喧嘩の仕方を蓮實重彥に学ぶ。批評と言語行為とメディウムにまつわる重めの夜話|LOCUST vol.06刊行記念トーク(1/2)
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批評の〈語り〉が重要である
南島:今号に参加していただいた執筆陣は、一見してジャンルの決め難い文章を書く方が多かったと思います。特にわかしょ文庫さん、れみどりさんの文章は、小説でも批評でもエッセイでもなく、ジャンルとしてなんと呼べばいいのかわからない。それに美術作家の岩崎広大さんは、雑誌の中で絵本のような紙面をつくっていました。
伏見:わかしょさんご本人は自分の書くものを「作文」と呼んでいるんです。あの、エッセイとも小説とも言い難い異様な気配を素朴かつ的確に伝えていて、とてもいい呼び方だと思います。
これまで全部で3回この「刊行記念」スペースで話してきて、パフォーマンスという言葉がざっくりキーワードになっていたように思います。河野さんとぼくが話した前回のスペースでは、さらにその前の回で太田さん・まろんくん・南島くんが話していた内容を引き継ぎながら、批評において「フィクション」的な語りが重要であるという話になった。SNSの影響下にある今の時代では、議論をはじめると、議論の内容と人格を混同しながら相手を殲滅するような言動に誰もが陥ってしまう。そうではなく、あくまでパフォーマンスとして批評的な論争や対立を見せることができるはずだと。我々自身も気づいていなかったけど、ロカストには、実はそのような問題設定がずっと潜んでいた。
そこで重要となるのが、経験そのものと、「書く/話すとき」のあいだに発生する時間。なにかの経験を語り直すとき、その経験から経過している時間がフィクションの語りを立ち上げる。喧嘩のパフォーマンス性=娯楽性を織り込み済みのものとして批評を書くためには、時間性を文章の内に織り込む必要があります。フィクションとしての執筆の実践として、旅行の経験とそのあとに語りなおされる旅行記・批評がセットになったロカストの営みがある。
南島:批評に対する批判が、著者に対する批判に直結してしまうということがありますよね。ただ両者は別のレイヤーなのではないか。ロカストではそれぞれの旅行体験から立ち上げるフィクションが、著者同士の対立は見せるけれど直接対峙をさせない、一種のバッファとして機能している気がします。
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