見出し画像

雪解けの頃に【3】

その後も僕は、ほぼ毎日この喫茶店に通うようになった。冬の終わりを迎えた町は、まだ冷たい風が吹くものの、ところどころに雪解け水が流れ、小さな芽が顔を出し始めている。この季節の町には、少しずつ春が染み込んでいくような、独特の落ち着きが漂っていた。

ある日、カウンターの奥にいつもの年配の男性が座っているのを見かけた。彼は、穏やかな表情で田島さんと話していたが、僕に気がつくと、こちらに軽く手を挙げて微笑んだ。何気ない仕草だが、どこか懐かしさを感じさせる温かさがあった。

「今日はもう少し暖かくなりそうだな」と彼がぽつりと話し始めた。

「そうですね。少しずつ春が近づいているのを感じます」と僕が返すと、彼は少し視線を落として頷いた。

「若い頃、この町を離れようと思ったことがあるんだよ」と彼はゆっくりと話し出した。「都会に行って新しいことを始めたかったんだ。けれど、なぜか心が落ち着かなかった。この町の静かで変わらない風景が、どうしても心に引っかかっていてね」

彼の言葉に、僕はふと胸が締めつけられるような感覚を覚えた。町の古びた建物や人々の穏やかな暮らしには、目に見えないけれど確かな温かさがある。そんな町の空気が、彼をいつか再びここへと導いたのかもしれない。

「この町に戻ってきてからは、何気ない景色がとても愛おしく思えるんだ」と、彼は少し照れくさそうに笑った。

僕もいつか、この町の風景や人々が忘れられなくなる日が来るのだろうか。そんな思いが、心のどこかに静かに芽生えていた。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?