街にうごめく影 7
俊介の覚悟
俊介は、
「ごめん、僕、帰るよ。次のときに、必ず話すから、ホントごめん」
顔は青ざめふらついて今にも倒れそうだったが、なんとか立ち上がれるようになると、そういって帰って行った。
「大丈夫だから」と言い張っていたが、とても大丈夫そうには見えなかった。このままひとりで行かせていいものなのか、華は躊躇した。今からでも後を追ったほうがいいかもと思い始めていたら、
「ボクらも、帰ろう」
誠も足を引きずりながら歩き出した。こっちもそうだ。
痛そうに顔をしかめている誠をこのまま一人で帰らせるわけにはいかない。華は何度も肩を貸すといったが、誠も「大丈夫、大丈夫だから」というばかりだった。仕方なく華は誠に付いて行く。
ふたり押し黙ったままマンションまで歩きそこで別れた。
俊介のあの様子はあまりにおかしかった。
何があったのか分かっているのだ。とにかく「次のときに話す」という言葉を、誠も華も信じるしかなかった。
誠はその夜、母から「ワークアウト ドルフィン」の新しいニュースを聞かされた。仕事終わりに連絡があったという。地元のテレビ局のニュース番組でも流れていたらしい。
「あと四、五日くらいで再開だったんだけど、この点検でどうも他にも不具合がみつかったらしくって、本格的に建て替え工事をするんですって」
「へっ、そうなの」
老朽化が著しかったらしい。耐震性にも問題があり、電気系統の不具合も顕著だったという。
―――それじゃあ、昼間の停電もそのせいだったのか。
「でね、工事は、半年はかかるそうよ」「ふーん」
「よかったじゃない」「え、なにが?」
「気が乗らなかったんでしょこの頃、スイミング」
「いや、そんなこと、ない、よ」
ごにょごにょと口ごもってしまった。そうだといっているようなものだ。
「で、隣街のスクール、勧められたんだけど、どうする?」
「そう、なの。それは、また考えるよ」
「それよりその足、どうしたの?なんか、痛そうじゃない」
「ああ、ちょっとひねっただけさ」
湿布を張り付けておいたら少し治まってきた。明日には痛みも引くだろう。それにしてもこの痣。
―――これはどう見ても人の指のあとなんじゃないか?。そう小さい子どもの指のあとに見える。あの俊介の顔、あれはどう考えても普通じゃない。やっぱり何か知ってるんだ。それにしても、かなり具合悪そうだったな。
あいつ、明日、学校来れるのかな。
その俊介は、帰るなり寝込んでしまった。
なんとか歩いて帰って来ることはできたが、体は重く熱も出ていた。
思わず影を踏みつけてしまった。いや踏みつけようとしたら手を離したのだ。なのに、こんなダメージを受けるなんて。信じられなかった。
なかなか眠れない。昼間のことが繰り返し目の前に浮かんでくる。
消える前、あの影は、こちらを向いて「しゅん」と呼んだのだ。
そして、笑う口元が間違いなく弟の啓介だった。
それでも熱のせいなのかいつの間にか眠りに落ちていた。
夢の中に遠い日の情景が広がっていた。
「あれっ ねえ おかあさん ぼくの水泳パンツ どこ?」
「バッグに入れといたわよ」「ないんだよ。どこにもない」
「どれどれ あら へんねえ ゆうべちゃんと入れといたのに」
俊介は、弟啓介と一緒にスイミングスクールに通っていた。
幼稚園の年中だった。
―――あれは誰がいい出したことだったんだろう。
今となっては確かめることも出来ない。
ぼんやりとしていたものが徐々に確かな情景になってくる。
水を怖がっていた啓介は、なかなか上達しなかった。
ところが俊介は泳ぎは得意だった。どんどん進級し通うのが楽しかった。
まさに水を得た魚だったのだ。
「オリンピックに出るんだ」なんてこともいい出すくらいに。
やっと啓介にかなうものができた。それはとても嬉しかったのだ。
―――悔しそうな顔してたっけ、啓介。だから、あんなことしたんだ。
さんざん探し回った水泳パンツは、ハサミでめちゃくちゃに切り刻まれ、裏のゴミ箱の中にあった。
3歳で平仮名を4歳で漢字を覚え、九九までいえた啓介。5歳になると家中の本はすべて読んでいた。小学校の就学前検診ではIQが120といわれた弟。
走ることも得意だったし、ボール遊びではいつも子供たちの中心にいた。
周囲の大人たちみんなの賞賛を浴びていた。できないことは何もないと思われていたのに、泳ぐことだけは苦手だったのだ。
啓介の顔形が黒い靄になっていく。
墨のような影になって、「しゅん」と呼ぶ。
「うわあああああっー」
俊介は自分の叫び声で目が覚めた。白々夜が明けていた。
熱は下がらず、2、3日学校を休まなければならなかった。
どうにか起き上がれようになると、俊介は、ご飯を運んでくれた叔母の恵子に頼みごとをした。
父と母の遺品を見せてほしいと。
恵子はすぐに倉庫から運んできてくれた。
「まだ熱があるから休んでたほうがいいよ。
でも、どうしたの急に。何かあったの?」
「いや、なんとなく、見てみたい気になっただけだよ」
俊介の心境の変化を恵子は喜んでいいのか分からなかった。
事故の事も、ついでに思い出してしまうのではないかと心配した。
覚えていなければ覚えていないでいい、無理に思い出すこともないのだ。
この6年の間見ることも触ることもなかった遺品だった。思い出を辿るのはまだまだ辛すぎるだろうから、あえて目に触れないように倉庫の奥にしまい込んでいたのだ。
運んできたのは段ボール箱3つ。
「まだ倉庫にあるけど、どうする?もっと見たい?」
「うううん、今はこれでいいよ。後は自分で運ぶ。
ありがとう恵子叔母さん」
ひとりになるとすぐに開いた。
ひとつ目の箱は写真やビデオテープがたっぷり詰まっていた。
家族4人の映像の記録だった。
次のには赤ん坊のおしゃぶりやおもちゃが。どれも同じものがふたり分だった。幼稚園で描いた絵や、何かのご褒美の紙の金メダル、卒園証書やアルバムもある。
これを見ていても俊介には何の感情も湧いてはこなかった。
ぼんやり霞のかかった場面が浮かんでくるだけ。もっと何かこう胸に迫ってきて懐かしさに涙がこみあげてくるだとかあるのかと思っていたが、まったくなにも感じない。
それが自分でも不思議だった。淡々と3つ目を開けていく。
―――たぶん、これだ。
そこには家計簿、母子手帳、父と母の日記が入っていた。
兄弟が生まれる前からの両親の手で綴られた日々の記録だ。
父も母もまめにペンを握っていた。大学ノートは十冊以上になっていた。
俊介は一度目を閉じて深呼吸をした。
きちんと向き合う覚悟をもって。
「えっ俊ちゃん、学校、行ってない、の?」
カウンターの向こうにいる女性は、誠がやって来た理由を説明すると見る見るうちに表情が曇った。俊介の叔母の恵子だ。
先週一週間俊介は学校を休んでいた。そして今日もだ。
心配した誠と華は、俊介の自宅を訪ねることにしたのだ。
「木曜日にはもう大丈夫って、今朝だって学校、行ったのよ」
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