キリバ(5840字)
――キリバは沖縄地方で遊ばれていたとされるトランプゲームの一種である。しかし、どれだけ調べても明確なルールや起源などは出てこない。トランプの起源は唐のころの葉子戯に由来する説が有力であることから、キリバとは実態のみえない霧のなかにある葉子戯〝霧葉〟が語源ではないかと推察する。沖縄は古くから中国との交易も盛んで、葉子戯が早くから伝わったのでは……
「マサオさん残業っすか?」
ネット上のキリバに関するブログを眺めていると、帰り支度をする若い職員が話しかけてきた。
「ちょっとだけね」
そういうとブラウザの画面と作業中のファイルを差し替えた。
「なにか手伝いましょうか?」
「大丈夫、大丈夫。アフターファイブでも楽しみなさい」
「マサオさんの歳でそんな言葉知ってるんすね!」
私は大学を卒業後、定年まで地元の漁業組合に勤め、シニア契約で再就職していた。
「まぁ、それくらいは」
「残業のお供にガム食べます? すっきりしますよ」
そういうと彼はガムを取り出したが、私はそれを断った。
「ありがとう! でも入れ歯だと食べにくいからいいよ」
彼は気まずそうに謝った。
「すいません」
「気にしないで。昔からだから」
若い職員が帰ると事務所の外に出て一服した。陽の沈みかけた東シナ海に小さな離れ島がみえる。今は無人島となっている生まれ故郷の岡波島だ。
*
「……しかし大きな屋敷がいっぱい建ってますね」
医師のユイカは、長い黒髪を海風になびかせながら双眼鏡で島を眺めた。
「この島の漁師は本島の俺らと違って何倍も稼いでますからね」
「そんなに違うんですか? 本島とそこまで離れてないのに」
「なぜか天候がこの島の漁師たちに味方するんです。ここは夏場の台風被害もほとんどないから、魚も多く獲れる。こっちは台風の後片付けなんかでそれどころじゃないってのに羨ましいかぎりですよ」
港に入ると、彼女の到着を待っていた島民が手を振り合図を送った。漁師は小型ボートをその方向へと進める。
「じゃあ、先生もかからないように気をつけて」
「大丈夫ですよ。過剰歯は伝染病の類ではないんです。それにただの検診ですから」
島民たちはユイカを出迎えると港脇に併設された事務所へと案内した。島の子どもたちが物珍しそうに様子を眺めている。ユイカが後ろを振り返ると、漁師の船はもう港を出ていた。
私がユイカ先生と出会ったのは、まだ本島に引っ越す前の幼少期だった。そのころは本島から人が来るということは滅多になく、私は近所の子どもたちと港までその姿をみにいった。ボートから降り立った先生はとても美しく、麻のシャツに麦わら帽子をかぶっていた。里長たちに案内された先生は、こっちをみると白い歯を出してニコッと微笑んだ。島の人にはない上品な笑い方だった。先生は島に滞在するあいだ家に泊まることになっていて、私は父親から家まで案内するよういわれていた。外でしばらく待っていると、事務所の扉が開いた。
「あなたが上原マサオくん?」
先生は風鈴のように透き通った声をしていた。
「はい」
「お迎えありがとう。お世話になります」
家に到着し荷物を置くと、先生は早速シャツの上に白衣を羽織って検診の準備をはじめた。母親が少し休むようにすすめたが、お茶を一杯だけ飲むとすぐに公民館へ向かった。砂利道を歩いていく先生の真っ白な服が海からの風で吹きあがり夏の光を反射させた。陽の眩しさに目をそらしてもう一度向き直ると先生は角を曲がり、みえなくなっていた。
そのとき、家の戸が開いた。
「マサオいるのか? キリバやろう!」
声の主を玄関まで出迎えた母親は大慌てで私を呼んだ。戸の前に立っていたのはハヤミ殿下だった。
ハヤミ殿下は島に繁栄や漁の安全をもたらしてくれる存在だった。殿下のおかげで私たちは裕福なのだと両親や大人たちは口をそろえていった。ハヤミ殿下は食事も酒も歌も取らず、ただ一緒に遊ぶ相手を探している。先代の漁師たちがキリバを教えて以降、殿下はすっかりそのゲームに夢中になった。母親と私は玄関先で膝を折り、頭を下げた。それから私は急いで支度を整えて家を出た。母親は玄関前で手を振っていたが、私と目が合わないように視線を落としていた。私は殿下と手をつないで海辺の洞窟に向かった。
その夜は先生を歓迎するための宴が家で開かれた。集まりには里長たちも訪れ、夜遅くまで上機嫌に騒いでいた。
「あれ? トランプがありますね」
先生は居間の端に置かれたトランプケースを手に取った。
「私、大学時代にマジックをやる同好会に入ってたんですよ」
そういうと先生はカードを混ぜて私たちの前に扇状に広げた。選んだカードを当てるという。私はカードを一枚選んだ。それを元に戻し先生にわからないように混ぜた。しかしカードは見事に当てられた。その後、他の人たちも同じようにやってみたが先生は全て当てた。
「手品は相手の思い込みを利用するの。そうすれば当たり前のことで不可能なことをみせられる」
何度考えても手品の仕掛けは私にはわからず、宴会が終わり布団に入ってからもなかなか寝つけなかった。
「やっぱりマサオくんも歯が多いな。ここの歯は自分で抜いたのかな?」
先生は前日の酔いが残っているのか、少し赤ら顔で私の口内を診察していた。そのとき、外で大声で泣き叫ぶ子どもの声がした。私たちが公民館から飛び出すと、ハヤミ殿下が少女のもんぺの首元をつかんでいた。
「殿下、お願いします。その子はまだ子どもでして」
懇願する少女の母親をハヤミ殿下は突き飛ばした。
「この子はキリバで負けたのだから、契約に従う必要がある」
「代わりに私が……」
「お前は参加していないだろ。事情に関わらず、勝ち負けは絶対だ」
一瞬、殿下と視線が合ったが、顔を背けると少女を引きずっていった。
「さぁ、先生……戻りましょうか」
里長が先生の腕を引っ張った。
「今のは?」
「いや、お恥ずかしい。島の小さないざこざです。よくあることですので、お気になさらず」
自分の検診を終えて浜辺で涼んでいると、遠浅の海からハヤミ殿下がやってきた。
「マサオ、あの女は誰だ? 島の人間じゃないな」
「本島から来たユイカ先生です。お医者さんで島の人たちの検診にきたそうです」
「検診?」
「歯が悪くないか調べているそうです」
「いつまでいる?」
「明後日だったと思い……」
波が後ろの岸壁にぶつかり大きな飛沫が立った。振り返ると殿下の姿はもうなかった。
風呂から上がったユイカは、島民たちの検診結果について考えていた。島民の九十パーセントが過剰歯状態……それも平均で十本近くも多い。そんなのありえるのだろうか。それとも、なにか別の風土病があってそれの症状なのか。本島から多過歯島と呼ばれるこの島への調査は、以前から医師会の間で持ち上がっていた。
突然、部屋の戸を叩く音がした。こんな遅くに誰だろうか。彼女が返事をすると勢いよく襖が開いた。
「あなたは昼間の……」
「先生。キリバをやろう」
私は用を足すために目を覚ました。外は大雨が降っていて遠くにみえる海も珍しく荒れていた。門の外に人影がみえる。それは寝巻のままの先生の姿だった。隣にはハヤミ殿下がいる。二人は濡れるのも気にせず坂を下っていく。私は急いで部屋から飛び出し、後をつけた。
〝キリバ〟とはジョーカーを含む全てのトランプを用いて、各人がそれぞれの手札を減らしていくゲームである。
はじめに五枚のカードを手札として配り、残ったカードは山札として場の中央に置く。そして、その回で〝主〟となる最も強い絵柄をダイヤ、ハート、クラブ、スペードから決める。主の決定方法は山札の一番下にあるカードの絵柄を使用することが慣例だが、明確な決まりはない。
各人は手札のなかから最大四枚まで札を選び、次の者へと送る。一枚送る際はどの札でも構わないが、二枚送る場合は例えばハートとスペードの六といった同じ数字による〝番〟でなければならない。三枚以上送る場合は同じ数字三枚または四枚による〝集〟、あるいは同じ絵柄かつ連続した数字の組み合わせである〝梯〟が条件となる。例えばハート、スペード、クラブの十による三枚集、またはダイヤの七、八、九、十による四枚梯といった具合である。各人は、送った後に手札が最低五枚となるよう山札から札を補充しなければならない。番を送って手札が三枚となった場合は、山札から二枚を加えることになる。尚、ジョーカーはすべての札の代わりを務めることができる。スペード、クラブ、ダイヤの二とジョーカーで四枚集とすることや、ハートの二とジョーカー、ハートの四で三枚梯を作ることなどが可能である。
札を送られた側は主と各カードの強さに応じて、自身の手札を用いて送られてきた札を〝切る〟ことができる。ダイヤが主となっていた場合、札の強さは上から順にジョーカー、ダイヤのエース、ダイヤのキング、ダイヤのクイーン……ダイヤの三、ダイヤの二、その他の絵柄のエース、キング、クイーン……三、二となる。スペードの六が送られてきた場合、スペードの七以上もしくは主のダイヤの札であれば切ることができる。すべての札が切れなかった場合、残った札を手札に加えなければならない。番が送られてきて片方しか切れなかった場合は、残った一枚を手札とする。切れなかった札を加えた段階で手札が四枚以下である場合は、五枚となるよう山札から補充する。
送られてきたすべての札を切ることができれば、次の者に札を送ることができる。尚、送られてきた札をすべて切った段階で手札がなくなった場合は山札から五枚を新たに手札として加え、そこから次の者に札を送る。
以上を繰り返し、山札がなくなった後に最初に手札がなくなった者が上がりとなり、勝者となる。
「先生、わかったか?」
「ええ」
「そして最も大事なルールだ。負けたら歯をもらう」
ユイカは自分の耳を疑った。
「どういうこと?」
「最下位のものは負ければ歯を失う、これはそういう遊びだ。歯を失うときに島の者たちは斬られるような痛みがあるようで、斬歯と呼ばれている」
ハヤミ殿下は山札から五枚ずつカードを取り、自分と彼女の前に置いた。そしてさらに五枚を抜いて地面に置いた。
「マサオ! そこにいるのだろ? これはお前の分だ」
雨はますます強くなり、洞窟は夏の夜だが冷えていた。
「先生、あんた島の誰よりも強いよ」
ハヤミ殿下は笑っていた。それから私の口元に手を伸ばして歯をつかんだ。
「それに引き換えマサオ。お前は何度やっても弱いな」
私の悲鳴が洞窟内に響く。
「やめて!」
「うるさいな、よそ者。別に死にはしないよ。歯はいくらでも生えてくるんだから」
「どういうこと?」
「マサオの先祖たちは俺と契約した。この島の奴らは繁栄と引き換えに歯の栽培床となることを選んだんだよ」
ハヤミ殿下は抜いた歯を口に含むと、トランプを集めた。
「なぁ、先生。あんたの歯は美しいな。そっちの島でもキリバをやろうか? 繁栄をもたらしてやるぞ」
先生は無言で殿下からトランプを奪い、カードを混ぜはじめた。
「あなた負けたことあるの?」
「ないね」
「もし負けたら契約を破棄して島から出ていく?」
「ああ、いいぞ」
先生は一枚一枚カードを配りはじめた。
「ねぇ、あなたはどこから来たの?」
殿下は目を丸くし、一瞬言葉に詰まった。
「海の底のさらに奥だ。そこは宇宙とつながっている」
「そんなところがあるの?」
「双方は適度に引き合うことで均衡を保っているが、宇宙ではときどき〝渦〟が発生する。それが海の潮につながると巨大な〝渦潮〟が生まれる。俺は偶然そこに吸い込まれてここにきた」
「そうだったの」
「渦潮のなかは圧力の変化が大きい。海底に着いた俺は半壊状態だった。帰るには渦潮のなかで身を守る硬さが必要だ」
「それで人体で最も硬い歯が欲しいのね」
「島の人間はいつも勝ち負けにこだわっていた。どこぞの船より多く獲れた、誰々より高値で売れたと。俺は勝敗とはどんなに楽しいものなのかと興味を持った。だから取引を持ちかけた」
先生はすべてのカードを配り終えて山札の一番下をめくった。ジョーカーだった。
「珍しいな」
「そうね、吉兆かも」
先生はもう一度山札を混ぜてカードをめくった。スペードのエースだった。
「今回の主はスペードだな」
「順番は私からね」
「……しかし、こんなことを聞かれたのは初めてだ」
先生はカードを送ると、山札に手を伸ばしてカードを補充するふりをした。そして掌に隠し持っていたジョーカーとスペードのエースを手札に加えた。ハヤミ殿下は遠い目をして海を眺めていた。
大雨がおさまり、海が穏やかになった。ハヤミ殿下は初めて負けた。殿下は無言で残った手札を見つめていた。
「負けるというのは淋しいことだな」
「勝敗がすべてではない。理由を話せばきっと……」
「勝ち負けは絶対だ。ゲームとはそういうものだ」
重みに耐えかねた夜露のように私の口から歯が落ちていった。甲高い音が祠のなかに響くが痛みはなかった。殿下が海に入っていくと漣が集まってきた。それは次第に巨大な波へと変化した。
「なんだか渦潮のなかと似てるなぁ」
殿下がそういって私たちの方を向いた瞬間、明けの海に波しぶきが立ち上がった。その姿は巨大な鯨のようにみえた。波がおさまると殿下の姿はもうなかった。
島から去る日、先生はもうキリバをしてはいけないといった。またハヤミ殿下が遊びに来るかもしれないからと。
*
キリバに関する記事の削除申請をおこない、事務所を後にした。あの夜以降、島の漁業は徐々に衰退していき、次第に島民たちは本島に移るようになった。思うに、ゲームとは共通のルールの下で勝敗を決めるコミュニケーションツールである。その本質は他者との交流にある。あの夜、ハヤミ殿下は先生と交流したように思う。ただ、初めて勝ち負けと別の感情に触れたのが怖かったのだ。
何年か前に岡波島では鯨のような生物の化石がみつかった。その骨には皮歯のような突起物がびっしりと生えていた。同種の発見がこれまでないことから、最後の個体だったとみられている。【了】