紅虹空港
4年前の夏のおわり、2歳になる次女を連れて、私は紅虹空港にいた。出張がてら会いにきた両親を出迎えるためだ。飛行機の到着が予定時刻より大幅に遅れ、夏の暮、午後の間延びした時間帯に到着ゲートで手持ち無沙汰となってしまった。仕方がないので、ダンキンドーナッツでチョコレートソースがたっぷりかかった舌が痺れるほど甘そうなドーナッツと、パックのオレンジジュースを次女に買い与え、陽射しが燦々と降りそそぐ待合ベンチの一つに腰掛けた。ベンチは1基に4席あって、2基背もたれがくっついた状態で数列並んだ空港特有のもので、他人と向かい合わせになる。少し前に到着した飛行機の出迎えがひとしきり終わった後で、人はまばらだったが、私たちが座り込んでドーナッツの袋をあけたとたん、向かいの座席に50代くらいと思われる女性が一人腰掛けた。彼女は電話で話し込んでいた。口早な標準語(北京語)で、子供に話しかけるのに特有の高めの声音で勤めて明るく話していたが、時折鼻をすすっていた。
ドーナッツが半分ほどなくなったあたりで、彼女は電話をきり、静かに突っ伏した。なんとなく事情はわからないでもない。というより、私には心当たりがあった。しばらくしてから彼女は顔をあげ、盛大に3度ほど鼻をかみ、泣いて赤みの残る眼でぼんやりと、ジュースを開けろと私にせめよる次女を見つめたのち、「ドーナッツおいしい?」と話しかけた。「何歳になるの?」とか「かわいいね」とか他愛ない会話をした後、誰でも良かったのだとは思うけれど、誰かと話したかったのだろう、先ほど小学4年生の甥を日本へ送り出したのだと言った。電話は荷物検査を済ませた甥からかかってきたものなのだと。甥は彼女の妹の子供で、妹夫婦が日本へ渡ってからは、彼女が預かって育てたそうだ。その時甥は、ダンキンドーナッツを貪って手も口もチョコレートまみれの次女と同じくらいだったというから、ほとんど彼女が育てたようなものだ。
私の両親の時代ように、留学先で生活に余裕がなくて仕方なく親戚に預けるというのではなく、最近はしっかりと中国語の基礎を身につけさせるために、小学校まで中国に子供を残していく選択をする海外移住者が多いようだ。それで、小学生高学年になったあたりで呼び寄せる。彼女の甥もそのケースで、前年から日本で両親と生活をしており、今回は夏休みで帰ってきていたのだそうだ。電話越しの甥は泣いており、やっぱり日本に行きたくない、学校が楽しくない、淋しい、おばちゃんの元に残りたい等々のことを言い、それを彼女が一生懸命なだめていたのが、先ほどの口早な通電であった。
移民の子供は孤独である。一部裕福だったり場所に恵まれたりして、インターナショナルスクールや華僑系の小学校に通えるケースは別として、だいたいは公立の小学校にいきなり入ることになる。言葉も習慣も違えば、同じ境遇の人も周りにいない。ましてや高学年からの編入では心を許せる友達を作るのは大変であろう。今まで家族やコミュニティの中で根を張り、自我を築いてこられたのに、急に根無草状態になるのだ。子供の環境順応力は高いので、忙しくしている大人には「気がついた頃にはもう環境に馴染んでいる」ように見受けられるようだが、実生活の困りごとは減っていても、心の中に抱えた淋しさは中々消えることはない。目の前の女性と甥が、小学生時代の私と祖母とにリンクして、私は眼の奥に込み上げるものをこらえるのに苦心した。私も夏休みに祖母の元に帰省するたびに自分の居場所を再確認し、息つぎがやっとでき、本当の自分に戻ったように感じた。夏の終わりが近づくにつれ、大好きな祖父母や従姉妹と離れ難く、子供ながらに無理は承知で、どうしても帰りたくないから電話で母に私は上海に残ると伝えてくれと懇願した。もちろん願いは叶うことなく、帰る日になると、ここ紅虹空港で堪えきれずに感情が爆発し、私は祖母に抱きつき号泣し、行きたくない行きたくないと駄々をこねた。そんな私をなだめて言葉では「学校があるのだから帰らなければいけない」と諭す祖母も顔をぐちゃぐちゃにして泣いていた。
「大丈夫ですよ。今はきっと大変だろうけど、まだ小さいからすぐに日本語も覚えて、友達も気がついたらできるものだから、そのうち日本での生活も楽しくなりますよ。」
大人になった私は、大人な慰めの言葉を彼女にかけた。半分は方便で、半分は本当である。思春期を迎えるころには彼も、淋しかった小さな自分を忘れ、仲間を見つけ、将来に目を向ける。子供はそんなに弱くはない。そして、空港でこうやって泣いてくれる彼女の愛は、彼にとっての安全地帯であり続け、心を育てる栄養源となるのだ。
「大丈夫。私もそうでしたから。」
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