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【追想録】 マイケル・ブリュワー(ブリュワー&シップリー)
このところ5回に1回くらいが追悼記事になっているが、私の好きな音楽の大半が70年代に活躍した人たちのものゆえ、大目に見ていただきたい。時の流れは、無常かつ無情だ。今回追悼したいのは、先月(2024年12月17日)80歳で亡くなったマイケル・ブリュワー(Michael Brewer)。70年代前半に活躍したフォーク・ロック・デュオ、ブリュワー&シップリー(Brewer & Shipley、「ブルーワー&シップレイ」と表記されることもある)の一人だ。ブリュワー&シップリーと言っても、馴染みがない人が多いかもしれない。ウィキペディア英語版には、次のように紹介されている。(日本語版なし)
ブリュワー&シップリーは、1960年代末から70年代に活躍したアメリカのフォーク・ロック・デュオ。シンガー・ソングライターのマイク・ブリュワーとトム・シップリーからなる。手の込んだギターワークとヴォーカル・ハーモニー、そして、ベトナム戦争や個人的・政治的自由を求める葛藤といった、同世代の関心事を反映した社会性の高い歌詞で知られた。最大のヒット曲は、1970年のアルバム『Tarkio』収録の「One Toke Over the Line」。他に、「Tarkio Road」(1970年)と「Shake Off the Demon」(1971年)の2枚がビルボード・シングルチャートにランクインしている。ふたりは、その後もそれぞれソロまたはデュオとして、米中西部を中心に演奏活動を続けた。
翻訳:Lonesome Cowboy
ブリュワー&シップリー(B&S)は、75年の『Welcome To Riddle Bridge』まではコンスタントにアルバムを発表していたが、その後、活動を停止。したがって、70年代末に洋楽を聞き始めた私の場合、彼らの音楽に同時代的に触れることはなかった。このデュオの曲が日本のラジオ局から流れることは、おそらく現在に至るまでほぼなかったのではないだろうか。(彼らは80年代末に再結成しているが、その頃もそういった情報は入ってこなかった)
私がマイケル・ブリュワーの名前を最初に意識したのは、1983年。彼の初のソロアルバムが発表された時だ。そのアルバムに注目したのは、それがダン・フォーゲルバーグのプロデュースで、ダンと同じアーヴィン・エイゾフのレーベル、フルムーンから発表されたからだった。元々B&Sをリスペクトしていたフォーゲルバーグが、ブリュワーの復活をサポートすべく、自らプロデュースを買って出たというのが、その時の触れ込みだった(ブリュワーは、ダンの81年の名盤『The Innocent Age』にもハーモニー・ヴォーカルで参加している)。83年と言えば、大袈裟なシンセの音が世の中を席巻し始めた頃。かつてのようなアコースティックな肌触りを持つ、いわゆる「ウェスコースト・サウンド」は消え去ろうとしていた。そんな中、このアルバムには、70年代にLAやコロラド産のロックを支えていたメンツがずらりと顔を揃えていた。ダン・フォーゲルバーグの人脈から参加したのは、ラス・カンケル、メリル・ブリガンテ、ジョー・ララ、ケニー・パサレリ、ジョー・ヴァイターレ、アル・パーキンス、ノバート・パットナム、トム・スコット、そして、リンダ・ロンシュタッット&J.D.サウザーといった面々。
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当時、私は、このアルバムを輸入盤専門店で見つけた。上記のプロダクション情報もその店の解説文で得たと思う。しかし、実際にレコードを購入するまでには至らなかった。おそらく何かで数曲聞いた範囲で、さほど刺さらなかったからだと思う(当時、新譜1枚を買うのは結構な買い物だった)。アルバムは後年入手したが、実際、その内容はやや魅力に乏しい。仰々しさが増しつつあった当時のダン・フォーゲルバーグの音をそのまま再現した感じで、主役であるはずのブリュワーの存在感が薄いのだ。張り切りすぎたフォーゲルバーグが、結果的にブリュワーの持ち味を殺してしまった印象だ。
結局、ブリュワーのソロにもB&Sにもほぼ触れることなく80〜90年代を過ごしてしまった私が、彼らの音楽をきちんと認識したのは、2000年代も半ばになってから。その当時、米国発のインターネット・ラジオをよく聞いていたのだが、その中に70年代のウェストコースト系ロックの専門チャンネルがあった。そこで時折かかっていたのが、B&S最大のヒット「One Toke Over the Line」だった。
正直、最初はそれほど強いインパクトを受けたわけではなかった。ただ、それをきっかけに彼らのアルバムを買い揃え、その過程で、徐々にブリュワー&シップリーが持つ独特の味わいが分かってきた。その味わいは、いわば、添加物を極力抑えたオーガニック食品。この場合の「添加物」とは、コマーシャリズム。そして、彼らのオーガニックな味わいは、次の4つの要素から作り出されていたというのが私の分析だ。
要素1: 直接のルーツを感じさせない、ごった煮的アメリカン・ルーツ・ミュージック
ブリュワー&シップリーの音楽ジャンルを紹介する際、一般に使われるのは、「フォーク・ロック」という言葉だ。しかし、彼らの音楽は、この言葉で単純に括れるようなものとは少し違う。まず、多くの人が「フォーク」という響きから連想するであろう、ウッディ・ガスリー〜ピート・シーガー〜初期ボブ・ディラン〜ピーター・ポール&マリーといった系譜をあまり感じさせない。ヒット曲「One Toke Over the Line」からだけでは判断しづらいのだが、B&Sの楽曲には、いかにも弾き語りが似合うような、フォークソング然としたものは案外少ない。ゆえに、フォークにエレキ楽器とコマーシャリズムを導入する形で発展した、初期ザ・バーズや、タートルズ、サイモン&ガーファンクル、ママス&パパスといった、創成期の「フォーク・ロック」とも趣きを異にする。当然、そこには時代の流れも関係してくるわけで、B&Sが活躍した70年前後は、典型的なフォーク・ロックの時代が過ぎ去り、カントリー・ロックやスワンプ・ロックが次の潮流となってきた時代だった。大きな流れで捉えれば、「One Toke Over the Line」のような曲は「カントリー・ロック」と言えるかもしれない。ただ、ロサンゼルスのローレルキャニオンを中心に花開いたそのジャンルを代表するアーティストたちの音と、ブリュワー&シップリーの音とは少し趣きが異なる。(下記リンクは、72年のアルバム『Rural Space』からの「Where Do We Go From Here」)
例えば、ザ・バーズは、初期のフォーク・ロックから、サイケデリック期を経てカントリー・ロック的なサウンドに移行したバンドだが、彼らの曲には具体的なルーツが顕著なものが多かった。ロジャー・マッギンの作風の根っこにはボブ・ディランやピート・シーガー、そしてスコットランド・ルーツのフォークソングがあったし、クリス・ヒルマンの素地にはブルーグラスやベイカーズフィールド産カントリーがあった。デイヴィッド・クロスビーにはモーダルジャズの影響があった一方、特にバンドの初期においては、全員がビートルズの影響を受けていた。サイモン&ガーファンクルにしても、ディラン、ブリティッシュ・フォーク、50〜60年代のR&B、ゴスペルと、曲ごとにそのルーツを特定できるような作風が多かった。それに比べて、ブリュワー&シップリーの場合、「〇〇風」と言えるタイプの曲はあまりない(少なくとも私はそう感じる)。それでも彼らの楽曲からは、その端々に、ヒルビリー、ルーラル・ブルース、ラグタイム、ニューオリンズ・ジャズ、さらにはネイティブ・アメリカンのペヨーテソングまで、さまざまなアメリカン・ルーツ・ミュージックの要素が入り混じっていることが分かる。ルーツ・ミュージックのごった煮的なそのアプローチは、ザ・バンドやリトルフィートあたりにも通じるものだ。ただ、彼らの楽曲自体が「ザ・バンド風」であったり、「リトルフィート風」だったりするかと言うと、そんなことはない。彼らを模倣したと言うよりは、同時代的あるいは本質的にそうなったと解釈する方が正しい気がする。B&Sはディランの「見張り塔からずっと」のカバーも残しており、その事実からしても、ディランやザ・バンドの影響を受けていることはたしかだろう。ただ、彼らがユニークなのは、そういった自身の音楽ルーツを消化、さらには昇華させ、独自の音楽に仕立て上げている点だ。
要素2: ほぼ常に2声ハーモニーで歌われる
60年代末から70年代前半は、数多くの男性デュオが輩出された時代だ。サイモン&ガーファンクルの成功による影響も大きかったかもしれない。バドーフ&ロドニー、シールズ&クロフツ、イングランド・ダン&ジョン・フォード・コーリー、ロギンズ&メッシーナ、セシリオ&カポノ、ホール&オーツなど。しかし、ブリュワー&シップリーの歌い方は、これら同時代のデュオとは少し違う。ヴォーカルデュオでは、二人のうち一人がリードヴォーカルを取り、サビなどの聞かせどころでハモるパターンが一般的だ。そして、その場合、大抵は曲の作者がリードパートを歌う。しかし、ブリュワー&シップリーが独特なのは、ほぼ全ての曲の全てのパートが2声で歌われていたことだ。(下記リンクは、69年のセカンドアルバム『Weeds』からの「Indian Summer」)
2声ハーモニーと言うと、大きな影響を残した先人にエヴァリー・ブラザーズがいる。サイモン&ガーファンクルにしても、ロギンズ&メッシーナにしても、フライング・ブリトー・ブラザーズ時代のグラム・パーソンズ&クリス・ヒルマンにしても、さらには、ビートルズ時代のレノン&マッカートニーにしても、ことヴォーカル・ハーモニーに関しては、エヴァリー兄弟からの影響が窺い知れる。しかし、B&Sのハモりは、エヴァリーズのスタイルとは少し違う。どちらがリードヴォーカルで、どちらがハーモニーか分からないような彼らのヴォーカル・ブレンドは、むしろ、クロスビー・スティルス&ナッシュ(CS&N)の二人版といった趣きだ。後年のインタビュー動画を見ると、その点について「意図的にそういうふうに歌っているのですか?」と尋ねられ、「最初はそうだったけど、そのうちにどっちがリードで、どっちがハーモニーなんて気にしなくなった」と語っている。心地良く聞こえれば、それでいいと言うのだ。加えて、オリジナル曲の大半が二人の共作になっていることからも、二人が極めて有機的に曲を生み出していったことが察せられる。(単独名義の曲も一部あるので、「レノン&マッカトニー」のような、単なる権利上の名義ではなかったと思われる)
要素3: 中西部で育まれ、サンフランシスコで熟成されたレイドバック感
前述のように、1970年前後には数多くのフォークスタイルの男性デュオが登場しているが、そういった人たちにはひとつのステレオタイプがあった。インテリ学生風の青っぽさやある種の陰鬱さをまとっていたことだ。その分野の先鞭をつけたサイモン&ガーファンクルの音楽が映画『卒業』に使われたのも象徴的だし、バドーフ&ロドニー、シールズ&クロフツ、初期のイングランド・ダン&ジョン・フォード・コーリーあたりにも、ある種の暗さが付いて回っていた。トリオだったCS&Nやアメリカの場合も同様だ。学生運動を扱った映画『いちご白書』のサウンドトラックにCSN(&Y)の音楽がフィーチャーされていたことも、その表れだろう。
ところが、ブリュワー&シップリーの音は、そういった「悩み」や「暗さ」を不思議と感じさせない。どこか大らかで、良い意味で緊張感がないのだ。歌の内容に限ってみれば、ベトナム戦争や体制への批判、南部の保守層への懸念、「愛し合う」ことの呼びかけ、自然回帰など、冒頭のウィキペディアの説明にある通り、当時のヒッピー世代の代弁者といったテーマが多い。ニクソン大統領を名指しで批判した「Oh Mommy」のような曲もある。しかし、同じ時期に同じようなテーマを扱っていたCSN&Y(ニール・ヤング)の「Ohio」や「Southern Man」のような暗さや重さは、彼らの楽曲からは感じられない。このような大らかなニュアンスが生み出されたのは、ブリュワー&シップリーが中西部をホームグラウンドにしていたこと、そして、当時の彼らの作品がサンフランシスコで作られていたことに起因するように思う。
マイケル・ブリュワー(オクラホマ出身)とトム・シップリー(オハイオ出身)は、元々それぞれ中西部で活動していたフォークシンガーだった。それぞれにロサンゼルスを目指した二人はその地で再会し、A&Mレコード傘下の音楽出版社のスタッフライターとしての仕事を得る。彼らが当時書いた曲は、ニッティ・グリティ・ダード・バンドのデビュー作や、ポコに参加する前にランディ・マイズナーが在籍していたザ・プアーなどに取り上げられたようだ。二人の才能を認めたA&Mは、デュオとしてのデビューを勧め、レッキングクルーをバックにレコーディングが行われる。しかし、大袈裟なアレンジが施されるコマーシャルなプロダクションに満足できなかった二人は、途中でプロジェクトを投げ出し、中西部のミズーリ州カンザスシティに引っ込んでしまう。LA流のショービジネスの世界とも、肌が合わなかったようだ。結局、この時のレコーディングは、当時レッキングクルーの一員だったリオン・ラッセルによって手が加えられる形で仕上げられ、『Down In L.A.』(1968年)として二人の手を離れたところでリリースされる。
一方、ミズーリに移った二人は、同地の自由闊達な音楽シーンに刺激され、創作意欲を取り戻す。広い意味での南部にありながらも、あらゆる点で深南部ほどディープではなく、北部の工業都市とも違う、ましてやニューヨークやLA、ナッシュビルのようなエンターテイメント産業の集積地でもない。そんなこの地方独特の風土が二人には合っていたようだ。(ちなみに、ザ・バーズのオリジナルメンバーのうち、比較的直接の音楽ルーツを感じさせない、最も独自の世界観を築いていた人、ジーン・クラークは、ミズーリの出身だ)
ブリュワーとシップリーはカンザスシティで意気投合した仲間たちと、共同体のような形で音楽制作/マネジメント会社を起こし、新たなレーベルとのレコード契約を取り付ける。彼らに興味を示したのは、当時バブルガム・ミュージック・イメージからの脱却を図ろうとしていたブッダ・レコードで、その系列のカーマ・スートラ・レコードとの契約が成立した。69年から72年に掛けて彼らはカーマ・スートラから4枚のアルバムを発表するが、それらは何れも当時のヒッピー文化を象徴する街、サンフランシスコで録音されている。LA流のコマーシャルなやり方に辟易していた彼らにとって、しかるべき選択だったのだろう。
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カーマ・スートラでの1作目(通算2作目)『Weeds』(1969年)と2作目『Tarkio』(1970年)のプロデュースは、彼らの音楽を気に入ってその役を買って出たニック・グレイヴナイツ(以前は「グラベナイツ」と記載されていたが、本来の発音は「グラヴェナイタス」が近いようだ)。彼はサイケデリック期のサンフランシスコにシカゴ仕込みの白人ブルースを持ち込んだ人物。ジャニス・ジョプリンが歌う予定だった「Buried Alive In the Blues(生きながらブルースに葬られ)」は彼の作品だ。B&Sのカーマ・スートラでの3作目『Shake Off The Demon』(1971年)と4作目『Rural Space』(1972年)は彼らのセルフ・プロデュースだが、これら全作を通じて演奏の核となっているのは、マーク・ナフタリン(key)やジョン・カーン(b)などのグレイヴナイツ人脈。そこに、アルバムによって、マイク・ブルームフィールド(g)、ジェリー・ガルシア(steel)、ニッキー・ホプキンス(key)、ジョン・シポリナ(g)、スペンサー・ドライデン(dr)、バディ・ケイジ(steel)など、ベイエリアのミュージシャンたちが絡んでいる。前掲の曲「Oh Mommy」のペダルスティールは、当時この楽器を弾き始めたばかりのジェリー・ガルシアだ。(CSN&Yの「Teach Your Children」とほぼ同時期の録音)
当時、サンフランシスコのウォリーハイダーズ・スタジオには、同地のミュージシャンたちが多数出入りしていた。グレイトフル・デッドやジェファーソン・エアプレインのメンバーたちは、時間無制限でスタジオを使える契約になっていたようだ。「ちょっと弾いてくれない?」「ああ、いいよ」という軽いノリで、気軽に隣室のレコーディング・セッションに参加してくれたという。「特にギャラも要求されなかったと思う」とブリュワーはインタビューで回想していたが、そんな非商業的・コミューン的なミュージシャンシップが、おおらかなグルーヴ感を生み出す要因になったのだろう。デッドやエアプレインのメンバーは、元はと言えば、アコースティックなフォークやブルースを演奏していたミュージシャンたち。フォーク畑出身のB&Sの音楽との相性も良かったはずだ。しかも、この頃にはサイケの嵐が落ち着き、デッド自体も『Workingman's Dead』や『American Beauty』(ともに1970年)など、アコースティックな音楽を志向していた。
要素4: ヒッピー文化のポジティブな側面
参加ミュージシャンのクレジットからも想像できるように、ブリュワー&シップリーの音楽は、デッド人脈のニュー・ライダーズ・オブ・パープルセイジ(NRPS)に通じるところもある。しかし、NRPSほどカントリー色は強くないし、当時の彼らにあったようなサイケな浮遊感(ジェリー・ガルシアのギターによるところが大きい)もほとんど感じられない。実際、マイケルもトムも、アシッド(LSD)をやったことはなかったそうで、彼らが嗜んでいたのはせいぜいマリファナ。その点も言ってみればオーガニックだ。セカンドアルバムのタイトルは『Weeds』(その意味で付けたのかわからないが、マリファナの俗語)だし、彼らの代表曲「One Toke Over the Line」もマリファナについて歌った曲だ。「toke」と言うのはマリファナ吸引を意味する俗語で、タイトルは「ちょっと吸いすぎちゃった」というニュアンス。二人は半分冗談でこの曲を作ったらしく、当初レコーディングする気はなかったという。たまたまアンコールでレパートリーが尽きてしまった時に演奏したら大ウケで、それを見たカーマ・スートラの社長が録音を勧め、シングルカット。彼ら最大のヒット(ビルボード10位)になってしまったという1曲だ。(当時の副大統領スピロ・アグニューが連邦通信委員会に働きかけ、放送禁止命令が出たという)
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マイケル・ブリュワー自身は、後に「自分は結婚もしていたし、コミューンに住んだこともない。自分がヒッピーだと思ったことなんてない」と語っている。しかし、当時彼らは、ヒッピーが好んだ「自然回帰」志向を地で行くように、自然に囲まれたミズーリ州南部オザーク地方の山の中に移り住んでいたし、彼らの音楽が60年代末〜70年代初頭の若者のヒッピー的な考え方を反映していたことはたしかだろう。また、その時代は「ニューシネマ」の隆盛とも重なる。アルバム『Weeds』にはそのものずばりの「Rise Up (Easy Rider)」という曲も収められているが、サードアルバム『Tarkio』に収められた「Don't Want To Die In Georgia」の内容も、映画『イージーライダー』のラストシーンを彷彿させる。この曲は、彼らが南部アトランタをツアーで訪れた際の実際のエピソードに基づいている。その時、アトランタで彼らのアテンドをしたカーマ・スートラの担当者が黒人だったのだが、長髪髭面のいかにもヒッピー然とした白人の若者二人(ブリュワーとシップリー)が黒人と一緒にいる姿を見つめる現地の大人たちの目に、二人は殺されかねない恐怖感を抱いたという。
「Don't Want To Die In Georgia」はシングルカットもされていない曲だが、個人的にはブリュワー&シップリーを代表する1曲に挙げたい。それは、この曲がここまで述べてきた、1) ごった煮的アメリカン・ルーツ・ミュージック、2) 常に2声ハーモニーで歌われる、3) 中西部で育まれ、サンフランシスコで熟成されたレイドバック感、4) ヒッピー文化のポジティブな側面、の全てを包含しているからだ。とりわけ演奏面においては、レッキングクルーを使ったコマーシャルなプロダクションでは出せないような、バンド的なグルーヴが強く感じられる。
最後にもうひとつ、ブリュワー&シップリーが優れていた側面を挙げたい。それは、彼らが他人の優れた曲をピックアップするセンスに長けていた点だ。それも、プロデューサーに勧められたとか、ヒットを狙ってのカバーといったことではなく、自分たちの周りにいた仲間の曲をただ気に入って演奏しただけのように思われる点が、なんとも「オーガニック」だ。例えば、サードアルバム『Tarkio』(1970年)には、唯一の他人の曲として、セオドア(テッド)・アンダースンという人の曲が収められている。この人は、ブリュワーとシップリーがLA時代に知り合い、B&Sを追うようにカンザスシティに移って来たシンガーソングライターで、B&Sのマネジメント会社「グッド・カーマ・プロダクション」の所属アーティストになっていた。B&Sが取り上げた彼の曲「Seems Like a Long Time」は、その1年後にロッド・スチュワートが名盤『Every Picture Tells a Story』でカバーし、注目を浴びることになる。この時期、アンダースン自身はまだレコードデビューはしていないので、ロッドはB&Sのバージョンを聞いてこの曲を認識したのではないかと思われる。
また、5作目『Rural Space』(1972年)で取り上げられている「Black Sky」は、翌73年にデビューするオザーク・マウンテン・デアデヴィルズの創設メンバー、スティーヴ・キャッシュの作。このバンドも、名前の通りのミズーリ出身で、やはりB&Sたちのグッド・カーマ・プロダクションに所属していた。さらに、同じアルバムでは、当初のプロデューサー、ニック・グレイヴナイツのその時点で未発表だったと思われる曲「Blue Highway」や、直接の接点は考えにくいが、ジェシ・ウィンチェスターの「Yankee Lady」も取り上げられていた。
71年の4作目『Shake Off the Demon』では、ジャクソン・ブラウンの「Rock Me On the Water」が取り上げられている。ジャクソン自身のデビューは、翌72年だ。彼の曲の多くがデビュー前から評判になっていたのは有名な話だが、ブリュワー&シップリーがLAにいた時期やその交流範囲を考えれば、ジャクソン自身の歌を直接聞いて、自分たちのレパートリーに加えた可能性は十分に考えられる。二人はLA時代、ジャクソン同様、トゥルバドールのオープンマイクで歌っていたし、前述のように、当時のB&Sの曲はニッティ・グリティ・ダード・バンドがデビュー作で取り上げている。ジャクソン・ブラウンがデビュー以前の一時期ダード・バンドのメンバーだったことは、彼の熱心なファンならご存じだろう。
ブリュワー&シップリーは70年代いっぱい演奏活動を続けた後、80年に一旦コンビを解消。ツアーに明け暮れる生活に疲れたというのがその理由だった。その後、前述のようにマイケル・ブリュワーはソロ活動を行うが、トム・シップリーはテレビ映像の制作会社や地元オザーク地方のドキュメンタリーを制作するNPOを立ち上げたりしていたようだ。しかし、87年に地元ラジオ局の要望で一度限りの予定で再結成コンサートを行った結果、その時のファンの熱狂に後押しされる形で活動を再開。93年以降、再びアルバムも制作し、つい数年前まで地元中西部を中心に断続的に演奏活動を続けていたようだ。米国の音楽が最もコマーシャリズムに踊らされていた80年代にシーンから離れていたことは、二人にとってむしろ幸いだったのかもしれない。
ブリュワー&シップリーの歌の多くは、彼らの全盛期が60年代末〜70年代だったこともあり、その時代の世相を色濃く反映している。だが、そのサウンドは決して古臭さを感じさせるものではない。それどころか、今の時代だからこそより深い意味を持つ作品すらある。再結成後の93年に発表した曲「Streets of America」で、彼らはこう歌う。
"Streets of America"
僕たちは サンタマリア号でやって来た
帆船のジョンB号でやって来た
みんなそうやって やって来たんだ
自由になれる場所があると聞いたから
多くの国の海岸から
風に吹かれてやってきた
優しい自由の女神よ
どうか私たちを受け入れてください
さまざまな人たちが
さまざまなところから ここにやって来る
アメリカの街角にチャンスを求めて
故郷を捨て 誇りを失い
ある者は苦しみ ある者はただ死ぬ
アメリカの街角を一目見るために
なぜ「自由の国」と呼ばれるのかわからない
でも「勇者の故郷」と呼ばれる理由はわかる
兄弟たち 姉妹たちは
ひとつの心の痛みを 別の痛みに取り替える
そして 銃声が聞こえる
アメリカの街角では
持っている者は与えず
持たざる者たちは 生活のために働く
忘れ去られた存在なのだ
アメリカの街角では
たくさんの声が聞こえる
みんな 他に多くの選択肢はないと言っているんだ
アメリカの街角で眠るときには
Translation by Lonesome Cowboy
ブリュワー&シップリーというデュオの音楽について語られる機会は、日本はもちろん、アメリカにおいてすらそう多くはないだろう。しかし、彼らが届けてくれた、他にありそうでないオーガニックな味わいのアメリカン・ミュージックは、少なくとも私にとっては大いに心の滋養になるものだった。
マイケル・ブリュワーの冥福を祈りたい。