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親だって逃げたい。
最近親子の無理心中が多く感じるのは、今自分が親の苦悩を経験しているからなのだろうか。だったら情けないし不甲斐ない。きっと、どんな時代も世代も親子関係に疲れ苦しんできたはずだ。
でも確かに貧困問題とコミュニケーションの希薄化が深まる今の時代、やっぱり家庭の問題も深刻化してるのかもしれない。
奈良の事件も心が痛む。お父さん、たった一人で、5歳になるまでよく頑張って子育てされてきましたね。
娘さんも辛かっただろうな…大好きな親が笑ってくれない、自分のせいで悩んでいる、それが伝わることがどれだけ苦しいか。悲しいか。
ずっと思春期で悩む子の力になりたいと思っていたけれど、母親になってから、子供の問題よりもまずは親の疲労や不安に寄り添うことが必要なのだと実感してる。
子供の土台を作るのは家庭環境。
その根本となる親を支援できるオープンな交流の機会があれば変わることがたくさんあるはず。
専門機関や医療なんかの、そんなハードルの高いものじゃなくて。もっと、地域の交流の場みたいなところ。
入口となる最初の集まりは、母子分離でなくともいい(費用と人材がかかるから、より多くの親をサポートするという面で難しいだろうな)。遊び場があって、話し相手になるおばちゃんがいて、子供のことを一瞬でも忘れてコーヒー啜れるくらいの空間があれば、毎日それを重ねていければ、心の視野は少しずつ開かれてくるんじゃないだろうか。
でも実際「明日もまた来てみようかな」と思える場って、なかなかないのが現実。
私には、ママ友を作る、知り合いを増やす、のハードルがあまりにも高い。
年長になる娘がいるが、名前を知ってる程度の関係。でもその関係性を積み重ねていくうちに、愚痴れるくらいの仲になったりするのもわかる。だけどその気力も体力もない私には難しい。
娘が1歳の時に、地域の交流の場に行ってみたことがある。荷物は多いし、お昼ギリギリの時間までやるものだからご飯の準備どうしようと色々考えたりで、行くのがしんどかった。
行ったら行ったで子供らは各々におもちゃをいじり、奪い合いで泣き出すこともやっぱり多い。「お友達使ってるからこっちにしようねー」と宥めるのも虚しく、アレがいい!やだ!と怒り泣き出す娘。気を遣って遠慮してくれる他のお母さんにも気まずく、抱き抱えて別の場所まで無理矢理移動させておもちゃを探す…
これじゃあ家で自分のおもちゃを好き勝手遊ぶのを見守ってた方が楽だ…と虚しくなったのを思い出す。コロナ禍だったこともあり、よだれや鼻水に異常に敏感になっていたこともあり『それさっき別の子が舐めてたけど大丈夫⁉︎』と見ているだけで疲弊した。やっぱり家で、子供とのんびり遊んでいた方が私の性格には合っていたな…。
ママたちは仲良しそうな人もいたけど、なんだか気まずい雰囲気で話せる場でもない。子供から目離せないし。話しても途切れてしまうし、寝不足で頭も回らなかった私は全然話が入ってこなかった。
「お母さん、休めてますか」優しそうなおばちゃんスタッフが声をかけてくれたけど、全然寝なくてきついですねーあははーでおわり。「もう少し大きくなってくれるとね!一緒にお昼寝できるといいですね」という定型分。悪気がないのはわかってる。
でも、私にはその場に意義を見出せなかった。逆に全部がとても苦痛で、2回行ってやめた。
離れた地で友達もいなかったし、出産前から出不精な私は毎日毎日自宅保育。夫は働きながらも全面協力してくれていたけど、もちろん初めての育児。二人ともどうしようもないことで悩み、私はストレスで泣きついていた。
唯一、母とのビデオ通話だけが励ましだった。
この経験があるので、地域の交流会というのは、負担になる人間もいるとは理解している。
だけどやっぱり必要なものだとも感じる。
地域の交流でしか、限界を越えそうな親を発見できる機会はないと思うから。
母子分離できる場、というのは、一番大変で離れたいはずの2歳くらいまでは正直難しい。後追いが始まる時期だし、安全面でもスタッフの数を多数確保できてないといけないもんな。
だけど、限界を自覚している親には直ちに必要な処遇のはず。
視野の狭くなった彼らの視界には子供しかいない。その背景に色はなく、未来も見えない。本来幸せの象徴であるはずの我が子が、重荷に見え、敵に見え、悪魔に見えてくる。そんな自分が悍ましく、腹立たしく、罪悪感に潰されどんどん視界は暗くなっていく…
そんな絶望しかない世界から、まず子供を除かなければならない。
「 親御さん、お子さんをこのスペースで預かります。上の階で、どうぞお好きな飲み物を飲んで一服なさってください。お子さんの様子はいつでもこの窓から見られますよ。(防音、プールにある2階の窓のようなイメージ)お子さんが泣いていても大丈夫、この時間だけは気を緩んでいいんです。ちゃんとスタッフが見ています。あとで少しお話聞かせてくださいね 」
そこが、高齢者でいうデイサービス・ショートステイの機能を持った親子支援サービス施設だったらとても良いんじゃないか。なんなら1歳までは送迎サービスもついてたりしたら。費用は、医師の診断の元(うつ傾向、ノイローゼ気味や不眠等)保険適応、奨学金制度のように後払いも可。だってこの時期に心と身体が回復できたら、きっと将来働くことにも意欲が出るもの!
今日はここに泊まっていきなさい、と声をかけられるだけの人員と場所と物品が揃っている。予約なしで即時対応してくれるような…!!
なんて、こんな夢物語書いてるだけでちょっと虚しい。でも介護のレスパイト入所は許されて、子供の育児レスパイトは親の甘えなのか?
実際にこんな悲しい事件がたくさん起きている現代で、そんなわけなくない?
医療や専門機関に頼むとなると、予約やら検査やら前置きが多くて「今しんどい」が結局過ぎていって心はどんどんやつれていく。
専門なんでしょ!?最後の砦でしょ!?と、こっちの期待値も上がってしまう。なのに劇的に解決されることなんてない。
「やっぱり誰も助けてくれない」と追い詰められ絶望する構図は目に見えている。
「子どもの心を守りましょう」
「規則正しい睡眠と栄養を」
「子供に寄り添い、育てにくさの理由を考えましょう」
どれも正しい。正論。その通り。気をつけますほんと。
でもどれも、本当に行き詰まっている親の首を絞めるような台詞。
共働きを推奨するけど、親子のコミュニケーションを図り家庭も充実させましょう、って。そりゃあ、言うだけ簡単だけれども。
片親で、我が子を生かし自分も生きるため懸命に頑張る人たちにはもっときついはず。
親には誰が寄り添ってくれるの?
親は大人だから、自分の責任で生んだから、辛いのは今だけだから、子育てから逃げてはいけない?
その末路が無理心中でも、その考え方は正しいの?
「だったら産むな」と罵倒する?
それって、
『人生つまらん。幸せになれない。つらい。苦しい。』
「だったら生きるな」くらい暴論だと思う。
死にたい人たちもいるけど、でもみんな思うところは本来そこじゃない。「今この現実から逃げ出したい」という願望なのだから飛躍しすぎた暴論でしかない。
子育て支援を懸命に進めてくださっている方々がいるのも承知しています。一時預かり所はとても助かるし、親の逃げ場や吐口となる機関があることも。
でも、そこまでのハードルがやっぱり高い。「助けて」と言えない人は、予約や準備の時点で心が折れがち。
そして実際に悲しい選択をしてしまった家族というのは、色々な方面に訴えていたのに「誰も助けてくれなかった」と絶望するケースが多いように思う。
少しの支援では到底カバーできないほどの疲労と絶望で、もう何も見えなくなっていたのかもしれない。
期待とは違う対応にどんな言葉も支援も届かず、タイミングも合わず、「もういい」と諦めてしまったのかもしれない。
本当は、何よりも大切で愛おしいはずなのに。でもその思いは捨てきれず、自分の命よりも大切だからこそ心中という形になってしまうのか。
そんなことを思うと本当に悲しくて堪らない。
いつか、子供だけじゃなく親の心のサポートもできるようになれたら。こんな夢のような施設を作れたら。
活力も財力も何もない私には無理だろうけれど、生涯のうち一人でも誰かの役に立てたらいい。それだけで、私が生きてきた価値が生まれる気がする。
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