成田空港
1991年5月某日、私は成田空港にひとり降り立った。あと一月一寸で6歳になる手前、5歳の時だ。胸に『同伴者不在児童』と書かれたプラカードをぶら下げ、上海の空港で祖母に私をたくされた赤の他人と、空港スタッフのお姉さんに手を引かれ、到着ゲートで待つ両親の元へと誘われた。数年ぶりに会う両親と、いわゆる感動の再会シーンがあった記憶はない。そもそも私は両親の事をよくおぼえていなかった。父は私が1歳になる前に日本へ留学し、母も私が3歳になると父の元へ渡った。母との別れの朝、知人のバンで彼女を空港へ送る車内、何だか気まずくて必死で寝たふりをしていたのをよくおぼえている。「ずっと眠っているね」という安堵ともいえる会話が母と知人の間にあったが、狸寝入りは果たして見透かされていたのだろうか。
上海に残された私は、祖父母の家に預けられた。そのときの記憶の中で、私はいつも祖母と手をつないで歩いている。家の近くに香り高いギンコウボクの花売りがいて、よくねだって一輪買ってもらっていたので、その香りもセットである。成田空港にはじめて降り立った時、私としては優しい祖父母との生活に満足し、上海で9月からはじまるはずであった小学校生活に胸躍らせていたところを急に、よく知らぬ空港に一人移植された気分でいた。だから、父と母に会えた嬉しさよりも、上海での別れを存分に引きずっていたのだ。空港から夫婦の住む家へ向かう電車の中、私は悲しい気持ちや恨めしい気持ちは引っ込めて、『親の愛を称える讃歌』を一生懸命になって披露して母を喜ばせたが、それは渡日が決まってから、祖母に仕込まれた唄である。実の親のもとへ行くのだから変な話ではあるが、私が可能な限り「可愛がられますように」と祖母の愛情がたっぷり詰まった媚び売りソングであった。
そうやってたどり着いた先は風呂なしのボロアパートで、このころ父は大学院を卒業して、エンジニアとして日本企業に就職し、その会社の社宅に数日後に引っ越す予定であった。その夜、ボロアパートの台所のシンクにしゃがみこんで、シャワーヘッドを取り付けたホースで体を洗ってもらっていると、(なじみのない場所で、なじみのない両親に対して、私には文句をいう余裕など固よりなかったのに)「今日だけだから我慢してね」と母が言い聞かせるように言った。父が就職を果し、食うにも困るほど貧しかった生活に安定の兆しが見え、やっと私を呼び寄せたのである。母は上海で国営企業とはいえ、手腕を認められ、30代前半で大きな縫製工場の総経理(工場長)に納まっていた。私を産んでもすぐに職場復帰して、乳飲み子を24時間保育に週五日放り込んでまでバリバリ働いていた人である。それを全部かなぐり捨てて父のいる日本へ渡り、極貧生活を数年に渡ってしていたのだ。当時の日本は、中国にいるものから見れば、それほどに可能性に溢れ、魅力的に輝いていたのであろう。
この時、上山下郷運動によって強制的に20代のすべてを雲南省の辺地で農業従事した父は、新卒と言えど43歳、母は来日後、華僑系の会社でアルバイトをしながら日本語学校にしばらく通ったのち、35歳で簿記の専門学校を卒業し、上海での経験をウリにアパレル会社へ就職をきめたところであった。遅咲き、大器晩成甚だしい。働き先でビジネスチャンスを見定めた母は、ここからまた数年後に、一念発起して自分の会社をおったて、家族総出で事業を成していく。会社をつつましい中小企業に育て上げ、商売が上向きだった頃には親戚をまるっと養えるくらいの事業にもなった。それは時代とか、人に恵まれたりとか、タイミングとか運的要素も多分にあるのだが、それと同時に父にも母にも、なにがなんでも成し遂げるブルドーザー的強さがある。それは、日本でぬくぬくと育ててもらった私には薄く、それが彼らとの軋轢を大いに生んできた。
ぬくぬくと育ててもらったとは書いたが、自己実現力に長けた両親のもとに育った弊害がなかったわけではない。やはり淋しかった、と認めざるおえない。なぜ私を祖父母のもとに残したままにしてくれなかったのかと、今でも思う。自分で自分を育てた早熟さは、大人になってから精神の稚拙さへと姿を変え、周囲の人たちとの隔たりを生んだ。幼い頃に両親から自分事を優先させてもらった経験がないので、大人になってからも自分で自分を優先することが下手である。漠然とした自信のなさを抱え、社会における自己実現と自分の間に果てしなく分厚い壁を見出さずにはいられない。両親が成し遂げたことを、自分ができるとは到底思われないのだが、それができないままでいるのは人生に対する責任を果たしていない自責の念となってのしかかる。そうやって自己実現を渇望する反面、我が子よりも自分事を優先することに強い抵抗があり、母親になって11年、ずっとその間で揺れてきた。しかしこうやって両親の軌跡を改めて振り返ると、これからの人生に希望も湧いてくる。「もうこんな歳だから」という概念が私に根付いていないのも彼らのおかげなのだから。
余談にはなるが、私はずっと母は本当は男児が欲しかったのだと思って生きてきた。小学生時代、私の髪はいつもベリーショートで、洋服は男の子のものを着せられ、スカートなど履いたこともなかった。転んで泣いていると「男の子は泣かないのよ」と知らないおばさんに叱咤激励されたほどだ。中国は当時一人っ子政策をしいており、アタリが男子で、女子はハズレ。本当は男の子がほしかったんだろうなとぼんやり考えていた。それが次女の妊娠中、とんだ的はずれであったことが判明した。長女が女児であると知らせた時の反応は「あら、そう」みたいな感じで、次に期待しているんだと勝手に想像していたのだが、「これで最後」と妊娠した次女の性別が判明したときも母の反応は想像と違った。心底性別などどちらでも良く、ただただ可愛い孫が増えるのが嬉しいようであった。いぶかしんで、
「あのさ、子どもの頃、私男の子みたいだったよね。あれはなんで?」
と聞くと、
「あぁ、あれね、髪の毛の手入れが面倒くさかったの。洋服は私の親友の◯◯の子の、◯◯兄ちゃんていたでしょ?あの子のをいつも送ってもらってたから。お金なかったから、ありがたかったのよネ。」
と、何とも母らしい合理的なこたえが返ってきた。
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