青天を衝け 渋沢栄一と価値観を一にする面々


江戸後期のマネジメントと人材育成の本流、細井平州から、明治初頭の渋沢栄一への流れを感じさせる回だったので少し触れておきたい。

彼らの立ち回りを経営者視点で見ていれば、米沢藩の財政を立て直した細井平州と多くの企業設立をサポートした渋沢栄一は同じものの見方をしていることは見えてくるだろうと思う。

組織の懐を整える力、江戸時代後期の諸藩財政を整えるノウハウを確立した学者が細井平州。平洲を師とし実践したのが上杉鷹山であり、米沢の地に設立した学校が興譲館になる。

それから凡そ100年、同じく一橋家の財政を整えようとした渋沢栄一が出会った、一橋家の人材育成を担った阪谷朗廬の学校の名称が興譲館であったことはとても興味深い。

朗廬がどういった理由で興譲館と名付けたのかは調べても出てこないが、当時人材育成に関わる者であれば興譲館が何を指すか知らないはずは無いだろうと。

栄一は他に、細井平州を仰ぎ自らを西郷南洲と名乗った西郷隆盛とも親しく交流することになる。彼らの物事の見方の根底に、やはり同じ捉え方と実践手法があるのが再認識させられる歴史の流れが確認できた回だったと思う。

https://www.nhk.or.jp/seiten/story/18/


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