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孤独の意味も、女であることの味わいも

最近努めて男性の書いた本だけ読んでいた。
実家の本棚から大江健三郎の『死者の奢り・飼育』を見つけて引っ張り出したり、読後にサルトルの実存主義を検索したりした。あ、これ倫理の授業で習ったな。本棚にあったのは多分高校時代の課題図書だったからだ。

さて、久々に会った彼は東京土産のかわりに3冊本を渡してくれた。一冊は柴田翔の小説、もう一冊は『死者の奢り・飼育』。まじで?私も昨日読んだよ!
最後は三浦瑠麗氏の『孤独の意味も、女であることの味わいも』だった。これだけいかにも女女したタイトルで表紙は美人な著者の顔写真で、なんとなく興味がわかなかった。

彼女は著名人らしい。私は最近あまりテレビを見ていなかったために、氏が東大卒の国際政治学者としてコメンテーターをしていたことも、夫が横領の罪で起訴されたことも知らなかったが…。
政治的主張など前情報なしに、知らない女性の自分語りを読み始めた。

エッセイとはまた違う独白的なメモワール。
メモワールとは、フランス語で「記憶」のこと


子供のころから孤独だった。
性暴力にあった。
女によく憎まれた。
田舎の祖母宅では女とは男の従属だった。
女性性を出すと母親は煙たがった。
見られる存在の「女」という意識が未だある。
死産を経験した。
大人になって自立した現在、夫との距離感は心地よく、子供のころとは別の孤独を手に入れた。
愛する娘に独り言を言う、私はとても幸福で、とてもさみしかったのだ。

共感ではない。同情でもない。
でも読みながら涙が止まらなかった。
もっと女であるという意識から離れてしまえば楽なのに。男女関係なく完成物だけ求められる仕事をしてもいいし、いかにも庇護対象らしく振る舞いながら内心は男って馬鹿ねぇと思っておいてもいいし、あるいはスカートなんか履かずにいっそ男性化してしまってもいい。

思いつく身の守り方はいくらでもあるのにやらない。三浦氏はどこまでも、自分を女であると強く自覚しながらそれにこだわって闘ってるように思われた。「女性らしく」可憐でいたいし、かと言って「女性らしく」男の格下になるのも嫌だ、自分で解決したい、行ったり来たりするうちに孤独が深まる、もはや孤独すら自分だ、自分は女だ、という感じだろうか。

女が男の行動様式をなぞることはほんとうの解放にはならないと私は思うし、服装にしても女性的イメージを避けたり、好きなファッションを諦めたりすることこそ、抑圧だ。だが、人びとの頭の中で女らしい外見は抑制や遠慮とセットになっている。女である自分を否定せずに「自由」を手にするには、常に率直すぎるほど率直に振舞う必要があった。

p185 「孤独を知ること」より


最近私が、あえて男性作家の本ばかり手に取っていたのは何だ。私自身、香水の匂いがする女性っぽい文章を書きたくないと考えていた正体は何なんだ。

最初はそんなに興味なく読み始めた本が急に核心に迫ってきてどきどきした。存在もしない赤子とその父親をイメージし、勝手に重ねて号泣していた。
こんな訳のわからん読書体験は初めてです。

スペイン料理店のカウンター席にて

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