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【vol.3】「場所の記憶」可視化の方法論における考察〜誰かの記憶に寄り添う、記憶の格納庫「LOCAL LOG」の実践から〜

概要
本探求は「場所の記憶」を可視化することの意義と方法論を模索するものである。「場所の記憶」とは、その土地を眼差す他者が向ける意識や思い出のことを指す。地方留学をきっかけに、自然環境や日常風景に対して働く情動の重要性を再認識し、それらを写真と言葉で記録するウェブサイト「LOCAL LOG」を開発した。LOCAL LOGは、個々の場所に紐づく強い記憶/細かい感情を視覚的に記録・共有することを目的としている。本探求では、LOCAL LOGの実践を通じて、その有用性や場所の記憶の可視化における意義を探った。


3-1 仮説

LOCAL LOGを通じて場所の記憶データを集積することで人々がある土地に対してどのような思い出や経験を持っているか可視化する。具体的には後述する①イベント開催②出張授業を通じて、参加者に当たり前の日常風景を見つめ直す機会を提供する。これによって「場所の記憶」に対する意識や視点に変容が起きないか観察する。

3-2 検証方法

以下2点の方法論を用いて仮説の検証を試みる。

1|イベント開催
LOCAL LOGを用いた場所の記憶に迫るワークショップを開催。それぞれの土地への意識に耳を澄ませる体験を創造する。具体的には、LOCAL LOGの持つ考えについて30分間、説明した後に開催地である日本橋の街を歩き、写真に収めた風景についてどのような感情や視点を抱いたのか発表。フィールドワーク型の形態を取る。

【イベント概要】
名  称:17歳による、自分だけの景色を探すワークショップ
日  時:2024年5月12日(日)13:00〜15:00
定  員:20名
参  加  費:無料
共  催:+NARU NIHONBASHI

皆さんにとっての「美」における定義は何でしょうか。

17歳の私の「美」における定義は「そばにある気づきを、いま喜べる感覚」です。日常に溢れる何気ない風景には、気付かぬうちに零れ落ちている感情や想いがあるように思います。高校生になってから月末に控えた学力試験、部活の大会に向けたスケジュール、成績、そして鳴り響くスマホの通知音。
街を歩いていても些細な生活音はイヤホンのノイズキャンセリング機能で失われ、すれ違う人々も同じように意識は「いま」ではなく何処か遠くにあるような気がしました。だからこそ、当たり前の日常の中で自分だけの景色を探しながら言葉にしたり、誰かと分かち合ったりする。そんな体験が自分を創る一部になると感じています。

日本橋を舞台に、写真と言葉を使って見落としていた感情と自分を見つけにいきませんか。

告知文より引用

2|出張授業
京都府立京丹後市緑風高校の生徒との交流から場所の記憶に纏わる講義を実施する。具体的には私が本サイトを立ち上げた発端の地となっている京丹後での体験を踏まえつつ、いかにしてこの取り組みを普及/発展させていくかについて示したプレゼンテーション資料約40枚を用意し発表を行った。

3-3 結果

1|イベント開催
既に予測できていたことではあるが、実際に検証してみて最も面白みがあったことは同じ街を歩いても人々の対象モチーフに向ける意識が全く異なりそれぞれが見出す日常に秘める美が全くの別物であると自明になったことである。
それらは楠見孝らが示す以下の記憶の文節化から導かれるものである。
ー自分がいつどこで何 を行ったかという、出来事の記憶である「エピソード記憶」
ー大正・昭和初期の建物とい ったなつかしいものを、知識として知っている「意味記憶」
ー過去の経験や知識について 知っているという感覚はないが、以前に何度も経験したことが忘れ去られ、無意識レベル で親しみを持つ潜在的記憶としての「知覚表象システム」
上記の根拠から私は意味記憶から内省に繋がり、その対象物が自身の中で位置付けが変わり神格化されたり、ある種のシグナルや記号として機能することが想定されるのではないかと考えを持った。実際にワークショップにて、建築家である被験者が日本橋の建築物を見たとき、それに対して意味記憶から建築としての凄みを意味記憶から見出すと共に、そこから先代が築いてきた技術を引き継ぎ新しい建築のあり方を開拓していこうと気概を感じたと語ったケースがあった。それは既に自らの中に内包された意味記憶が抽出され、ある状況下ではその風景が発端となって内省に繋がることを示唆している。ただこうした風景に対する感度の高い参加者とそうでない参加者がいたため一概に言い切ることは難しい。また一方ではイベント化して人々の潜在的意識をアウトプットすることの限界にも直面した。私のやりたいことは日常の中で何気ない風景に耳を澄ませて今を尊ぶ/記録する/共有・可視化することであるために無理やり過去の記憶やそのときに感じた情動や感情を言語化することにはやや無理があると感じた。ここで実践しようとしていることは詩ようなもので、
①詩情を感じる(言葉にならない感情やもやもや)
② 言葉の韻や音節、リズムで表す(表現者としてのテクニック含む)
③詩として第三者に伝える形へ立ち上がる
というような流れがあると思うが、日常生活で感性が摩耗していると①が出来ないのと②も写真での構図や撮りに行く眼差しのような写真家的な目とスキルが必要ということもあり困難を極めるなと難しさに直面した。また、方法論として写真と言葉という制約の元行ったために、日常のふとした心の栞にはさんであるような感覚の伴った過去の情景自体、前提として写真に収めないという参加者が多く全員を同じような体験や記憶の追随に促すこともまた厳しい状況だった。しかしながら、日常の中に潜む美しい/綺麗だと思う、「小さく、細かい感情」(一方で、Instagramなどネット上で旅行先の写真を見ながら思う感情「綺麗」「楽しかった」などは「大きく粗い感情」)の流出が語られたり共有されることはなかなかないために、イベントを通じて自己理解/他者理解/リフレクションの手段としての有効性や、1つの対象に対する複数の世界の切り分け方が他者の語りから見えてきた部分はあった。

イベントにて使用したボード

2|出張授業
授業実施前は正直、外部の人間がその土地の風景を眼差そう、日常に秘める何気なさを見つめようと呼びかけ記憶の格納を促すのはある種の暴力性が及ばないだろうかと思案していたが、50分間私の話に耳を傾けてくれ最後には「この土地の地域性を忘れずに残していきたい」と感想を寄せてくれた学生が多数いたため、安堵の思いで終えることができた。以下にコメントの抜粋を行う。
「地域の大切さを感じることの重要性を理解することができた。この日常が当たり前だと思っていても、一瞬一瞬がその人の生きがいになったりすることもあるんだろうなと感じることができました。」
「佐野さんの考えを自分の心の中に残していきたいと思いました。自分たちの街にある自然・日常は当たり前ではない、特別なんだということに気づきました。」
「一番印象に残ったのは、『自然は美しい、されど自然は怖い』です。自然(風景)は綺麗で美しいけど自然(実害)は色々なものを壊してしまう怖いものだと思いました。自然が自然を壊すこともあるので、そこで少し複雑な感情になりました。田舎ならではの美しい景色を守って今後に残していきたいです。」

LOCAL LOG を通じたイベントや授業等から「場所の記憶」を可視化していくことの意味合いを探ることが出来たように思う。体感的にも自身の哲学や想いを受け取り場所を眼差そうとしてくれた誰かの存在を認めることが出来た。初めは自身の勝手な仮説からエゴイスティックな思想が多分に含まれていないだろうかと不安に思っていたが、実践を通じてそれらは払拭された。しかしながら一方で、この取り組みをLOCAL LOGとして、やる意味があるのかと周囲から問われる場面は少なくなかった。LOCAL LOGは写真と言葉で場所の記憶を格納する取り組みだが、ツールを見渡せばそれはInstagramやX、アメーバブログ等でも置き換え可能な媒体と化していた。それらと一線を画すると断言できるのは、①「いいね機能」がないこと(承認欲求を補填する要素や他者からの評価が無効になっている)②場所の記憶のみの閲覧にフォーカスを当てていること、である。このように依然としてLOCAL LOGが取り組む必要性に迫りきれていない事実があるため、近似事例の調査を行うことでLOCAL  LOGが開拓可能な領域や本取り組みの必要性を見極めることにした。また、有識者の方々にお話を伺うことを通じて、自身の中で更なる学びを追求する必要性があると考え、インタビュー調査を実施することに決めた。


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