文字から凄みを感じた 『かか』
恐ろしい恐ろしい。ゾッとして落ち着かない。さっきからずっとベッドの上でキョロキョロしている。
宇佐見りん『かか』を読んだ。
読み始めは、色と気持ち悪いにおいが飛び出てくるような描写で視野がぐらぐらした。発狂するかか=母や、主人公うーちゃんの思うの女性性の忌まわしさが迫ってくる。
そしてある目的のために和歌山の熊野に旅に出るのだが、うーちゃんのSNSアカウントとしての「ラビちゃん」が出てくるシーンからは、急ハンドルを切った直後みたいに酔いながら読んだ。
さっきと違う景色が増えた!もちろんさっきまでと繋がっている。広い世界に出ていくのではなく、自分の奥に奥に潜っていくタイプの物語だ!
うーちゃんは19歳になっても、あえて、幼少の頃使っていた喃語のような「かか弁」を地の文に使い続けるし…
こんな文字から凄みを感じる本は初めてだ。
不幸に狂うかかと、連動してその痛みを分かつうーちゃん。身内の痛みは自分の痛みに感じる習性がある。だから暴れるかかが誰よりもにくいし、誰よりも捨てられない。
この感情をなんと呼べばいいんだろう?
うーちゃんは、不幸に耐えるには、自分が周囲で一番不幸だという信仰に浸るしかないことに気付いている。もっと不幸な人に出てこられたらかき消されるからだ。「生きてるだけまし」に収束させられたら不幸でいられない。
この鋭さを「かか弁」で描ききる恐ろしさを体験した。うーちゃんが、かかの苦しみの原因を追求し、自分のいのちにそれを求め、祈りとともに旅に出て、そして熊野の開けた景色が視界に入っているはずなのに、うーちゃんはうーちゃんとラビちゃんを行き来しながらひたすら閉じて考える。それに立ち会うことが出来て戦慄したんだと思う。
さっき父親からわけの分からない電話がかかってきて、うんざりしていたのがじわじわ効いていた。
今日はちょっと眠れないかも。