【W】承認欲求・自己顕示欲の捉え方
主人がやたら熱く推していた兵庫県知事絡みで、とあるPR会社の社長さんがバッシングを受けているようですが、(この情報も主人が鼻息荒く教えてくれた)その叩かれ方に、承認欲求が強い、というのが目立つように感じました。今回はこの「承認欲求」についてちょいと考えてみます。
「こんなに素晴らしいもの・ことがあるのだから、広めなくては!」と布教活動に勤しむ人は一定数いるが、わたしはそのような人たちの気持ちを露ほども理解できない。自分がよいと思っているものを他人とシェアしたいという気持ちがまるで湧かないのだ。むしろ、よいものは独り占めしたいと思う。自分だけの花園にしておきたい。
しかし、わからないなりにそういう種類の人たちを分析すると、「いいものを普及させたい」「推しの活躍を応援したい」という外界への純粋な貢献欲に、「こんなにいいものを知っているわたし、素敵でしょ」という自己顕示欲が入り交じっているように思う。(その比率は個々人によって違うとして。)
前者は冒頭で述べた通りさっぱり理解できないが、後者はある程度共感できる。布教活動を積極的にしない派とはいえ、納得のいく文章が書けたとき、多くの人に読んでもらいたいと自然に湧き上がる欲求がそれだろうと思う。ただし、わたしはこれまで、その欲を満たそうと積極的に行動することはしてこなかった。「能ある鷹は爪を隠す」を美徳とするから、というのが端的な理由だが、それでは現代社会では成り上がれない。自己プロデュースがものを言う時代だ。戦略的な自己演出は、他者との比較にさらされる中では強力な武器になる。例えば採用面接で、上司との面談で、よりよい評価を得るために自己アピールをすることは必要不可欠。その際にこの欲求は抜群のアシストをしてくれる。「自己顕示欲」という言葉の響きはあまりいいものではないが、過剰でない限り、悪いものでは決してない。むしろこの欲求が効果的に原動力に昇華されれば、届く人に自分の活動が届き、広く評価を得られる可能性が高まるわけで、社会に生きる上ではある程度は持ち合わせた方がよいものと言えるだろう。
今回の導入部分で触れたPR会社社長さんのことを話題にあげる際は、「承認欲求」というよりこの「自己顕示欲」が高いという表現の方がしっくりくるようにわたしは感じている。心理学界隈ではこの二つの言葉についてきちんと定義分けがなされているのだろうが、そちら方面には明るくなく、知識も乏しいため、あくまで持論として以下は読んでほしい。自己顕示欲とは、あくまで自分が主体。相手の反応如何にかかわらず、(もちろん好意的な反応なら嬉しいが、)とにかく自分を世に知らしめたいという欲求を指す。他方、承認欲求において、判断の主体は他者となる。答えはいつも自分の外側にあり、誰かの正解になりたいがために奔走する。当該社長さんに承認欲求が人一倍あったかどうかは、側からは判別しかねる。ただし自己顕示欲は旺盛なように見受けられる、というのが個人的な見解だ。ちなみにわたしは承認欲求については人並み程度、いや、もしかしたら並み以上に持ち合わせてる。
承認欲求が強いことは、言い切ってしまうが、不幸である。答えは常に流動的。時代や環境、対象者の気分や機嫌によって左右される。それを常に追い求めることは、ゴールも身を寄せる基地もない一帯をひたすら彷徨い歩くことと同義である。ただし、マズローも定義している通り、それは自然発生的に湧き出てしまう欲求だ。健全な範囲に収まっていれば問題にはならない。ものすごく注目されたいわけでも、賞賛を浴びたいわけでもない。ただ、「自分はこのままでいい」と認められたいだけ。「自分はここにいていい」と許されたいだけ。他者からのお墨付き、とでも言い換えられようか。その程度を望むのは、社会に生きる人間ならば当然のこと。そんな素朴な欲求さえもなかなか満たされず、人はフラストレーションに苛まれるのだが…。
不健全な承認欲求の有り様についても考えてみよう。「自己肯定感」という、これまた心理学用語?があるが、これが低い場合、つまり自分で自分を肯定する力が弱い場合には他者によって足りない部分を補おうとするために、承認欲求は強くなりうる。その上、高い「自己評価」に他者からの承認度合が及ばない場合どうなるか。「自己評価」とはすなわち、よそ様との比較において自身の優劣を判断すること。
自己肯定感=自分に対する絶対評価
自己評価=自分と他者を比べた相対評価
という図式になるかと思う。低い自己肯定感+高い自己評価は最悪コンボである。恐ろしいことに、わたしはこれに当てはまる。
客観的に自分の程度を把握できていないということなのだろうが、どうしようもできない。かつ、前述のように「能ある鷹は…」と自己アピールしないくせに、正当な評価を得られないと言って唇を噛み、地団駄を踏んでいるのだ。我儘を自覚しつつ、性懲りもなく承認欲求に振り回され疲弊している。
ところで、わたしはInstagramをやっている。当初は直接の知り合いたちがフォロワーにいるアカウントで、日々の何気ない写真を気分のままに投稿し、いいね!がもらえたら嬉しい、という標準的?なSNSの楽しみ方をしていた。しかし、今年の春に突如やめた。特にこれといったきっかけがあったわけではない。
厳しい冬の寒さが和らぎ、緊張した神経が一気にほぐれると、精神が不安定になることはないだろうか。(春先になると少々おかしな人が街に増えるという話を聞いたことはないか。)その影響かわからないが、とにかく暖かくなってきた頃にふと、投稿する際にいいね!を少しでも期待している自らの承認欲求に嫌気がさしたのだ。
そこでわたしが始めたことは、リアルでつながっているフォロワーのいない匿名アカウントを新たに開設し、ハッシュタグなしに、自分のなせる最大限の映え写真を投稿し続けるという謎の取り組みだった。なぜこんな行動に出たのか当初自分でも理解不能だったが、今回の記事を書いているうちに、ひとつの考えが浮かんだ。わたしは、自分に不要なもの=「承認欲求」(=他者からの評価を受動的に求めること)を抑え、自分に必要なもの=「自己顕示欲」(=自分の良さを能動的に表現しようとすること)を育てようとしたのではないか。
そんな取り組みを半年ほど続けたが、結果は奮わなかった。フォローはひたすら主人一名のみ。いいね!は0。他者からの反応のないSNSはつまらないということもよくわかった。やはりSNSは承認欲求を満たすツールでもあるのだなと実感。最近の投稿からハッシュタグをつけ始めてみたが、いいね!は未だない。(プロフィールにリンクを設定したので、興味のある方はご笑覧ください。)
話が行ったり来たりしている気がするが、まとめると、承認欲求は不幸の種だが自然発生してしまうもの。健全な範囲に留めるが吉。自己顕示欲は、現代社会では有利に働き、強みになりうる。(過剰でなければ。)
わたしの今後の課題は後者を正しく発動させ、自己主張の力を養うことである。Instagramではなかなか花咲かないが(撮影技術のせいということにしている)、めげずに、今度は文章でアピール力強化に励んでいる。そう、このnoteで。