私ってなに?自我と魂が同じであるという話
はじめに
ここでは、そもそも「私」って何だろう?ということを悟りの観点から解説していきます。タイトルには自我と魂が同じであると書きました。この話をするにあたって、実はサーンキャ哲学とアドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学の二つの立場があります。二つとも知らない方も多いと思いますが、
サーンキャ哲学
魂が輪廻転生を通して成長し、やがて神(ブラフマン)へと至る
アドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学
神しか存在せず、この世もあの世も幻想だから、魂も存在しない
という立場の違いになります。精神世界に興味のない方でも、無意識の内にどちらかの立場をとっておられる方が多いのではないでしょうか?
実は、真我と魂と自我の違いがあやふやになるのは、この二つの立場をごちゃ混ぜにして考えてしまっていることが理由の場合が多いです。
そこで、本記事では二つの立場を明確にした上で、最も良いと思われる定義の仕方を提案します。
サーンキャ哲学における自我
サーンキャ哲学における自我の定義は西洋心理学的なものと大体同じであると考えて頂ければ大丈夫です。即ち、「自我=自己同一化」のことです。
貴方は「自分とは何か?」と聞かれれば、何と答えますか?
趣味は〇〇で、こんな仕事をしていて、昔はこんなつらい経験をしたけど、今はそれを乗り越えて、前よりも強い自分になれたといったような答えが思い浮かびますか?
勿論、それも正解ですし、生きていく上でそういった視点は必要であると思います。けれども、絶対的に正しいことかと言われると、今一度考え直すのではないでしょうか。
何者にもなれないということ
実際のところ、自我とは「私は〇〇である」の中の〇〇という部分そのものです。人は誰でも自分の役割や過去の記憶、性別や身体的特徴と無意識の内に自分を同化してしまいます。
だからこそ、人は常に「特別な自分になりたい」という衝動があるのです。
しかし、どうして自分にとって認識可能なものが私であるということが出来るのでしょうか?例えば、服を着ているからといって、その服も私の一部とはならないように、観察できるということそれ自体が自分の外側にあると言っているようなものなのではないでしょうか。
身体を一つとっても、昨日の貴方と今日の貴方が全く同じであるということはあり得ないはずです。考え方も一年たてば、大きく変化していることもあり得るのではないでしょうか?その様な変化し続けるものが私であると言えないと思います。
常にあるもの
それでは反対に、観察可能ではなくかつ常にあるものとは何でしょうか?
それは「私は〇〇である」の私の部分です。どんなに素晴らしい考えが思い浮かんだとしても、そこには常に考えた「私」がいます。同じように、どんな素晴らしい成果を成し遂げても、あるいは行動をしても、そこには必ずそれをした「私」という観念があるのではないでしょうか?
故にこの「私そのもの」は、自己同一化という意味での自我よりも高度なものであると見ることができます。
実は、この「私という観念」こそが魂の正体なのです。サーンキャ哲学では、この魂が輪廻して、いずれは源泉、神のもとに到達すると考えられています。
アドヴァイタ・ヴェーダーンタにおける自我
一方で、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学では神しか存在せず、従って、魂も自我も存在しないという立場をとります。しかし、幻想であるという前提の下、便宜的に輪廻転生する個人(魂)の存在を認めて議論することはあります。
そして、ややこしいことにアドヴァイタ・ヴェーダーンタ派の方は、この魂のことを自我と呼びます。だからこそ、多くの方にとって、この二つの定義があやふやになってしまうのです。
真我とは?
その代わりに、アドヴァイタ・ヴェーダーンタでは真の自己として真我という言葉を使います。神が唯一の実在であるため、真我というのは神のことを指しています。
ところが、サーンキャ哲学の考え方では、真我のことを今度は魂と呼んでしまい、神は別に存在するとしてしまいます。これによって、また多くの方が混乱することになるのです。
結局のところ、「私」とは?
とはいえ、自己同一化としての自我と「私そのもの」としての自我では確かに一つ次元が異なるように思えます。それに、全ては幻想だから、魂は存在しないという立場もあまりにも極端です。
従って、次の様な定義の仕方が最適であると考えられます。
自我
「私は〇〇である」における〇〇の部分。自己同一化のこと。あるいは、
今世における役回りやキャラクター、性格のこと。
魂
「私は〇〇である」の私の部分。私という観念そのもの。輪廻する主体のこと。
真我
絶対的な実在、神。私という観念の現れ出る源のこと。
自我は錯覚、魂は相対的な実在、真我は絶対的な実在になります。
いかがでしょうか?今後、本noteでは上記の定義のもと、話を進めていこうと思います。
実践:真我探求
最後に瞑想(正確には探求)の導入をします。これは20世紀最大の覚者と言われた南インドの聖者ラマナマハルシによって、好まれた技法です。
真我探求とは、一般的に「私は誰か?」と常に心の中で問うことによって、「私」を現れ出る源を探求するとされています。
その通りなのですが、「私は誰か?」というフレーズが一人歩きして、常にこの質問が頭の中で絶えないという状態になりがちです。それに、これはマハルシの言葉を英語に翻訳した時に誤りが含まれたようで、「私とは何か?」の方がより正確であると言えるでしょう。
真我探求とは、本質的に主体としての「私」にしがみつくという意味です。これが行われる限り、たとえ自己問いかけをしていなかったとしても、探求とみなされるべきです。
また、探求と瞑想は対象物を必要とするかどうかという点において、正確には区別されます。瞑想とは、呼吸であれ、蝋燭であれ、対象物を必要とするもので、ゆえに主体としての「私」の謎は解き明かされていないまま残ってしまうからです。
しかし、このnoteではややこしいため、探求を瞑想と一括りにして使うことにします。今から、紹介する方法は真我探求の一形態で、個人的にやりやすいと思えるものです。この瞑想は恐らく高度であるため、もし出来なくても心配はいりません。今後も沢山の方法を皆様にお伝えしていきます。
瞑想:「私」という感覚にしがみつく
まず、自分の中に浮かび上がってくるどんな思考にも「私」という観念が含まれていることを確認して下さい。
その「私」という観念にしがみついてみて下さい。そして、その「私」という感覚が一体何処から現れるのかを言葉を使わずに探してみてください。
今回の内容はここまでになります。本noteで紹介した定義が色々な所で見かけるようになれば面白いですね。
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