エッセイ 児童文学によせて 2 モモとジョバンニとガンバ
・「モモ」の声 日本を愛してくれたエンデに感謝。
『モモ』ミヒャエル・エンデ作/大島かおり訳 岩波文庫
わたしの大好きな『モモ』。
もう何度読んだかわかりません。(たぶん、うなずいている人、多いと思います)
「モモ」が時間泥棒たちから街のみんなを助けるお話しです。映像化もされました。観てないですけど。
エンデ作品は初期の『ジムボタンの機関車大冒険』がアニメで映像化されています。ずい分昔NHKで放送されました。覚えている方あるかな?。
『モモ』は、エンデがイタリアへ行った際に発想を得た作品とのことです。
ドイツ人は人生に疲れるとイタリアへ行く、のだそうですが、真偽のほどはわかりません。
お話しは、廃墟の円形劇場から始まります。
孤児院から逃げ出しそこに住み着いたモモは、街の人たちに助けられながら暮らしています。
モモは不思議な特技を持っています。
それは、人の話を聞くこと。なあーんだと思ってはいけません。人の話を聞くなんてことは意外と難しいのです。
モモはその澄んだ瞳でひたすら街の人たちの話を聞きます。
聞いてもらった者は、ただそれだけで落ち着き、自ら問題解決の糸口を得て帰って行くのです。
子どもたちは、モモと遊ぶのを楽しみにしています。なぜって、モモがいると想像の翼が広がり、単なるごっこ遊びが壮大なストーリーを持ち始めるからです。
ところが平和な楽しい暮らしも灰色の男たちの登場で一変します。
「時間貯蓄銀行」の男たちです。
時間を節約して貯めこむことを街の人々に勧めます。
灰色の男たちの企みは、自分たちのために人間の時間を奪うこと。
人々の心の隙を狙って、「時間を無駄に使っている」と責め立て、あたかもそれが悪いことのように洗脳していくのです。
「時間とは命、生きること」
実はこれをちゃんと理解していたのは、この男たちでもあったのです。
かくして人々の生活は知らぬ間に脅かされていくのでした。
第二次大戦時、七歳だったエンデ少年は、地下に潜る反ナチスの活動家たちの連絡係として、自転車で走り回っていたそうです。
子どもなら目立たないということで、父親の活動を助けていたと。
その後危うくなり、離婚してスイスで暮らしていた母親のところへ行くことになります。
エンデは小さい頃、集団になることが大の苦手だったそうです。
入学したスイスの「シュタイナー学校」も三日で登校拒否してしまいます。画家であった父親の影響は大きく、戦時下の体験もあり、もしかしたらそれらが関係していたのかもしれません。
その父親との関わりが、作品『はてしない物語』の根底に流れているともいわれています。だから映画の出来にはこだわったのでしょう。
児童文学とは、主人公である子どもの成長を描きつつ、すべての人に共通のテーマを提示するもの。子どものみならず、大人まで楽しめる作品であることといわれます。
わたしたち大人の心の奥底には、”ちいさな子ども”が住んでいます。
それは置き去りにしてきた子どもの頃の想い。
全うできなかった子ども時代の象徴ともいえます。
”ちいさな子”は、ひっそり泣いているときもあります。
話しかけているのに、その声に気付かないことも。
聞こえているのに、聞こえないふりをしていることだってあります。
自分の中の子どもに、わたしは問いかけます。
「どんな物語を読みたい?」
答えは沈黙だったり、聞き取れない呟きだったりします。
拗ねていたり、悲しい目をしていたり、時には激しく怒っていたりもします。
そっと耳をすまして、その声を求めていこうと思います。
・賢治の通過儀礼
『銀河鉄道の夜』宮沢賢治作 岩波文庫
誰もがどこかで目にしたことのある日本の児童文学といえば、『銀河鉄道の夜』。これではないでしょうか。
数々の作品を残した宮沢賢治。昨年五月に賢治の自伝映画が公開されましたね。観てないですけど。
もうこの作品はいろんな媒体で、長い間頻繁に皆さまの目に触れてきましたので、紹介するまでもないのですが別の観点からひとつ。
神話や昔話を深層心理から分析した故河合隼雄氏は、西欧と日本との物語の比較で様々な考察を残しています。
児童文学を長年研究してきた「絵本・児童文学研究センター」理事長 工藤左千夫氏もまた、河合氏と共に数々の児童文学の中で心理学的考察を展開しています。
おふたりによると、西欧の神話や児童書には、はっきりと戦う相手があり、艱難辛苦を乗り越えていくものが沢山あります。それは戦いが一種の通過儀礼だから。
一方日本の昔話、児童書にはそれがあまり見られない。神話には多少出てきますが。
(そういえば、桃太郎はお供をつれて、鬼ヶ島へ行き、あっという間に鬼を退治し、宝物を奪って帰りますが。これでもか、これでもか、と畳みかけるような困難はありませんね。)
では日本の通過儀礼は・・・
実は『銀河鉄道の夜』は、通過儀礼的要素があるといいます。
それは、「対象喪失の通過儀礼」というもの。
「・・・この対象喪失、つまり別れは誰の人生においても避けることはできないし、必然的に生起するものである。そのため、受動的ではあっても、この対象喪失の悲しみを超え一歩前に進もうとすることも、立派な通過儀礼のひとつなのである。」
(『ファンタジー文学の世界へ』工藤左千夫・著 成文社から)
カンパネルラをなくしてしまうジョバンニの、心の傷の治癒的行為が、この作品に内包されている通過儀礼だといいます。
この「対象喪失」は人生に満ち溢れていて、それとの葛藤もまた「戦うこと」ともいえますね。自分自身との戦いです。
賢治も、いちばんの理解者であった愛すべき妹の死を乗り越えようと、苦悶しながら北海道へ放浪の旅に出ます。
日本の昔話は、この「去り行く」ものであふれています。それが日本人の情感を形成しているともいえるのでしょう。
余談ですが、井伏鱒二の訳した唐代の詩『勧酒』
「この杯を受けてくれ
どうぞなみなみ注がせておくれ
花に嵐の例えもあるぞ
さよならだけが人生だ」
元々の作者は忘れてしまいましたが、なぜかこれだけは覚えている私です。
日本人の胸にしみる詩だと思います。
桜が風に舞い散るその情景の先に、大きな銀河も続いているのです。
・冒険者はネズミ
『冒険者たち ガンバと15ひきの仲間』斎藤敦夫作 薮内正幸画 岩波文庫
この作品の作者、斎藤敦夫さんは今、関東のとある幼稚園の園長先生をされています。
某出版社に勤務されていた二十代後半の頃、奥様に代わり生まれたばかりのお嬢さんを寝かしつけながら、この作品を執筆していたと講演で語っていました。
この作品がテレビアニメとして放映されると、悪役イタチのノロイは、当時の子どもたちを恐怖の底へ落とす、今でいうラスボスでした。作者の意図は十分汲んでもらったというところでしょうか。
斎藤さんは、「幼少期に海外の歴史的な戦記ものを好んで読んでいた。日本に同じようなものがないことに気づき、自分で書いてみようと思った」と話されていました。
日本の児童文学では珍しく、戦うことを前面に出した作品です。
主人公ガンバは、海も見たことがない都会のドブネズミですが、男気溢れる若者です。
「なぜドブネズミだったのか」よく聞かれるというこの問いに、斎藤さんは答えます。
「職場へ向かう途中の交差点で、ふと目の前を通り過ぎるドブネズミを見たのです。」
都会の喧騒の中、ひたむきに駆けていくその姿が健気に映ったと。
物語は、ある島で暮らす島ネズミたちが、何倍も大きなイタチに攻撃され、もうあとわずかというところまで追い込まれ、助けを呼びに命からがらやってきた一匹のネズミに、ガンバが遭遇することから始まります。
「ノロイ」という名前が出て、大勢のネズミは尻込みします。その奇々怪々な力は誰も太刀打ちできないと恐れます。
しかし、ガンバは何も知らないことをいいことに、船に乗って大海原を見てみたい欲求にかられみんなを説得します。
そうして、15ひきの仲間と共に、島ネズミたちを助けに行くことになります。
ガンバと仲間たちの活躍に沢山の子どもたちが胸躍らせました。この作品の前作の『グリックの冒険』、続編『ガンバとカワウソの冒険』で、斎藤さんはガンバの冒険シリーズを完成させました。
長年執筆されてきた方の声を聴けることはとても意義のあることでした。
作品の背景や作者の心境を知ることは自らの創作のヒントにもなります。
なによりも、小さい頃観ていたテレビの主人公が目に前によみがえってきて、忘れていた感情を思い出させてくれます。
園長先生として日々、子どもたちの成長に関わっている斎藤さんですが、講演の中では、園の子どもたちはもとより職員、保護者とともに取り組んでいる、あるイベントの様子も話してくださいました。
それを詳しく紹介することはできませんが、まったくの第三者が聞いても、楽しくなり、参加したくなるものでした。
キーワードは「新たな物語をみんなで作る」です。さてさてどんな物語なのか。
きっと冒険あふれる物語に違いありません。羨ましい限りです。
了