不可逆を愛せ
日々生きていて、もちろん、辛いことはたくさんある。今日はそれを感じている友人(たち)のために、そして自分自身のために気休めを書こうと思う。
ぼくは高校時代から、そして今も少し、人間関係に難がある。人を手放しに受け入れることができず、何かの見返りを求めてしまう。内省もせず呆けて生きている人間、と他人をどこかで蔑んでいる。だからぼくは友達が少ない。けれども、友達と呼べる人はとてもいい人たちだ。聖人のような人々だ。感謝が尽きない。
だから、非常にやさしい彼ら彼女らが、社会という広いフィールドで憎悪と倦怠と、制度と悲嘆とストレスと歪んだ願望とイデオロギーと・・・(さまざまな負のエネルギー)・・・に曝されているのは、つらい。彼らの身の、心の軋む音がこだましているのに、けれども彼らは笑っている。
ぼくは思う。人間は生きてゆくにつれて「社会化」されてゆく。それは”不可逆の変化”だ。
幼児期の時間は沸騰していた。明日は誰とどこで放課後遊ぼうか、とか、体育の授業楽しみだな、とか明日の存在を前提にして、どこまでも前を向いて、永遠を信じていた。
中学校、高校を通して集団の中で規律や、自分の立ち位置、キャラクターみたいなものを理解させられる。自分はどんな「型」にはまるのか、あるいは適応しなければ、演じなければならないのかということを人と関わることで(時に失敗しながら)理解してゆく。
大学は社会に隣接した、ゆったりとした肥溜めだ。さまざまな馬鹿を見ることができる奇天烈博物館的役割もあるようだ。よく言えば、人間の多様性もよくわかる。学問をそこそこに、自分でお金をつくり、家事という実際的な手段を学んだりするかもしれない。規範と、そこからの逸脱も併せて、この時期の特徴だ。この時期に馬鹿をやっておかないと、後になって大変なことになるという説もある。
そして働き始める。大学が「人生の夏休み」と言われているのだとすれば、夏休み明けは最もつらい時期だろう。自由を謳歌していた年月を突然また規律がやってくる。規則正しい生活と、労働。時間という概念が身体を支配する。子供の頃の永遠が恋しくなる。野放図な企ても、無茶な行動も、「若さ」のせいにする。本当は自分が「社会」になじんで臆病になっているだけかもしれないのに。
めぐりめぐる どの時代も
今が一番キツい時代だと
そのときどきで
誰もがそう感じるけれど 来年も再来年も
こうして君と一緒にいれるなら
年を取ることも
悪くはないと思えてくるんだ
心color
福山雅治氏の(受験の時にすごく聞いてた)「心color~a song for the wonderful year~」を思い出す。どうやら今が一番キツいと、生きている限り感じ続けなければならないようだ。では生きることは地獄か、死は救済かというとそうでもないらしい。
「こうして君と一緒にいれるなら・・・」という一筋の励ましが刺さる。それは愛する人に向けたメッセージだ。ぼくは働き始めた友人たちに、こんな感じではたらきかけたい。ゆるい共同体意識で、いっしょに年をとっていこう。きつい時代も、同じ時に生きている、横の繋がりを大事にしていこう。僕はあなたたちに死んでほしくない。僕ももちろん死なない。もう少し先で、きつかった時の話を聞かせてほしい。
だから、変化を愛そう。日々変わっていく環境を、その中で成長してゆく「自己」を。その不可逆を、自らの越境を、愛そう。