#29 学校が疎外する可能性について
はじめにことわっておくと、大それた話でなく、一個人のたわごとです。引用も、参考文献もございません…
学校は子供達に可能性を確約する。数量に対しての概念を、この国と世界のこれまで辿ってきた歴史を、言語とそれの持つ力を教える。それは子供達が社会で生きていくための必要不可欠な要素であると言われている。ここまでは、大多数の子供達にとって真であろうとぼくは思う。
しかし、学習することが最善では無い子供たちも確かに存在する。それはLD・ディスレクシアや、学校で習うこと以外の才能を秘めた子達のこと。この国の教室の構造は、そして教育のシステムは、皆が同じ方向を向かされている。そのことに違和感を覚える。小学校に入学した幼少のぼくは、全ての机が整然と黒板に向かっている形態が美しくも、不思議な光景に見えた。当たり前のようにその頃から集団に組み込まれ、社会に出た後はもう個人戦である。
学校は、つまりは逸脱するという可能性を疎外しているのだ。どれ程「自由な校風」を謳えど、「教育する」ことからは逃げられない。そしてこの国において教育とは「画一化」に等しい。道を逸れたところにある輝きを、多様性を、容認するだけの器量が、広がりが欲しい。
完璧な絶望が存在しないように、完璧な教育というものも存在しない。すべてのニーズに応えることはできないのは必定だ。しかし、昨今の教育の問題の噴出を見ていると、もう少し逃げ道というか、幅があっても良いのではなかろうか。とか思ったりするんだよなぁ。