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自己世界に他人がいない人こそ、創作活動を。

ここ数日、一日に何個も記事を書き連ねて、何か言いようのないスッキリした感覚があり、文字を書くというモチベーションを失いつつある。
多分これで良いんだと思う。
自分は、幾度となくこういう爆発に近い創作活動をやっては、満足してやめるという事を繰り返している。
そいった、爆発して、創造して、それを壊すという事を、実は繰り返している。
自分の創作物は、最終的に壊すものが多い。
なぜなら、創作の最後はいつも、自分があまりにも未成熟で、つまらなくて、取るに足らない、不必要なものをまき散らしている気分になるからだ。
でも、強いて言うなら、自分がつまらなくて、取るに足らなくても、不必要ではない事は分かっている。
だから、結局、ネットの藻屑に過ぎず、サービスの終わりと共に消えてしまう儚いものだったとしても、残した方が、少なくとも今すぐ完全になくなってしまうよりは良い気がする。

自分が、それなりに努力したりしなかったりで、それでも作り上げられた成果物を、どうしたら壊さずに済むだろうという事を、ずっと考えている。
どうしたら自分の癇癪を一旦待て出来るのか。
色々考えては見るが、結局は、想像よりも実践の方がはるかに練習になるのだ。
作りたくなったら作り、壊したくなったら壊す。
そして、「なぜ作りたくなったのか」、「なにが原因で壊したくなったのか」という事を考えていくと、微細ではあるけど、変わっている事に気付く。
そうやって、少しづつ変わっていくのだ。

創作は良い。
一人のまま、一人の世界を表現できるし、「創作物」という大義名分があるから誇る事さえできる。
大半の人間は作らずに、消費する。
厳密にいえば社会に組み込まれることで何かしら作ってはいるはず。
「1から作る」という事はせず、会社という大きな「1つを作る集団」の内で、大きなプロダクトとして、手分けして作っているという事ではあって、その「1から作る」という事は、とてつもなく大きく、そして難しい。
普通の人は、「1から作る」より、人の言う事をきちんと正確かつ丁寧に熟す方が得意なのだろう。
でも、自分らは、人の言う事をきちんと熟す事が出来ない。
人の言う事を理解する事も出来ない。
だから、仕方なく「1から作る」という考え方もある。
自分はそう。
そして、「1から作る」という事を繰り返していると、時に称賛されることもあるし、何より、世界の解像度が目に見えて変わっていくのだ。

称賛される事よりも、創作する事の重要性はそこにあると、自分は思う。
自分は称賛されてもあんまりなんとも思わないタイプなので、そう思うが、称賛されるのが心地よいと思うのなら、道のりは遠いかもしれないが、続ける事が出来れば、絶対に手に入ると思う。
「作りたい」、「壊したい」、そういった欲求を露わにする事が、とにかく重要だと思う。
「作りたいが、不可能だ」と思う気持ちも分かるから、最初はほんの小さなもの、小さな事から始めてみるのが良い。
そこから、少しづつ、本当に少しづつ変わっていって、出来るようになっていく。
そしてそういう経験を通して、少しづつ世界の形から、自分の形が見えるようになると思う。

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