終わる世界の終わりなき日常――#8 終末ズッ友アソシエーション
本アジテーション・ビラはわたし灰ミちゃんによる連載エッセイ「終わる世界の終わりなき日常」の特別編として執筆・無料公開されたものであり、これまで記してきた灰ミちゃんの思想と生の集合から生成されている。
「終末ズッ友アソシエーション」は潜伏する。
今、世界は終わろうとしている。「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」と言ったある思想家は自殺した。資本主義の包囲網は世界中に敷かれ、あらゆる国で民主的な手続きを経て最悪の統治者が現れている。革命はなく、啓蒙は虚しく反転し知は悪用されますます陰謀論と反動主義を生み出すのみとなっている。
わたしたちは巨大な変革の可能性も大衆の知的蜂起も信じていない。ただ、わたしたちはこの資本主義下の世界の地べたを這い回り、より善き生を、善き生によるアソシエーションの乱立からなる局所的な変容を志向する。
『TAZ』で知られるかの偉大な神秘主義的アナキスト、ハキム・ベイはその個人主義的思想からかつて「ライフスタイル=アナキズム」との批判を受けた。しかし、今日においては組織的革命の野望は空疎化しており、個々のライフスタイルのレベルから形成される一時的共同作業だけが最後の防波堤なのである。
わたしたちはこの終わっていく社会に潜伏する。わたしたちはバラバラに散らばり、時に一時的コミューンを作ることはあってもまとまった組合を成すことはない。
しかし「終末ズッ友アソシエーション」は確かな繋がりである。終末に向かう世界において、わたしたちはマイナーでルンペンプロレタリアート的な精神を保ちながら限界的生き延びを共に画策する「ズッ友」だ。困っている友がいれば迷わず手を差し伸べるだろう。たしかにわたしたちは常に友である保証はない。故に今ここで、「ズッ友」とその関係を名指すことは永遠への、つまり不可能性への意志の力を意味する。「ズッ友」は儚さと永遠が止揚された詩的宣言である。
しかしこの「ズッ友」は小さな関係だけでは終わらない。わたしたち「終末のズッ友」は別の「終末のズッ友」たちとも常に繋がっている。そう、たとえ一度たりとも会ったことはなく知ることすらなかったとしてもわたしたちは「ズッ友」であると信じている。「終末のズッ友」概念を信じその美学において美と倫理を生産する限りにおいて、そのように生き延びる覚悟があるという一点において、わたしたちは皆潜在的な「終末ズッ友アソシエーション」なのである。
ボルヘスの最も優れた短篇の一つである「会議」には世界の代表を僭称する数人の仲間達のアソシエーションが描かれるが、「終末ズッ友アソシエーション」もまたすべての「ズッ友」との繋がりを僭称する。そこには形はない。その意味において「終末ズッ友アソシエーション」はアソシエーションであるとともに生のスタイルであり、一つの信仰表明に他ならない。
「終末ズッ友アソシエーション」は魅惑する。
愚かしい権力者の目と耳をハッキングし、マイナーなもの、ルンペンプロレタリアート的なものの美と倫理を憧憬させること。「終末のズッ友」としての生き方を感染的に拡大し境界の不明瞭なコミューンを形成すること。
アジテーション・ビラはそのための有効なウイルスである。
「終末ズッ友アソシエーション」は生存する。
資本主義の不良娘、放蕩息子たち、あるいは潜在的にそうである者たちよ。肉体労働者、先端的芸術家、草の根の活動家、予算のないマイナー研究者からセックスワーカー、ホストに至るまで。彼らであること。あるいは彼らのように生きること。わたしたちは社会の陰を這いずり回るn匹の蛭である。嗚呼、異端のルンペンプロレタリアートとその(潜在的な)仲間たちよ。わたしたちは時に手を取り合い資本主義の包囲網を生き抜くだろう。わたしたちは現在の国家を政府を信用しない。わたしたちは時に独自の情報網を用いて互いに交信しあらゆる手段を駆使して日銭を手に入れる。わたしたちはルンペンプロレタリアート的な美学と倫理を本質的に肯定し、そして、税金は最小限しか払わない!
「終末ズッ友アソシエーション」は倫理する。
わたしたちの生を搾り取るあらゆる疎外、労働階級の搾取や人種的マイノリティへの暴力だけでなく、労働運動内での女性差別、フェミニズム内での性的少数者差別、セックスワーカーの社会的な排除や時に哀れみの形を伴って現れる偏見、企業や学校組織による性愛や装飾の自由への侵犯、賭博やアルコールやタバコやドラッグに対する国家による不当な占有と規制に至るまで、それらにわたしたちは抵抗する。
あらゆる抑圧とは絶交である。ひ弱な抑圧者たちは実際のところわたしたちを恐れている。飼い慣らされないこと。私たちの生き方自体をどこまでも反抑圧的に、マイナーにすること。人々にとって不埒で恐ろしいものとしてのこの生の気高さを本質的に肯定すること。
わたしたちは倫理を生産する装置だ。
私的ストライキ、クィアパフォーマンス、少数言語の使用、ポルノビデオ、身体改造、流行の厚化粧、ぎらつくマニキュア、放蕩的性愛、LSDの密売は「終末ズッ友アソシエーション」にとってすべて頼りになる銃弾である。
「終末ズッ友アソシエーション」は官能する。
左翼的活動が美の領域を運動のニ次的なものとしてしか扱ってこなかったことは明確な誤りである。人は世界を表象の編み物として理解している。表象の操作による美の転覆や奪取は世界変革の上で最も重要な課題のひとつに他ならない。マイナーな存在を、汚らしい、笑いや侮蔑の対象とする前提がいかにその権利を奪ってきただろうか。わたしたちは異端の美を支持する。わたしたちはこれらの偏見を打ち砕き美の玉座を強奪する。
わたしたちは美を生産する装置だ。
ヴァナキュラー芸術、エクスペリメンタルミュージック、怪文書からなる同人誌、ドラァグ、ゲイポルノなどの放つ眩い光によって時に目を背けさせ、時にその目を奪い、断固として美を主張すること。あらゆる美的生産の内にわたしたちの影を忍ばせ、また既に潜んでいるその影を発見すること。スターリン芸術の鈍い光よりも遥かにエレガントで鮮明な閃光を!
「終末ズッ友アソシエーション」は具象する。
わたしたちが望むのは個々の活動に根ざした無数のコミューン的自治の流動的並列である。
労働組合、ケバブ屋に集うトルコ人たち、薄汚れたライブハウス、女装クラブ、レズビアンバー、未だ浮浪者を排除していない優良な公園、広場。
わたしたちはハッシュタグポリティクスを否定はしない。しかしそれはわたしたちの生き延びの代表的な戦略にはなり得ない。極右陰謀論者のハッシュタグポリティクスが在日外国人の具体的な生を無視する時、良識派知識人のハッシュタグポリティクスが生の優良な猥雑さを具体的空間から排除しようとする時、わたしたちは牙を向くだろう。
常に具体に目を向け、その領土を美的倫理的に運営すること。
わたしたちは生の均一化に抗し、具体を生き延びる者たちという特異な抽象によって常に繋がっている。
「終末ズッ友アソシエーション」は承認する。
かつてアナキストのバクーニンは、人は他人の自由によって自由になると言った。わたしたちは搾取と猜疑と競争の企業の中ではなく、尊厳を相互に承認するアソシエーションの中で自由を得る。
終末のZuttomo Association。ZA。ラテン文字の最初と最後の文字がわたしたちの合言葉である。
あなたがそれを信じ、「ズッ友」であるならば、「終末ズッ友アソシエーション」は常にあなたと共にある。来るべきわたしの友を、同志をわたしは歓迎している。共に助け合いこの腐った世界で生き延びよう。
わたしたちゎ、ズッ友だょ……!