#30 書評・『華氏451度』 Ray Bradbury
序
受動的なことは概して楽であり、時にそれは快楽そのものだ。それは考える必要が無いからである。考えるという能動性に訴えかけない、あるいはそれを阻害するような享楽は、現代社会よくに議論される問題だ。本を読むという行為は、考えるきっかけの種をくれる。それはそういった快楽主義を乗り越えて現在の周辺に存在する惨禍を直視することである。逃避することではなく。
この本は1953年に書かれたものだが、その世界の設定はまさに現代に向けたものであると言えよう。ディスプレイからの極彩色の刺激、中身のないおしゃべりで生きている時間を削る人々。SFはファンタジーという名前に仮託された、非常に現実的なテーゼがあるのかもしれない。(※以降、作品のネタバレを含みますのでご注意下さい。)
「書を焼く」世界
消防車ではなく、「放火車」を用い、石油を撒き散らしながら書物を焼く。地獄のような光景からこの物語は始まる。「火の色は愉しかった。」という焚書官モンターグは、書を燃やすことへの悦楽を隠さない。世界には性・スポーツを中心とした娯楽が蔓延し、禁じられた書物所持の密告が横行し、人々は記憶と思考を失った愚民と化している。舞台設定はこのようなディストピア。書物を読んで知識をつけると、社会の安寧が失われる、という。しかしその〈安寧〉は、愚かさと思考停止が生み出す無限の停滞であり、かくも悲しきものなのだ。
我独醒
モンターグは、焚書官という立場にあって、書物と接することが多く、どこか気になる少女や、書物と共に燃え死ぬことを選んだ老人、大学教授などといった人々との交流のうち、書物を読み始め、社会へ懐疑的になってゆく。そして上司であり焚書署長の切れ者ビーティに目をつけられてしまう。
社会が違えば、罪の価値観も変わる。中国では麻薬所持で死刑になるし、殺人が毎日のように起きる地域もある。ここに描かれているのは、書物という罪であるが、その罪を負うと、当人は「醒めた」状態になる。「衆人皆酔えり 我独り醒めり」の屈原を思い出す。モンターグは、そしてこの世界において書物の味を知った全ての人は、孤高の隔絶の中にいる。
焚書から再生へ
街から逃れ、難民となったモンターグが出会うのは、書物を頭の中に記憶している老人たちであった。彼らはもはや書物そのものであった。モンターグはここに生きてゆく意味を見出す。自らのうちにそよぐ『ヨブ記』の脈々たる言葉たち。書物を焼き殺すことから、書物を蘇らせる再生者へ、鮮やかな転身である。
文学のない世界
書物が電子の世界に取り込まれ、教育の文脈でも文学が消えていく。実用的な文章、論理的な文章に偏重する流れが、大きな雲となっている。その雨は石油であり、荒廃を約束する。文学というジャンルは手先の実用に傾いた世界で燃える黒い蝶になるかもしれない。『華氏451度』に描かれた「ディストピア」が、リアリズムに転じてしまうことは何としても避けなければいけない。
虚構が虚構のまま、あははこりゃ面白い空想だと笑える世界で、このままいてほしいものである。
底本
レイ・ブラッドべリ著 宇野利泰訳『華氏451度』(Fahrenheit 451)
ご一読、ありがとうございました。 梶原