桐壺登場 その三 弘徽殿女御について語る
その三 弘徽殿女御について語る
朱雀の御所の一の院は、先帝の崩御により御位につかれたお方です。先帝には幾人も御子があり、立派な皇太子さまもいらっしゃったのですが、この皇太子さまはいつの間にか、何故か、いらっしゃらなくなりました。
こうして一の院は即位され、御自身の御子を春宮とお定めになりました。その次の春宮も一の院の御子としました。が、この御兄弟には然るべき外戚がなく、一の院は中宮もお立てにはなりませんでした。
このようにして一の院の御譲位はすでに決まっていたことのようでした。御在位の期間はどれほどであったでしょうか。ともあれ世の中をひっくり返すという聖なる御業を成し遂げた一の院はさっさと御位をおりられたのでした。
こうして今の御代は始まったのですが、帝には春宮時代に男御子がお一人お生まれになっておりました。ごく短い春宮時代に御誕生した男御子です。その母となるお方は、その以前、帝が自らの足でお通いになられていた方でした。よくいる貴族の女です。世が逆転するなどと誰も思いもしなかったその頃、中の品のその女は諸王のお一人に過ぎなかった彼と普通に出会っていたのです。特別でない恋をしていたのです。それから世界の方が逆転したのです。
これがどういうことか分かりますか。内裏におわします帝の後宮へと送り込まれる女たちの思いをこれほど馬鹿にしたやり方はありません。
さらに彼女の父も逆転して右大臣です。もう空いた口がふさがりません。
そんな成り上がりの右大臣、さぞ優秀なのか、と言うとそうではありません。右大臣はご機嫌取りが能だけの凡人です。派手好きなのは見栄っ張りだからです。器の小さなお調子者です。それゆえ世をひっくり返すという聖なる御業にまんまと利用されました。そんな小者がよく使い捨てされずに右大臣にまでなったものよ、うまく立ち回ったものよ、と呆れましょうが、それもこれも長女である彼女の非凡な才能の成せる業なのでした。
彼女は弘徽殿女御。
いとやむごとなき際へと問答無用に登場した彼女も均衡破りの怪物です。人々は並外れの怪力を苛立ちながらも羨んでいました。
ありえない、ありえない。何という破廉恥な女。図々しいの真骨頂よ。
人々はざわつき、彼女は今をときめいていました。
彼女は私に似ているのだと思う。私は彼女がよく分かる。彼女は逆様になった私。
それに私に夢中のあの人は、かつて彼女に夢中だったのだから。あの人、結局、夢見がちで甘えん坊なだけだから。よく分かる。
ときめく彼女の手駒は強力。後見は右大臣。身分は女御。男御子をすでにお産みになっていて、いずれは中宮、国母。何もかも私とは対象的な、確実性の彼女。
私の後見は落ちぶれた故大納言だか落ちぶれた公家だか何だかで、社会的には無いにも等しく、身分は列記とした妃の一員でいながら、いとやむごとなき際にはあらぬという、何だか歯切れの悪い言い方で前置きされる更衣。中宮にも国母にもなれない儚い身の上。不確実な私。
でも何もかも正反対でありながら、私たちは共に最強だった。あまりにも最強すぎた。私は不確実性によってときめきたまいて、彼女は確実性によってときめきたまう。私たちは左右逆転して映る鏡のようによく似ていて、共に最強すぎて傷だらけの、そういう代償を伴う戦い方をしていた。
代償。いいえ、そうではない。
投資、代価、支出、債務、損害、利益、取引。
いいえ、そうではない。
愛の問題ではない。
では何。
私たちは何を戦っているのだろう。
ここは女の限界の象徴、後宮である。
悲しい。悲しい。悲しい。
それを御寵愛とか言うな。
女のくせにとか言うな。
戦う私たちは確かに人間という怪物でした。
間もなく私は身籠りました。