withコロナ/afterコロナの日常で、われわれは恐怖と表裏一体の価値観の多様性を受け入れられるのか?
令和2年も9月に入り、カレンダーは早くも残り三分の1となりました。
新型コロナウイルス感染症との付き合いも、かれこれ半年が過ぎようとしています。
その間、外出自粛要請や緊急事態宣言など、経済的にも精神的にも大きな痛みを伴う対応が採られてきました。日本国民は、我が国の企業は、本当に疲弊しています。
辛さが募る一番の要因は、変わらぬ景色の中をひたすら走り続け、その先にあるはずのゴールがまったく見えないこと。ゴールは一月先なのか、半年先なのか、はたまた一年先なのか、そもそもゴールは存在するのか…。
人々の新型コロナウイルス感染症への対応も随分と変化しました。
会議こそWEB会議がいまでも主流ですが、少々込み入った議論が必要な時には実際に顔を合わせて行うようになりましたし、お客さまとの打ち合わせも、以前のように回数が戻りつつあります。
時間帯によっては、電車等の混雑も新型コロナウイルス感染症の流行前を思わせるようです。
そのような状況で、痛切に思うことがあります。
それは、「人それぞれの『思い』の違い」です。
3密を避ける「新しい生活様式」は、ある意味において画一的な行動様式ですから、誰が実行しても変わらないように思えます。しかし、実際には、人それぞれ、「ここまでなら良い」、「ここまで来たらアウト」と、是と非の境界線が違います。自分は許容範囲だと思っていても、別の方から見ればそれは感染症予防の対応から逸脱してしまっていると見えてしまうのです。その最たるものが「自粛警察」、「マスク警察」、そして「帰省警察」などでしょう。
人間には『感情』があります。AI(人工知能)や機械と違って、常に最も合理的で無駄のない行動を選択し、実行するわけではありません。『無駄』や『不合理』とも見える行動を、人間は当然のごとくに行います。それが『人』が『人』たる所以であり、『人』の行動を豊かにしていることも確かです。
人々の新型コロナウイルス感染症への対応のしかたは、初期の頃の画一的な対応から、人それぞれ独自の対応にシフトしています。
新型コロナウイルス感染症の感染リスクは生命にかかわることですから、自分が思うよりも緩やかなリスク対応、自分の価値観と異なるリスク対応は恐怖を伴います。自分の価値観を共有してほしいと思いたくなるでしょう。しかしこれからは、人それぞれの多様な新型コロナウイルス感染症への対応を受け入れる、多様性の受容が必要になっていくでしょう。
『人は一人びとりみんな違うから面白い』。そんな日常の常識的な価値観が、新型コロナウイルス感染症の下でどのように受け入れられていくのか。
withコロナ/afterコロナの日常で、われわれは恐怖と表裏一体の価値観の多様性を受け入れられるのか?
我々は変革を迫られています。