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ゴッホみたいになりたくない、ゴッホみたいな人。

「死後評価される」って、どう思う?
悲しいと思う?
順当だと思う?

答えは各々で置いといて、「死」というものは、なんか良いものだなと思うんです。
いや、死を渇望してるわけじゃないよ。望んでもいない。
でも、「死」というものは、そこで終わりという事なんです。
乾いた絵の具とか、焼き固まった陶器のように、情報が完璧に静止して、残そうと思えば永遠に残る。
あの日にやった喧嘩も、吞んで語った事も、全部そこで止まって、変わらない。
そこから機微が動いて、記憶を思い出して、その機微が返ってくる事も無く、完全に止まる。
そういう美しさがあると、僕は思う。

分からない事は分からないまま、怒った事は怒られたまま、面白かったことも面白かったまま、自分が死ぬまで残る。
分からない事は、分からないから、自分の意志だけで美しくも、醜くも出来る。
生きていると、その人が変わっていくのを見て、自分の意志とは関係なく、思い出や、記憶が美しくも醜くもなる。
そうある事は、あまりにも自然で、当たり前な事だけど、そうある事が、時折苦痛だ。
またそうある事も当然だけど、美しいと思ったものが美しくあり続ける、美味しいと思ったものが美味しくあり続けるというのは、楽だ。

世界は楽にできていない。
これは誰かがそういう風にデザインしたのではなく、そもそも自然、地球、宇宙やその他全てが変わりゆくものだから、どうしても楽にはならない。
それをデザインしたのが神だというのなら、僕は神を殴りに行きたいくらいに、そのシステムに不満を感じている。
でも、ひょっとすると、神を殴る為の列が出来ていたり、そもそも神は自分自身の内の一つだったり、あるいは、神というものが死にぞこないの、苦痛の世界の住人だったなら、「こうなるのも仕方なかったのかな」って思うのかもしれないけど。

そんなこんなで、死というものは、止まっていて、変わらなくなるものなので、好き。
生きていると、動いていて、変わっていくから、大変。
「死後評価される」という事は、死んで止まって、意味を説明できなくなったから、自由に解釈されるようになったという事なのかもしれない。
そういう意味では順当なんだろうし。
評価されることで、もしも幸せになれたのだったなら、不幸な事なんだろうと思う。
それはもう、死んでいて止まっているのだから、誰にもわからないし、答えは存在しない。

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