムに楽曲を提供したり、他のアーティストの作品にバックヴォーカルで参加したりといった活動をぼちぼちと行っていた。(子育てもあった上に、70年代に入ると旦那の稼ぎもよくなっただろうから、さほどあくせく働く必要はなかったのかもしれない)
以下に、セッション・ヴォーカリストとしての彼女の仕事の中から、印象的だったものをいくつか時系列で挙げてみたい。
1. Jackson Browne "From Silver Lake" (1971年)
ハーモニー・ヴォーカリストとしてのリアの比較的初期の仕事のひとつが、ジャクソン・ブラウンのデビュー盤に収録されていたこの曲。夫がドラムスを叩いている縁でセッションに参加したのだと思うが、このアルバムでのクレジットは「Counter Song on "From Silver Lake"」となっている。曲の終盤、ジャクソンの声に寄り添うような輪唱スタイルのヴォーカルが聞ける。男性のハイトーンヴォイスのようにも聞こえるので、私は長い間、「Harmony」とクレジットされているデイヴィッド・クロスビーによるのものと思っていたのだが、やや頼りなげな声が、この時期のジャクソンの「青さ」加減によくマッチしているのかもしれない。
2. James Taylor "Handy Man" (1977年)
70年代後半になると、最初に述べたスティーヴン・ビショップやカーリー・サイモンなど、友人たちのセッッションに駆り出されるようになるリアだが、ヒット曲として最も知られているものと言えば、ジェイムス・テイラーのこのカバー曲だろう。サビの部分で登場する彼女の声は、この曲が持つ優しい雰囲気を一層高めているように思う。
3. Craig Fuller & Eric Kaz "You Take A Heart"(1978年)
クレイグ・フラーとエリック・カズのデュオアルバムから、エリック・カズがリードヴォーカルをとる彼の作品。本アルバムは、ヴァル・ギャレイのプロデュースで、ラス・カンケルとリー・スクラーがリズムセクションを務めたという、リアのファーストと同じプロダクション。ここでは、カズの朴訥なヴォーカルに寄り添うようなリアのハーモニーが聞ける。上述の「Handy Man」に近い優しさを感じる。
4. Art Garfunkle "Scissors Cut"(1981年)
アート・ガーファンクルのアルバムには、77年の『Watermark』以降、ほぼ毎回参加していた。88年のアルバム『Lefty』では「I Have a Love」でデュエットも披露しているが、私にとってより印象的な二人の共演は、81年のアルバム『Scissors Cut』のタイトル曲。ここでも曲の終盤に輪唱のように被さってくるリアの淡々としたヴォーカルが、アートの感情の高まりをより一層感じさせる効果を上げている。この曲もジミー・ウェブの作品。
5. Livingstone Taylor "Lovin Arms" (1988年)
リヴィングストン・テイラーの当時久々のアルバムで、トム・ジャンスの名曲をデュエット。コヨーテ・シスターズの後だったので、久しぶりに聞くリアの落ち着いたアルトヴォイスに安堵感を覚えたものだ。今聞くと、幾分キラキラした時代感を感じさせるサウンドだが、二人が見つめあって歌っているような優しさは十分に感じとれる。上述の情報に照らせば、リアはこの頃から法律の勉強も始めたということになる。
今回、リア・カンケルの訃報を世に知らせたのは、娘オーウェンだった。オーウェンはビーチボーイズのアル・ジャーディンのツアーでバックヴォーカルを務めたこともあるシンガーだが、彼女はリアの実子ではない。彼女の産みの母はママ・キャス。つまり、リアは本来は叔母にあたる。しかし、キャスの突然の死によって母親を失った当時7歳の彼女を引き取って、娘として育てたのだった。(ママ・キャスはオーウェンの父親が誰だか明かすことなく逝ってしまったため、オーウェンは成長してから自分の父親探しをし、それがママス&パパスとの共演もあったギタリスト兼ベーシストのチャック・デイであることを突き止める。その手伝いをしてくれたのは、ミッシェル・フィリップスだったという)
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リア・カンケルのその行いは、叔母としては当然のことだったのかもしれないが、このエピソードに彼女の優しい音楽の源流を見る思いがした。ご冥福を祈りたい。