愛すべき「組合せ」の妙
私たちは顔を持つ。顔は基本的に構造として認知されている。髪の毛の下には眉が、そのさらに下には一対の目と耳、中央に鼻。その下に口、様々な輪郭がそれを支えている。基本的に、それらには差がなく、そしてほとんどの人が学習し、コミュニケーションをとり、食事をとり、排泄し、眠り、ある程度時間が経つとともに老い衰え、死ぬ。つまり大きな構造として、人間という容れ物は共通しているといってよい。
では私たちは何を見ているのか、何を嫌い、愛するのか。それはその共通性、言い換えれば「なんであれかまわない」性をつきぬけた、「組合せ」に他ならない。髪を染めた不良っぽい見た目の少年が、子猫と戯れているクリシェ。このばあい主語も、行為も、あるいは類型と言って構わないだろうが、その組み合わせに、「おっ」と言わせるような心を惹くなにかがあるのはほかでもない「組合せ」のしわざだろう。
属性を組み合わせること。私たちは多分にそれを用いて自分を演出する。「自分はこういう人だと思われているけれど、また別の一面もあるのだ」と主張したくなることはあるだろう。関係性の把持のために、私たちは「自分」の「思われているであろう」キャラを把握し、そのうえで意図的にその更新を図っている。少しうら悲しいが、そうして「思われ自己像」を更新し、その更新が「真の自己の属性」を変化させるということもあるのは事実だ。
けれど、組合せの妙は愛すべきものだ。それはつまり、意外性の織りなす日常への一筋の逆光だ。「私」の領域を拡大し、様々な組合せとしての「私」を試し、認識することが、すこしだけ人生の解像度を上げてくれるのだろう。