新自由主義の中心で「美」の復権を叫ぶ 加藤洋平『成人発達理論から考える成長疲労社会への処方箋』を題材に
インテグラル・コミュニティーの友人で、知性発達学者・現代思想家の加藤洋平氏の新著『成人発達理論から考える成長疲労社会への処方箋』(日本能率協会マネジメントセンター)が上梓された。
ここ数年の加藤さんの探究は、発達心理学者としての狭い専門性の枠を超えて、社会の構造的な病そのものを対象とするものへと移行している。ここで加藤さんが対峙しているのは新自由主義が人々にもたらす成長疲労である。
インテグラル理論、および発達理論を学ぶことの一つの価値として、後慣習的(Post-conventional)な段階について意識を向けられるようになるということがある。
我々がほとんど無意識化しており、自己の思考や行動のパターンとして内面化してしまっている時代の病理を見つけ出すこと。私たちが自明のものであり、また善であると考えている事柄に対し疑問を投げかけ、その道徳的な装いの裏に隠されている暴力性を暴いてみせること。
普通の人であれば自らを心地よい眠りから醒ますようなことをわざわざする理由はなく、まどろみのなかに身を委ねるであろう場所において、後慣習的段階の人々はその世界のあり方を受け容れることに激しく抵抗する。
鬼滅の刃の無限列車編で、炭治郎が強制的な夢から醒めるために自らの首に刃を突き立てねばならなかったのと同じように、後慣習的段階の自己を生きるということは徹底的な自己否定の道を歩むことであり、古い自己を一度殺すことに他ならないのである。
加藤さんの今回の著作は、そうしたリスクを敢えて引き受けるものであり、同じ道を歩む者として非常に勇気づけられるものであった。
以下、加藤さんの著作を読み、僕自身の問題意識と一致すると思われた点について、思考を整理する意味でここにまとめておきたい。
新自由主義の対象化――自らの疲労に気付くということ
最近「新自由主義批判」の批判をよく目にするようになった。
「新自由主義批判」は、何でもかんでも新自由主義のせいにしており、新自由主義という概念が、しばしばあまりにも雑に使用されているというのがその主張である。
しかし、僕はまるで反対の見解を持っている。
新自由主義は、現在の社会問題の多くをその言葉によって説明できてしまうほどに有効な概念であり、それゆえ「何でもかんでも新自由主義のせい」にすることができてしまうように見えるのである。
言うまでもなく、正当な範囲を逸脱して、全く的外れな対象に新自由主義をぶつけている例も存在はする(たとえば、新海誠の『天気の子』は新自由主義だ、といったような)。けれども、そうした極端な例をもって新自由主義という概念そのものを無効化するというのもまた愚かなことであるだろう。
僕はむしろ、この社会の問題の多くが新自由主義によってもたらされているものであるにもかかわらず、ほとんどの人々が新自由主義という概念を十分に認識できていないことに問題の本質があると思う。新自由主義の定義が曖昧だとか、雑な使われ方をしているだとかいうことはそれこそ市井の人々の生活実感にはまるで関わりのない学者の議論である。問題は、背後から我々の首根っこを掴み、我々の意識を知らず知らずの内に規定している「新自由主義」という呪いを、我々の目の前に見据えて明確に対象化することにある。
そのようにしてわれわれの意識を拘束する思想を対象化することはとても重要で、意味のあることである。ケインズも次のように語っている。
そうだとするなら、この「新自由主義の対象化」こそ、現代の喫緊の課題である。もし、多くの人が新自由主義という概念を理解し、その概念を通して今の社会を眺めるならば、自民党や維新の会がここまで勢力を伸ばすこともなかったであろうし、その欺瞞をたちどころに見抜くことができたはずである。しかし、多くの人にとって「新自由主義」という言葉はそこまで強い関心を惹くものではない。だから、未だに新自由主義的な思想が人々に与える害悪の存在について、十分に認識することができずにいるのだ。
したがって、「新自由主義批判」批判は、結局のところ権力を利することにしかつながらない。今やらなければならないのは、むしろ、新自由主義を徹底的に実体化し批判すること、身体の声に耳を傾け、私たちは疲れているのだということに気付くことである。
肯定の過剰
新自由主義には「ここまで来たら満足」という地点が存在しない。
それゆえ、私たちは疲れている。慢性的に疲れているので、今の自分が「疲れている」という状態であることにすら気がつけないほどに疲れているのだ。
この疲労を覆い隠すのは、ビョンチョル・ハンの指摘するように、「肯定性の過剰」である。私たちは、つねに私たちのありようを肯定的に語らなければならないという圧力に晒されている。
そこにあるのは、私は「できる」ということに過剰に価値を置く社会である。
そこでは「できない」のではなく「しない」ということが時として倫理的な実践になり得るという側面が見逃され、「行動」に過剰な価値が置かれる。行動した者はその行動の如何を問わずすばらしいのであり、行動しなかった者は、いかにその「~しない」に倫理的な判断が含まれていようと、無条件に否定される。
つねに自らの能力を誇示し続けなければ生きていけない社会。メリトクラシー。そこでは社会問題ですら「私の能力や努力が足りない結果」であると解釈され、精神的なエネルギーはつねに否定ではなく肯定へと振り向けられる。
人々はその肯定が「誰にとっての」肯定なのかということを考えない。そうしてひたすらに搾取され続ける構造は温存されていくのである。
言葉の正しい使用
ここで我々に問われているのは、我々のあり方を無意識に規定している言葉の作用にいかに対峙していくかということである。
我々を支配しようとする暴力的な言葉は、つねに肯定的な装いで我々に提示されている。親や、教師や、上司から日常的にそうした肯定的な言葉を浴びせられることによって、我々自身が日常で使用する言語にそうした思想は知らず知らずのうちに浸食し、完全に内面化される。はじめは他者からの抑圧的な言葉に過ぎなかったものが、主体的に信じられ、実践される「道徳」の地位を獲得することにまんまと成功したのである。
我々は、それが肯定的に表現されているというただそれだけの理由によって、それを否定するということを禁止される。
たとえば、「成長」、「成功」、「誠実」、「多様性」、「SDGs」などの言葉について考えてみよう。これらの言葉は、肯定的な価値と分かち難く結びついているように感じられる。それゆえ、これらの価値を否定するのは困難であるように思われる。したがって、本当はこれらの概念がどのような現実を反映しているのかということに目を向けなければならないのに、言葉そのものが絶対的な価値を持つものとして我々の思考や行動を縛ることになる。
反対に、否定的な響きを持つ言葉は、その否定的な響きゆえに無条件で「良くないもの」とされてしまう。たとえば、「国の借金」と言われると、我々はそれを返さなければならないものと思い込み、返せていない状態を「良くないこと」であると考えるようになる。そして「無駄を削る」ことを主張している政治家を見ると、それだけで道徳的に優越しているかのように見えてしまう。本当はその「無駄」は「余裕」という肯定的な言葉で表現しなければならないものであるにもかかわらず、である。こうして我々は「無駄を削る」と称して社会の「余裕」を削ってきたのであり、そのことは今の日本社会の停滞の主たる原因をつくり出していると言っても過言ではない。
ここに見られる否定的なものの肯定的な表現、あるいは肯定的なものの否定的な表現は、我々のリアリティを規定し、実際に多くの社会問題を引き起こしている。たった一つの言葉の誤用が、ここまで多くの人の生命や、生活や、文化の破壊に多大な影響を与えているというのは恐るべきことである。
我々は、言葉そのものが独り歩きして、独裁的に振る舞っている現状に対し抵抗する必要がある。我々の日々の思考や発話や行動を通じて。
言葉が現実に与える影響について真剣に考え、言葉を正確に用いること。
言葉と現実との緊張関係をもう一度取り戻すこと。
紋切り型の表現を使わないこと。
典型的な反応をしないこと。
名指すものと名指されるものの間にズレを生じさせること。
意味の絆を断ち切ること。
これらの言語的な実践によって価値の転倒を試みることこそが、後慣習的なフェーズに移行した人々に課せられる責任なのであり、新自由主義的な社会に抵抗する唯一の方法なのである。
そして、これは「美」の領域における判断軸を自分のなかに持つことを要求する。これが、加藤さんの新著における重要なメッセージであるように思う。
美の意味
新自由主義とメリトクラシーの蔓延によってあらゆるものが測定可能な存在へと貶められる中で、自分の物の見方を確立させるということは非常に困難になっている。
たとえば、私たちは、ビジネスの現場で「真・善・美」のどの基準に沿って言葉を用いているだろうか。そこで尊重されているのは圧倒的に「真」の基準から見た思考や発話であり、「善」や「美」の優位を主張することはほとんどないのではないだろうか。「君のプレゼンは合理的で、戦略も申し分ない」と評価されることはあっても「倫理的だ」とか「美しい」といった評価を受けることは稀だろう。全てのものを測定可能性で評価するフラットランドの世界においては、主観的な領域から導かれる言葉はノイズとして排除される。私の「パーパス」や「ビジョン」が受け入れられるのは、あらかじめ許容された範囲においてそれを語る時のみであり、測定可能性が損なわれたり、ネガティブな数字に結びつくことが想定されたりすれば即座に拒否されるものとなるだろう。
私たちは、あらかじめ設定された美しさを見て「美しい」と感じることしかできなくなっており、「美」そのものに触れる経験を――そうした経験は、私の生の固有性と、私と世界の出会いがこの宇宙にもたらす出来事の一回性を深く受け入れた時にのみ与えられる――ほとんど持つことができなくなってしまっている。
そこでは、生の意味は「目的」-「手段」の系列に絡め取られ、全てのものを特定の目的に奉仕する手段へと貶めることによって、私たちの存在の条件である固有性・一回性と、世界における「新しいはじまり」の可能性を摘み取ってしまうのだ。
この世界に「美」が存在することに意味があるとすれば、それは「美」によって開かれる人間の空間こそが、こうした黒く重い「虚無」から身を守ってくれる唯一のものであるからだろう。
したがって、成長疲労社会への何よりも強力な処方箋となるのは、外部的な基準に定められたイメージに自己を合わせて一喜一憂することではなく、自分自身のなかに自分を満たす基準を持つこと、すなわち、「美」を自らのなかに育むことである。
たとえば星を見る時、生活上の心配事から離れて、ただ純粋に星を見るということは意外に難しい。しかし、それを試みてみよう。そして、できれば、私と星との間に固有の関係を結ぶことをも私たちは試みてみるべきである。それは詩人の眼を持つことであり、私がここにいま生きていることの意味を開示する契機となるはずである。
加藤さんがこの本のなかで紹介している「ワーク」は、こうした美意識を我々が取り戻すための最初の一歩を踏み出すために有効である。しかし、それは同時に「最初の一歩」としての限界を持つものであることにも留意されたい。ともすればそこには、新自由主義という巨大な力を前にして、私的な領域へと退くことを唯一の選択肢としかねない危険がある。全ての原因と責任を個人的な営みに還元する発想は新自由主義の一変種に過ぎず、根本的な変革にはつながらない。我々が自分自身のなかにある「美」を発見することができたなら、そこにある真実がこの世界のなかに根を張ることができるように私たちは戦わなければならない。「美」と「真」と「善」の間の調和を図らなければならない。実際に、社会の変革に向けて連帯し、動き出さなければならないのだ。
僕はそこまで踏み込みたいと思っているし、加藤さんもすでにそこまで思索と筆を進めているであろうと思う。ケン・ウィルバーに続くインテグラル理論の第二世代として、加藤さんとは今後もこの問題意識を共有していきたいと考えている。