焚き銭(8020字)
1.
「なんだ、これは!」
大場龍三は自分の庭ともいえる飲み屋街の衰退ぶりに驚いた。週末の夜だというのに人の姿はまばらで、多くのネオン看板が切れかかっていた。通りの電灯は何本もチカチカと救難信号のように点滅し、夜道をわずかに照らすのみ。数少ない客待ちのタクシーもほとんどエンジンが切られ、運転手は車内で眠っているか時間つぶしにカーラジオを流しているだけだった。
若いころに輸入業者の船倉庫で貨物整理の仕事をしていた龍三は、磯と油の混じった臭いの四角いプレハブのなかで、何が売れていくのか、それらがどのように流通していくのか肌で学んだ。新しい金脈は、いつだって海の向こうからやってくる。そのワクワク感がたまらなかった。そして二十歳を機に、当時は珍しかった海外から洋酒を輸入し問屋に卸す専門の大場商事を創業した。この事業は上手くいき、特にウイスキーが人気を得た。龍三は輸入したウイスキーに自社のブランドラベルを貼って売り出した。〝ルーミー・ウヰスキー〟はそうやって誕生し、置いていない飲み屋はないほどの人気商品となった。
ウヰスキーを広めたのは俺だ。そんな自負が彼のなかにはあった。将来的には地元の議員になりたいと目論んでいた龍三は、創業後すぐに商工会議所に加入し雑務や何やらを引き受けた。そして経団連の地方組織に加盟した後は、持ち前の人心掌握術で着々とパイプを広げていった。そんな彼に好機が訪れた。とある国会議員がルーミー・ウヰスキーを好んでいるという情報を聞きつけ、議員に視察を名目として招待することにした。政治家への第一歩が見えはじめた龍三は、将来的に会社を息子に任せる準備を進めていこうと副社長の伊東に話をしていた。そして議員との面会の日、彼は視察に合わせて側面を塗り直した自慢のヨットを自ら運転し、接待クルーズへと出かけた。
なんだ! この体たらくは……組合の奴らに説教でもしてやらねば。こんな寂れた飲み屋どもじゃ、選挙に出た際も恥になりかねん。龍三のお膝元であるこの繁華街も、大場商事が卸した酒たちで成り立っている。それがこの閑散ぶりでは、彼のプライドに傷がつく。
通りを歩いてみると、飲み屋街の店舗は龍三が知っているものと様変わりしていた。記憶をたどるが馴染みの店は見当たらない。スナック浪漫船、カラオケ喫茶カラカラ、バーのメトロ・アーミー、飲み処赤華……全てなくなっている。龍三は通りを一本裏へと入った。ぽつぽつと電灯が光る裏通りに黄色の小さなアクリル看板を見かけた。ダイナー酒場〝報豚〟と赤字で書かれている。聞き覚えのある店だった。確か最近、新しく店を出すとかで商工会議所に届出があったはず。龍三は店の扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
店の雰囲気はずいぶんと錆びれていて、新しく開店したとはとても思えなかった。長くは持たんなと龍三は思った。
「いつもの」
「はい? いつもの?」
彼を接客したのは見たことのない女だった。まったく……新人の教育も行き届いていないのか。
「ウヰスキーだ! ストレートで」
女は不思議そうな顔をしてカウンターに入ると、しばらくして豆菓子とグラスを持ってきた。店内は多少、賑わってはいるが客も見慣れない格好の連中ばかりだった。壁に掛かった日めくりカレンダーをみると盆の時期だった。もしかしたら帰省した奴らかもしれない、どうりでここらで見かけない顔ばかりだ。酒を一口飲んだ龍三はグラスの匂いを嗅ぎ、しばらくなかの液体を見つめた。それから女を呼んだ。
「これは?」
「注文したウイスキーのストレートですよ」
「こんな味じゃない。俺のウヰスキーは。どんな保管してるんだ、ここは。ちょっとボトルを持ってこい!」
女が持ってきたボトルには、龍三が見たことのないラベルが貼られていた。
「なんだ、これは?」
「だからウイスキーですよ。酔ってるんですか、お客さん」
龍三の怒りが頂点に達した。
「お客さん? 俺は大場龍三だぞ! 新人だか知らないが、俺の顔くらい覚えておけ」
怒鳴り声に店内は静まり返った。
「それに俺のウヰスキー以外をこの飲み屋街で出すとはいい度胸だ。店主を呼べ!」
「店主は私ですよ。あまり他のお客様に迷惑をかけるようでしたら警察を呼びますよ」
一歩も引かない店主に対して龍三がテーブルを叩いて立ち上がったとき、一人の客が二人の間に割って入った。
「まぁまぁ。どうですか? 一杯」
若い青年だった。青年は龍三の正面に腰掛けると、飲んでいた水割りのおかわりとポテトサラダを頼んだ。
「ここのポテトサラダ美味しいんですよ」
青年は龍三の肩を叩いて、彼を座らせた。少しずつ店内に賑わいが戻る。
「訳がわからん」
「今夜はそういうもんですよ。とりあえず飲んでください」
それからしばらく二人はなんてことのない世間話をした。龍三がルーミー・ウヰスキーの話をすると、青年は画像を見せた。
「そうだ、これだ! 知っているのか?」
「ええ。まぁ」
「若いのに、なかなか味のわかる男だ!」
龍三は機嫌が良くなった。
「よし! こんな店は出てウヰスキーのある所にいこう」
「いや」
青年は口ごもった。
「心配するな、金なら俺が持つ」
「そういうことではなく……」
「なんだ?」
「この酒はもう販売されていないんです」
龍三は面食らった。
「どういうことだ? そんなはずはない」
「もう十数年も前に製造中止になっているんです」
最初、龍三は冗談かと考えたが、青年の真剣な表情に少なくとも彼自身はそう思っていることはわかった。
「何をいっているんだ? 俺の会社の商品だぞ。どこにでもある」
「違うんです」
「何がだ? 説明してみろ!」
青年は片手を上げて、新しいボトルと水割りのセットを頼んだ。
「いいですか。僕の話をよく聞いてください、龍三さん」
2.
大場龍三が死んだのは、国会議員への接待で沖に出た日だった。午前中までは穏やかな天候だったが、昼を過ぎると急激に時化だした。港から無線で何度もヨットに呼びかけていたが、大事な話を遮られたくなかった龍三はずっと無線を切っていた。そのため、彼が事態を把握することは大幅に遅れた。戻る途中でヨットは転覆し、龍三と議員は海へ放り出された。波が高いと遺体が見つかることは少ないが、たまたま捜索時に潮の流れが穏やかだったことや、転覆場所が特定しやすかったことなどもあり、遺体は翌日に発見された。国会議員の死は大々的に報道されたが龍三の方は新聞に小さく載っただけだった。
事故の知らせを受けて大場商事の社員たちには、どこかほっとした部分があった。社長の龍三は優れたカリスマ性を持つ反面、経営者としての能力は優秀ではなかった。彼の熱量やアイディアには目を見張るものがあったが、ワンマン経営には失敗も多く、その度に積み上がる負債はいつしか会社の経営を圧迫していた。伊東をはじめとした役員たちは幾度となく卸業に特化することを龍三に薦めたが、政界進出を考えていた彼は不動産業や観光業など様々な分野に手を出すことを止めなかった。
龍三の死後、大場商事は経営の健全化を図るべく卸業に専念した。元々、物流のルートを多く持っているという強みもあり業界で知らない者はいないほどの企業へと復活した。
「嘘だ……」
龍三は青年の話が信じられなかった。
「いえ、本当です」
「悪い冗談だな」
青年は黙った。
「とにかく帰る。こんなに気分が悪い夜は久しぶりだ」
龍三は店主に会計の合図を送り、財布を取り出そうとセカンドバッグを開いた。
「なんだ、これは?」
なかには大量の黄色い紙束が入っていた。財布のなかも見てみるが、同じように黄色の紙束でパンパンに膨らんでいた。彼の鞄や財布のなかに入っていたのは、お盆の最終日に先祖を送るために燃やす冥銭の打ち紙だった。
「そんな……」
「大丈夫です。私が払います」
青年は龍三が見たことのない四角い機械で会計を済ませた。二人は店を後にし、蒸し暑い真夏の夜道へと出た。
3.
「龍三さんマジ天才っすね! こんなの思いつかないですよ」
舎弟のヤスの運転で、龍三は島の霊道五八号線を走っていた。石獅子をかたどったエンブレムのGeusotは、今あの世で最もホットな車種の一つだった。霊道は基本的に南方面への一方通行だが、許可証を偽造した二人は北へ向けて車を走らせている。歩道を歩いている死者たちは豪華な装飾品を身に着けており、ヤスはそれを横目で見ながら咥えていた線香フレーバーの煙草を道路に投げ捨てた。
「すげー格好。やっぱ現世は景気がいいんですね?」
「いや、そうでもないらしい。ただ、あそこの人々は死者に金を使うのが好きなだけだ」
「ふーん、変わった奴らですね。どうせなら直接こっちに金落としてくれればいいのに」
確かにそのとおりだと龍三は思った。
「ってか聞いてくださいよ。先週会ったマッチングアプリの子が……」
ヤスは、頭はよくないが勘の良い男だった。若いがゆえに色々と無鉄砲なところがあり、それが勘を鈍らせることもあるが龍三は基本的にヤスのことを買っていた。
「ところで、現世へ行く〝足〟は万全なんだろうな?」
不況で金に困っていた二人は、現世での強盗を計画していた。あの世と現世では通貨の価値が何万倍も違う。盆の時期に帰省する大量の死者たちに乗じて現世に渡り、各地で冥銭を強盗する予定だった。龍三が実際に現世へ向かい、そのサポートや事前の準備をヤスがおこなう。
「はい、完璧っす! 精霊馬の一番いいやつをAmezonで布施っておきました。楽園もスーパーセール中だったんですけど、アメプラ会員は送料無料なんでそっちにしました。翌日にはすぐ届いたし」
ヤスは後部座席の梱包されたダンボール箱を指差した。
「小さくないか?」
「なんか、使うときに箱から取り出すと大きくなるらしいです。精霊馬ってデカイし開けた後が大変じゃないですか。レビューみるとコンパクトさが売りらしくて、〝徳〟も平均で四・二あったんで信憑性も結構あると思います」
「そうか、便利な世の中だな」
「今は何でもネットですよね。あっ、ちなみに一応の確認なんですけど未練とかないっすよね? なんかBibbleで検索すると、未練が残ってると現世に行ったときに副作用で生前の記憶が復活しちゃう場合があるらしいんですよ」
「大丈夫だろ。こっちに来てだいぶ経つはずだし、記憶なんてないな」
「じゃあ問題なさそうですね。まぁ、知り合いとかに会えば自分が死んでることがわかるんで、こっちの記憶も復活するらしいんですけど。そういえば今回のターゲットたちの場所って大丈夫ですか?」
ヤスは強盗予定の場所を記したメモ用紙を眺めた。
「おい、前を見ろ!」
「大丈夫ですよ、これくらい。一方通行だし、轢いても死なないですから。心配性だなぁ……あれ、ここって龍三さんの地元じゃないっすか?」
「そうだったか? もう覚えていないな」
「まぁ、いいか。そういえば、こっちの情報とかツール持ってっちゃうと捕まったときにマジの地獄行きなんで、ちゃんと精霊馬にしまっておいてくださいね。あっ、スマホとかも駄目ですよ」
「わかっている」
「事前の準備は俺がやったんで、万が一の場合でも龍三さんには足つかないはずです。なので一旦、現世で冥銭を燃やしたら龍三さんのとこにプールでお願いします!」
「オッケー。へまするなよ」
車が目的地の港に着くと、ヤスは係員に偽装許可証を提示して駐車場へと入った。メタリックパープルの車体は目立ち、すれ違う死者たちのほとんどがGeusotに視線を送っている。あまり犯罪向きだとは思わない車だがヤスに任せた以上、仕方なかった。降車した二人は箱から取り出した精霊馬を水に浮かべる。海は一面、紫の靄に覆われている。
「この精霊馬、帰りは直葬機能ついてるんで、盆の翌朝になると強制的に〝送る〟ようになってます。朝日が昇るまでには人目につかない場所にいてくださいね」
海の水を吸った馬は少しずつ肥大化していき、大型バイクほどの大きさになった。海の彼方には、現世の果てに位置する灯台の光が微かに見える。
「じゃあ行ってくる」
「南無! いってらっしゃい」
龍三を見送ったヤスは煙草をくゆらせながら、港に着いた大型棺から下船する新しい死者たちを眺めた。好みの子がいたらナンパでもして、ドライブでもしようかと考えていた。どうせ暇だし、その方がばれにくいだろうと考えていた。スマホでマッチングアプリを開くヤスの後ろに、係員の通報を受けた巡査が近づいていた。
4.
店を出た青年は、近くのコインパーキングに停めていた軽自動車から荷物を取り出した。龍三は辺りの風景にどこか見覚えがあった。コインパーキングはかつて彼の屋敷があった場所だった。近所でも評判だった自慢の邸宅は、今は半分がコインパーキング、残りはコンビニとなっている。
「どうしたんですか?」
「いや……」
「お待たせして申し訳ありません。行きましょう」
飲み屋街を抜けて大通りを海方向へ歩いていると、微かに懐かしい磯の香りがしてきた。
「なぁ、俺が死んで何年になる?」
「大体六十年くらいですかね」
「息子は?」
「去年亡くなりました」
「会社は?」
「今もあります。伊東さんが立て直して、今は会長として……」
「なに! あいつはまだ生きてるのか?」
「ええ、まぁ。あまり健康状態は良くないので現役ではありませんが、ご存命です」
龍三は激高した。
「どこだ、場所を教えろ! 話をつけてやる」
「落ち着いてください。あなたはもう死んでいるんですよ」
「そんなの関係あるか、会社を自分のものにしやがって。きっと最初からそのつもりだったに違いない。ぶっ殺してやるよ、どうせ罪にもならんだろ!」
「そんなことして何になるんですか」
「生意気いうな。若造が!」
二人の間に沈黙が流れた。
「気持ちはわかります。でも、もうあなたの時代ではない」
浜に出ると、二人はそこに腰を下ろした。
「どうぞ」
青年が鞄から取り出したのはルーミー・ウヰスキーだった。
「なぜこれを?」
「我々、大場家にはまだ残っているんです。これが最後の一本ですが」
龍三は訳が分からなかった。
「ほら」
青年はスマートフォンで赤子の写真をみせた。龍三が写真に触れるとそれが光り、赤子の顔が大きくなった。彼は驚いて思わず身を引いた。
「先月産まれたんですよ。あなたのひ孫になります」
龍三は青年を見つめた。
「父や祖母から話は聞いていたのですが……お盆だから帰って来ていたんですね、おじいちゃん」
龍三は黙ったまま頭を下げ、セカンドバッグのなかを覗き込んだ。
「親戚で集まると未だにみんなで飲みますよ、うまいうまいって。創業一族の特権ですかね」
青年が笑いながら注いだウヰスキーを、龍三は一気に喉に流し込んだ。
「そうだ……この味だ」
「本当に美味しいですから、ルーミー・ウヰスキーは。なくなったのはもったいない」
「俺が死んでから、大場家はどうなったんだ?」
青年は龍三の死後、債務整理のために不動産事業で手に入れた邸宅や土地を大場家が手放したことや、徐々に経営から一族が離れていったこと、それに伴って次第に親族もバラバラになっていった様子を話した。龍三は時折頷きながら、その話を聞いていた。青年は地元の私大を卒業した後に、会長の伊東の口利きで大場商事に入社したという。
「僕は情けないですか?」
青年がたずねると、龍三はスマートフォンのアプリを閉じて青年に返した。
「人は良さそうだ。それが武器になるときもある。だが、あんまり人を信用するもんじゃない。会社も本当は俺たちのものだ」
「父や祖母がいってました。あなたの口癖はいつも人を信用してはいけないだったって」
青年は龍三が涙を流していることに驚いた。
「きっと、俺は、悔しいんだろう……築いてきた大場家がこんな……」
青年の温かい手が龍三の背中に触れる。
「創業者のあなたからしたら情けなく思えるかもしれませんが、誰の会社かとか、そういうことは僕にはどうでもいいんです。子どもも生まれたし、この子のために稼いでいかないと」
「他人から見たら、俺は非情だったかもしれん。だが、家族には違う」
「わかります、わかります。でも、これからは僕らに任せてください。見守っていてください」
青年は龍三の嗚咽がおさまるまで背中をさすり続けた。そして最後のルーミー・ウヰスキーを飲み干すと、二人は浜辺に寝そべり星を眺めた。龍三が枕にしたセカンドバッグから打ち紙が一枚、夜空に舞った。龍三は身体を起こし、それを掴んで青年に渡した。
「お前のいうとおりだ。俺はこの世界に居場所はもうない。これをいっぱい燃やして見送ってくれ」
青年が目覚めると朝になっていた。龍三の姿はなく、空っぽになったルーミー・ウヰスキーのボトルを持ったまま、しばらく青年は海を眺めた。そして、打ち紙を燃やす用のライターを買うためにコンビニへと向かった。レジ脇には半額シールの貼られた打ち紙の束が積んであった。ぼーっと眺めていると年配の店員が話しかけてきた。
「なに? どうしたの?」
「いや、半額なんですね」
「昨日でお盆終わったからね。しばらくは必要ないよ」
普段であれば、五十枚入り二百円で売っている打ち紙。それの半額ということは一枚二円、それが何セット残っているんだ……青年は酔いの回った頭で必死に数を計算した。
「まぁ、いいや。とりあえず全部ください」
「全部かい?」
コンビニに残っていた十束の打ち紙を買った青年は、それも一緒に燃やした。少しでも不自由なく向こうで暮らしてほしい。祖父の悪評は昔から色々聞いていたが、お盆に会いに来てくれたところを考えると本当は優しい祖父なのだと思った。
5.
精霊馬に乗った龍三は、海を進みながら一枚十万の価値がある打ち紙の額を計算していた。水に浸かった足を冷たい感覚が襲い、思わず身震いした。この感覚がなくなると、あの世に入った合図だ。盆を終えて同じようにあの世へと戻る精霊馬をいくつか見かけた。故郷で家族と久しぶりの対面を果たした霊たちは幸せそうな顔をしている。海面に一枚の紙切れが浮いていた。誰かが落とした打ち紙かと思い拾ってみたが、紙は見たことのない材質をしていた。濡れてはいるが、ふやけている様子もない。どこからか流れてきたのだろうが、見たことのない文字が記されていた。
しばらく海を進むと、ある地点で冷たさが急になくなり圏外だった回線が復活した。スマホに溜まっていたメッセージが一気に入ってきた。そのなかにヤスからのものがあった。不測の事態が起きたときの隠語。受信時刻をみると龍三が去った直後のものだった。その後、何の連絡も入っていないことから捕まった可能性が高い。
「ヤス、悪く思うなよ。運がなかったんだ、お前は」
舎弟を捨てて逃亡を決意した矢先、突然スマホの通知が鳴った。開いてみると五千万の入金があった。
「ほう……思った以上の額だ! いい孫を持ったぜ。持つべきものはやはり家族だな」
龍三は青年の顔を思い浮かべ、にやりと笑った。この大金で何をしてやろうかと考える。精霊馬を止めて逃亡計画を練っていると、ふと、左右に広がる紫の靄が目に入った。
この向こうには何があるのだろう。思えば、今まで現世と島にしか行ったことがなかった。靄の奥に光らしきものは見えない。龍三は拾った紙を見つめ、強く握った。二つの世界しかないのなら、この紙切れはどこから?
精霊馬は向きを変えて、紫の靄を突き進む。現世でも島でもない世の可能性……高揚感が龍三のなかに湧き上がってきた。新しい金脈は、いつだって海の向こうからやってくる。【了】