
学問とは方法である
最初にこれを言ったのはデカルトだったと思うが…確かデカルトに対して猛反論を加えたのがヴィーゴだったきがする…失念。
いずれにしても、私のルーツはこうした方法論にあり、具体的には解剖学者だった養老孟司先生や、学校現場で方法論を展開した向山洋一先生の影響が大きいのは事実として認めざるを得ない。
(時々聞かれるのだが…向山先生の影響をうけているもののTOSSに所属したことはありません…)
この方法論というのは、日々進化すると思われがちだが、私はそうは考えていない。
例えば、教師の話を黙って聞かせるという場面に限定すると、次のように展開することなど、1980年代には確立していたのである。
・手に持っているものを置きなさい。
・おへそを先生の方へ向けましょう。
今、同じことを教室でやってみると、もののみごとに子ども達は静かに話を聞くことができるのである。
こうした方法論が今の学校現場で軽視または廃れている原因として私が思うところを書かせていただけるならば、例えば文科省が提示した「ものの見方・考え方」といったワードをあげたい。
こう言ったことを追求すると、最終的には「そもそも教えるとは何か」とか「教育とは何か」という話に帰結するしかない。実際のところ現場でも「単元を貫く問い」だとか「本質的な問い」といった哲学にすぎるワードが出てきたのは記憶に新しいところである。その結果として現場の教師の頭には「そもそも論」「目的論」が主軸となり「方法論」がどこかへ飛んでしまっていると感じることが多い。
実際、校内研修などで招聘される講師の話を聞いていても「最もらしいことを言っているが、実際やってみろといえばできるのですか?」と言いたくなるような内容ばかりでいささか閉口させられる。
このまま行くと「口は達者だが、やらせてみると何もできない」人間が次々と育つのではないだろうか。実際、現場ではそんな教師が次々と生まれてきているのだ。