神に至る方法
個人の中で真理を探る場合、その真理に達することはないだろう。通常であれば真理を探ることもなく死んでいくか、自分の中で真理を見つけたと満足する場合が殆どだ。絶対に正しいということは存在せず、見つけた真理に対して違う真理を探し、内的矛盾を起こし、精神が崩壊する。どちらの意見にも正しい点があると真に自分を信じているというならばそれは天才か狂人である。
通常人間はある枠内に収まっている。黒丸を常人、白丸を狂人とする。この枠から”上”に突き出た存在は天才と呼ばれる。通常の人間であれば、枠に対して視野は一方向しか見ることが出来ず、知らない範囲である自分と違う意見を持っている。そこに関して納得することは出来ないと思うが、これは彼が向く方向を変えたとしても、枠内で彼が認知できる範囲は同様に狭い。
枠内にいる人間は天才になることは出来ないが、その下の狂人になることは可能である。狂人は自らを下位に下げることによってその視野を広げることが出来る。これが選択的無知であり、集団的評価基準を自己的評価基準とする。通常では不可能であり、意図的選択的無知になるだろう。そのため、自分の中で自己的評価基準が集団的評価基準と同義になる時間と分離されている時間が出来、人格が分裂する。これにおけるメリットは、通常集団的評価基準は誰にも認知されることはないが、その瞬間に彼は認知することが可能になる点だ。彼は一時的に神となれる。その状態を別の言葉で表すならば、自己肥大であり、全てを認知できる多大なる全能感に包まれる。また、その状態ではルサンチマンからの脱却も可能となる。有意識のリソースは限られているが、無意識のリソースは無限であり、意識的に物事を行うことがなくなり、意識的に無意識的に物事を行うため予定調和の先を感知することが出来る。
ニーチェの道徳の系譜においても『恐らくここに神々の本当の期限、すなわち恐怖からの期限があるのだ』とあるが、神=先代からの積み重ねとすると、集合的評価基準と個人的評価基準が同一になったとき、神になれるといっても過言ではないだろう。
神になったさいに起こりうることについて記述しておく。
通常精神と肉体は分離されないが、その分離が起こる。通常では肉体と精神は自分の肉体と自分の精神としてそれぞれ関係しあう状態にある。しかし、神になると自分は自分の肉体と精神の上位者として存在することになる。私は通常消失しえないルサンチマンが消失すると、それはアガペーを求めるようになると考えており、ルサンチマンは外部からの反応であるとすると、それが消失するということは自分の意志で決める貴族的評価様式になると考えられるが、貴族的評価様式は育っていないので集団的評価基準に依存する。そして、集団的評価基準は全人類の評価からなりたつので、この場合彼にとってはそれに相応するものであれば何でもよいとなり、依存となる。誰か一人が彼をどこまでも認めることが出来れば、彼が認められていると錯覚させられれば、消失したルサンチマンの代わりとなる。この依存において性差は関係がない。なぜならエロスがかけているからだ。
通常エロスの反対はアガペーとされるが、自分という上位者が存在する彼において、精神と肉体を分離できている状態であれば、エロスの反対にロマンを置くことが出来る。通常状態であれば、ロマンとエロスは分離されず相互に関係されるが、彼は精神と肉体が分離しているので、ロマンとエロスは分離され、ロマンだけで存在できるようになる。またアガペーはそのまま存在するのでロマンとアガペーのみが存在する奇妙な状態となり、この状態において依存が発生する。
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