流水流西田が脱近代宣言を読んでいく①
友達から借りた。
どうやら落合陽一さんという科学にも強いアーティストと、哲学者の清水高志さんという人と、あと上妻世海という人の3人が喋っている本。
マジで世間のこと知らなすぎて誰のことも知らずに何が始まるのかもよくわかんないけどすごい人たちが対談するというすごい脳みそのせめぎ合いが見れるらしい。
読書感想文などという高尚なものではない。
まとめて読むと頭が疲れるし、読んだこと忘れてしまうので少しづつただメモのように記録していく。
いまのインターネットは人間の感覚を通した情報
デジタルネイチャーは人間の感覚器以外から得た情報も表現できる新しい世界
人間はいままで五感に頼っていた情報以外のものを知りうる
カッコの中はおれが思ったこと書いてく
(例えば言語だけでは理解するさせることの難しい精神や概念、
はたまた第六感を感覚も含めた情報として人は知覚することができるのでは?→人が想像して発達させてきた精神世界の概念を数式で表現することができる...ようになるはず。日本語、英語のように言語が違うどころか同じ日本人同士でも語彙力の差や言葉の解釈、使い方などさまざまな違いがある言葉という道具だけでは知覚させることが難しかったものを互いに理解することに繋がる。
争いを避けることの解が相互不干渉であると思われるいまの時代の限界から感覚を共有することによる相互理解が産まれていく→知覚による既存の価値観の破壊からの新しい世界はどうなっていくのか...)
68Pまで読んでの感想。
(さまざまな角度から世界を分解していくイノベーター落合陽一。一如を地で行き見た世界をアートとして提示しようとする落合陽一の頭の中を覗いて、いまとてもシンパシーを感じている。おれの今の気持ちは癒されているという感覚に近い。自分を保つ唯一の方法が一休さんと落合陽一は言っている。カラスが見えなくてもカラスの声がすればカラスがいる。見えなくてもある、仏も同じように。落合陽一はバランスやグラデーションが大切と考える。それは人の心も同じで多くのものが見え過ぎると自分を保つことが難しくなってくる。そうすると自分自身のフィルターの解像度をわざと落とすようなことが必要になってくる。おれはlonelyという曲で「偏ったままのコントラスト」と言っていた。この頃すでに無自覚に自覚していたというか、おれは20歳頃まで頭で考えすぎて自分の感情や深層心理に目を向けて来なかった部分があった。いや、そうではない。極端に感情的になるか頭を使うために自分の世界に籠るか、どちらかを気分によってずっと使い分けていた。それは人前の自分と、人に見せたくない自分とのせめぎ合いだった。人に見せたくない自分というのは「考えている自分」。子供の頃から頭が良いと言われて大人を口で翻弄して言い負かして遊んでいたクソガキの肥大したプライドを置いてけぼりにした。13歳の時に児童養護施設に入所して、そこに馴染もうと全力を尽くした結果、知らずに置いてきぼりにしてしまった。いつまでも13歳くらいで時の止まった「頭のいい翼くん」のプライドを惰性で大人になってしまった「やる気のない怠惰な西田」が引きずり回していじめていた。」
かなり話が脱線しているが、おれが統合失調症と診断されるまでの要因はそこにあるのでは無いかとおれは考える。
はじめに涅槃寂静を感覚で理解した時に、おれは自分が崩壊することを止められなかった。
人に合わせてずっと生きてきたと言っては語弊があるが、はみ出したくない寂しさに負けて自分を殺していた自分が許せなくなってしまった。
その感情のために何人の人を傷付けてきただろうか、罪の意識が大きくなりすぎて世界から監視されているという誇大妄想にまで陥ってしまった。
その世界に完全に飲まれて仕舞えば別の人生だったのかもしれない。そのおれを俯瞰して冷静に理詰める自分が現世に留まることを強制し、その狭間でおれは動けなくなっていた。)
78Pまで読んだ。
疲れたからまた。