Photo by kenpou629 🇺🇸マッカーサーと高柳賢三🇯🇵憲法調査会長との書簡を収載した憲法調査会の史料 1 望月笑子 2024年12月11日 13:15 幣原喜重郎🇯🇵首相は何故、戦争放棄をうたった憲法9条のアイデアをマッカーサーに提案したのだろうか。幣原喜重郎🇯🇵首相は1946年3月27日、自身の内閣がつくった【戦争調査会】の開会挨拶で原爆よりも更に強力な破壊的新兵器も出現するであろう時に『何百万の軍隊も何千隻の艦艇も何萬の飛行機も全然偉力を失う』と述べ、『世界は早晩、戦争の惨禍に目を覚まし、結局私どもと同じ戦争放棄の旗を翳して遥か後方から付いてくる時代が現れるでありましょう』と述べた。幣原喜重郎🇯🇵首相は秘書官だった平野三郎 氏による1951年2月の聞き取りに対しても『戦争をやめるには武器を持たない事が一番の保証になる』と述べている。一方で幣原喜重郎🇯🇵首相は戦争と放棄と天皇制維持をセットで提案したかったが敗戦から間もない状況で日本側から提案する事はできず『憲法は押し付けられた形をとった』と説明した。堀尾輝久:東大名誉教授は『今回の新史料を、こうした発言とも重ね合わせると9条が幣原喜重郎🇯🇵首相の発意であった事に一層確信が持てると考える』と述べた。幣原喜重郎🇯🇵首相が、こうした提案をした社会的背景に何があるのかと考えた時に『日本には元々、中江兆民、田中正造、内村鑑三らの平和思想があり、戦争中は治安維持法で抑圧されていたが終戦で表に出てきて国民も、戦争はもう嫌だと平和への願いを強めていた。国際的にもパリ不戦条約をはじめ戦争を違法なものとする運動が広がっており外交官でもあった幣原喜重郎🇯🇵首相も、その流れを充分認識していた』と堀尾輝久:東大名誉教授は述べる。 ダウンロード copy いいなと思ったら応援しよう! チップで応援する #中江兆民 #田中正造と足尾鉱毒事件 #堀尾輝久 #内閣総理大臣幣原喜重郎 #内村鑑三・悲しみの使徒 1