終わらぬ、「あと2週間」。
ナチス・ドイツのある強制収容所では1944年のクリスマスと1945年の新年のあいだの週に、かつてないほど大量の死者を出した。収容所の医長の見解では、過酷さを増した労働条件や悪化した食料事情、気候の変化、新たにひろまった伝染病の疾患が原因ではない。
むしろこの大量死の原因は、多くの被収容者が、クリスマスには家に帰れるという、ありきたりの素朴な希望にすがっていたことに求められる、という[フランクル 2002:128]
クリスマスの季節が近づいても、収容所の新聞はいっこうに元気の出るような記事がなかった。そのため、被収容者たちは一般的な落胆と失望にうちひしがれた。これが、年末の大量死につながったのだ。
これは、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』の中で出てくる話だ。
なんだか、緊急事態宣言を明けるのを待つ私たちの状況みたいだ。
緊急事態宣言は5月6日(水)に明ける。
無事に7日をむかえられるのか。7日はどのように過ごしているのだろうか。その後はどうなっているんだろうか。
あと、2週間。
ニュースやラジオでも「あと2週間」と言っている。
でも、この「あと2週間」はここ1ヶ月程度言い続けているように思う。
オリンピックを開催するかどうかを悩んでいた時分にも、「3密」や「ソーシャルディスタンス」が唱えられ始めた時分にも、緊急事態宣言を宣言するかどうかを決めかねていた時分にも。
ずっと、「あと2週間」と言っていた。
いつ終わるんだろうか。この「あと2週間」は。
そう思い始めると、5月6日にすっかり回復した状況がくることを期待していては裏切られたときに心は破綻しそうだ。
「クリスマスには収容所から解放される」と思い続けていた人々のように、「6日には外出して友達に会うことができるんだ」とその期日を素朴な希望としてすがっていたら、悪化していく状況に気持ちが続かないだろう。
フランクルの話ではニーチェの言葉が紹介され、次のように続く。
「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」ニーチェ
生きる目的を見出せず、生きる内実を失い、生きていてもなにもならないと考え、自分が存在することの意味をなくすとともに、がんばり抜く意味も見失った人々はよりどころを一切失って、あっというまに崩れていく。[フランクル 2002:128]
そして、彼らはこう口にする。
「生きていることにもうなんにも期待がもてない」[フランクル 2002:129]
と。
「あと2週間だ」なんて思わないで、今後はウイルスたちとも共存していくと考えておいたほうが、「思っていたより早く良くなったよね」と言えるかもしれない。新しいポストコロナの時代も受け入れられるかもしれない。
素朴な希望にすがっていては心が破綻する可能性がある。
しかし、どんなときも希望は必要だ。「ショーシャンクの空に」でもアンディーは、最後まで希望を持ち続けることの大切さを教えてくれた。
細く長い希望をもちつづけ、今の状況を少しずつ受け入れ、愛すことが自分の心を保つにはいいのではないだろうか。
2020年4月23日木曜日。
今日は寒かったが天気の良い日だった。住んでる自治体の市長選が近々ある。今日支所に行ったら期日前投票が始まっていた。私はいろいろ移転しているために、この度は選挙権がない。選挙には行ったほうがいいぞ、と思いつつ用事を済ませた。