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【怪作ホラー!?】 濱口竜介『悪は存在しない』を読み解く。  —ドゥルーズ『シネマ』を手掛かりに—

割引あり

はじめに

※最後のおまけだけ有料にしてます。レビューは全てご覧いただけます。

こんにちは、はじめまして。
大ヒット上映中の映画『悪は存在しない』を昨日見てきました。

 この映画を見たあとに映画評論家がアフタートークをするというので、映画を見た足でそのまま参加したのですが、そこでいろんな方の解釈が聞けたことで、僕なりの解釈というか、妄想も膨らんだので、ラストのシーンをレビューとしてまとめてみることにしました。
解釈を深めるために参照するのは、フランス現代思想の哲学者ジル・ドゥルーズ『シネマ』です。これを手掛かりに『悪は存在しない』を読み解きます。
濱口監督は生粋のドゥルージアンでもあったということで、ドゥルーズの思想無くして、彼の映画を正確に読み解くことは不可能です。

これを踏まえた上で、レビューをまとめてわかったことは、
この作品

めっっちゃ恐えぇ、ホラー映画だってことです。

正直、ラストの解釈は自分で書いてて背筋がゾッとしました
なぜなら最後に導き出されたのは、濱口監督がこの作品の奥底に込めた強烈な〈観客〉への怒りだったからです。
監督の静謐だけれども、どこにもやり場のないようなこの憤激が凝縮されたラストの展開

これのどこがホラーだったのか。
わかりやすく解説していこうと思います!

思っていたより長尺となりましたが、ご興味のある方はぜひ最後まで楽しんでいってください!

この物語の本質

ラストのシーンを思い浮かべてください。

あそこではいったい何が起こったのか。いろんな推測が可能でしょう。
しかし、この映画は謎が多すぎる。わからないことだらけです。
この映画を読み解く上で、手掛かりとなるキーワードは、読者の方もよくお分かりかと思いますが、

水の上から下への流れ
これに尽きます。

これがこの物語の構造であり、本質です。

区長が言っていたように「水」は単に水だけを意味するのではありません。それは社会的階層構造をも意味します。
これは暗喩でもなんでもなく、区長が説明会の中でそう発言していました。
実は、この映画の中では、水以外でもいくつかの上から下の運動が見受けられます。
僕が見た限りではそれは4つありました。

①グランピング施設建設のため都会から、タクミたちが住む地域にやってきた、タカハシとマユズミ。

②同じくこの地域に移り住んで、うどん屋を営み始めた夫婦(?)。

③子連れの手負の鹿。

④区長を頂点とした、地域住民、もしくはハナとタクミまでの階層構造。

では、ひとつずつ解説していきます。

上から下への運動①  — タカハシとマユズミ —

 タカハシとマユズミの上から下への下降は、区長が説明会で言及した流れのことを表しています。それは

・支配者階級から被支配者階級
・都市から地方
・資本から贈与の流れ
と言えるでしょう。

タカハシたちはこの上と下の間の存在
互いの意見を運び伝えるメッセンジャー的な立ち位置にいます。
彼ら自身は、グランピング施設が作りたいわけではありません。
まさに上と下からの板挟み状態。ドライブ中にタカハシは、そのストレスからか怒りを爆破させます。
 彼の大きな声にマユズミは恐怖を覚えます。彼の暴力性、もしくは軽薄さがそこで垣間見えます——彼自身は否定するのですが——。

対して、マユズミは今の仕事に満足している様子でした。前職で心が壊れてしまったが、綺麗事のない現職がかえって気に入っていると言っていました。

 タカハシはその会話劇の中で、ある転換の予兆を見せます。
グランピング施設の管理人に俺はなると言い出すのです。
説明会で住人の女性が意見したように、グランピングなどの施設は、ある種の都会に住む人のガス抜き場、非日常を楽しむ場です。
そこは謂わば排泄の比喩となっています。
排泄物は下方に流れて溜まる。そうして割を食うのは我々住民だという意見は真っ当だと思われます。
映画を観ている我々には、どうやらそういった、地方の問題、環境の問題を描いているように、感じられたでしょう。
しかし、このようなポリコレ的な主張がこの話の本質だとは到底思えません。

ちなみに、この排泄の比喩は、牛の糞として直接的に描かれます。発酵した堆肥からはその熱によって水蒸気が蒸発する様子が描かれます。おそらく唯一、水が下から上にあがっている分かりやすいイメージだったかもしれません。

他にも下から上に水が上がるのは、タクミらが水を汲み、それがうどん屋の料理や生活用水として使われるシーンでしょうか。この下から上への上昇は、新プラトン主義のプロティノスの思想、一者への還元を暗に示しているのかもしれません。
自然は循環しています。確かに水蒸気は下から上に登りますが、これは単に人間の主観的錯覚に過ぎません。宇宙には上下などないからです。ここでは自然は方向などなく、世界を循環する流れだとしましょう。
しかし、人間はその自然の流れに意志の力で介入します。カオスから秩序を形成することができるのは人間だけです。
とはいえ、一者などと大きなことのように言いましたが、これが人間中心的な秩序を超えるものであるかどうかは疑わしいです。人間は人間の関心に従って秩序と呼びうるものを作ります。自然や動物には、まず知りもしないことです。

 話を戻すと、タカハシとマユズミは、こうした下から上への運動ではなく、上から下への運動系列(ドゥルーズ的に言えばセリー)です。
不思議と二人は下へ向かうことを加速させていきます
タカハシはもう管理人になる気満々になっています。
マユズミの方はというと、タカハシに先に帰っていいよと声をかけられましたが、最後の仕事だからと言いその場に居続けます。仕事気に入ってたんじゃないのか!って思いましたが、どうやら彼女も「下」に感化されてしまったようです。

 この彼らを魅了する「」とは何なのでしょうか。他の系列も見てみましょう。

上から下への運動②  — うどん屋の夫婦 —

 うどん屋の(おそらく)夫婦もまた、都会から降ってきた身分でした。重要なのは、彼ら夫婦とタカハシらとの差異を見極めることです。彼らの違いは、タクミ的な言い方では「バランス」です。

説明会でうどん屋の女性が発言したように、自然や地域住民との適切な距離を保つことが何よりも重要なのです。それは、あるこれ以上超えてはいけないラインを守るということです。つまり、これ以上降ってはならない下があるということを意味します。下とは禁域を示します。ある種の聖域といってもいいかもしれません。人間が自ら踏み入れてはならない領域です。しかしながら、それは具体的な空間であるようにも思えません。「下」が意味することは、ここではもう少し抽象的な空間として考えてみようと思います。

 グランピング施設はこうした「下」を穢すものです。多くの住民はこれに反発していましたが、タクミはもう少し俯瞰した視点を持っているようでした。
まだ、反対も賛成もしていない。大事なのはバランスであることをタカハシらに伝えます。
タクミの態度は実に中立に見えます。しかし、タクミのこの中立さは、人間のそれを超えた何か独特な異様さを含んでいます。
 タクミについて考察する前に、動物、特に象徴的なモチーフとなった鹿の系列を考えましょう。

上から下への運動③  — 鹿 —

 映画の中で、牛以外に登場した動物は、鳥と鹿です。ここは安直に鳥は上、鹿は下の構図でいいでしょう。鹿について考える前に、鳥の羽の動きに注目してみます。
 上空を高く飛ぶ鳥をカメラが追いかけるシーンがありました。この上から下に落ちてきたものが、ハナとタクミが拾った鳥の羽です。水が人間に使用されるように、鳥の羽もチェンバロの部品として使用されます。

自然、ないし動物は、人間の手によって機械に従属することになります
これが資本主義の構造です。これは人間がエントロピー増大にともなって分離されていくものを下から上へ引き上げる運動でもあります。
(この資本的な系列とは別に、ハナから区長への引き上げの運動に見られる構図に注目しなければならないでしょう。鳥の羽はハナから区長へと受け渡されます。ここでは明らかにハナが下で区長が上、そしてタクミがその中間にいるという構図が示されています。)

 このように水や鳥の羽は人間と接点のある物質です。しかし、鹿はどうでしょう。タクミは鹿が人間を襲うことは絶対無いと断言します。鹿は臆病で、人間との接触を避けます。ただ、手負の鹿は例外的に人間と接触する可能性があると付け加えます。これがラストの布石となります。

 鹿と人間の接触は、人間が一者へと還元する作用の外側にあります。
映画の中では、銃声と思われる音が3発響きます。この音は鹿猟の銃声でした。増え過ぎた鹿は人間にとっては害獣と認定されます。人間はその勝手な認定によって動物を消去します。このように鹿は、上から突きつけられた死によって消されてしまう、割を喰う役回りと言えるでしょう。

 鹿はここでは限りなく下に近い存在です。下とは「死」を意味することがここで見えてきたと思います。下に行けば行くほど死に近づく。これは確かに抽象的な空間、禁域であるように思います。

 この映画では、鹿の死骸が何度も登場します。その死骸も人間の手によって消去された存在でした。

 しかし、この映画では描かれているのは単純な死であるとは思えません。なぜなら、生命の死への移行は直接描かれないからです。

3発の銃声は、3つの系列に対応しています。それは鹿、タカハシ、ハナの系列です。記号的に言い換えてしまえば、この映画では社会で割を食うのは、動物、労働者、子供の3系列として示されます。

 銃声は、映画内で面白い効果として機能します。ラストのハナと鹿が対峙するシーン。鹿には銃弾が撃ち込まれた痕があります。銃声を聞いたとき、僕はひとつの死を想起しました。頭の中で鹿は死んだのだと思い込んだのです。しかし、鹿は生きていました。少なくともラストのシーンまではその命は持続していたのです。

 タカハシもまたタクミに首を絞められて泡を吹いて動かなくなります。死を想起しましたが、その後でタカハシはふらつきながらも生きていたことがわかります。ただまた倒れ込んでしまうが、明確に彼が死んだのか、気絶したのかは分かりません。

 そしてハナは鹿との何かがあった後、血を流して倒れています。タクミはハナを抱えて森に入っていきます。映画の冒頭では上を見上げるハナの視点が映されます。そして最後もまた上も見上げた視点です。これはタクミの視点とも捉えられますが、この視点はハナでなければなりません。ハナが生きているか死んでいるかは、誰にも判断できることではありません。ある種の宙吊りの視点とも言えます。

しかし、最後の上を見上げる視点が、冒頭の視点の反復でなければならないのは、鹿とタカハシの死の宙吊り的状況がハナの視点にまで延長されなければならないからです。でなければ、この映画の「下=死」の問題を処理できません。

上から下への運動④  — ハナ —

 「下=死」については、タクミとハナについてもう少し深く考察する必要があります。社会の皺寄せは、鹿の死では止まりませんでした。手負で子連れの鹿は、人間と接触する可能性があるのでした。そして鹿という限りなく下に近い存在は、もうひとつ下の存在であるハナにそのバトンを渡します。

本来交わらない系列であるはずの、鹿とハナはその例外状態において、交わります。

しかしながら、これは回避できたことなのではないかと皆さん思ったはずです。そう、タクミがタカハシを制止しなければ、タカハシによってハナは助かった可能性もあるのです。ここがこの映画の最も謎めいたところです。なぜタクミはあのような暴力をタカハシに行使したのでしょう。いやそもそも、あらゆることに精通しているタクミならなんとかハナを助け出せたのではないか。そう僕たちは思ったはずです。

 タクミには多くの不可解な点があります。タクミという存在は何なのか。それを考えましょう。
銃声、そしてタカハシの恐怖を呼び起こすほどの大きな声、これらの音は容易に「悪の概念」に結びつくでしょう。しかし、これよりもっと強烈な音、この映画で最もショック効果を持つ音は、冒頭のシーンのすぐ後にある、タクミが丸太を切るチェーンソーの音です。音量とその唐突さによって、映画の中でもっとも強調された音であることは間違いありません。この映画の音の特徴は、唐突さにあります。唐突に音楽は中断され、未来の音が現在に侵入するかの如く、音が映像よりも先行しています。
このような音に違和感を持った人は多いと思います。チェーンソーの音もまた映像に先行することで、暴力的な性質を高めているとも言えるでしょう。

 チェーンソーといえば、『チェーンソーマン』の作者、藤本タツキはどうやらシネフィルだったようで、映画からチェーンソーの凶悪性のインスピレーションを得たようだけど、チェーンソーと悪との関連は映画界ではコンセンサスがあるだろうか?

 それはいいとして、結局のところもっとも凶暴さを発揮したのは、タカハシでも鹿でもなく、タクミでした。それはすでに冒頭の音で暗に示されていたと言えるでしょう。

 タクミは一見すると、口数は少ないが、一人親で娘を育て、人の手助けをする善良な人間に見えます。しかし、タクミは明らかに常軌を逸する性質を持っています。タクミの言葉は、朴訥としていて感情が欠けています。口数の少ないどこにでもいる父親のイメージとして受け入れることができるかもしれませんが、話の進行とともに、タクミはその枠組みでは捉えられない部分が明らかになっていきます。

 タクミは娘の迎えに行く時間を常に忘れています。うどん屋の男性にも言われるように、冗談抜きで忘れすぎなのです。単にタクミがお茶目な性格であるわけではありません。
また、うどん屋での会計では支払いが足りないことを指摘されます。あの理知的なタクミがなぜこのようなミスをするのか。何かワケがありそうです。

 もうひとつ注目すべき点はタクミの表情です。タクミは常に真顔であり、彼の感情を把握するのは困難です。
表情が読めないからといって、非人間的存在として見做すのは飛躍が過ぎるかもしれませんが、僕は非人間的存在としてみなそうと思います

 彼の存在は現実的ではありません。彼は自身を便利屋だと称します。タカハシに施設の管理人を申し込まれたとき、タクミは金に困っていないと言いました。仕事をしておらず、人の手伝いをして、もしかすれば多少稼いでいるかもしれないが、水汲み程度の手伝いで、娘と自分を養うだけの余裕が本当にあるだろうか。ここはフィクション特有のご都合主義とも取れるが、どちらかと言えば、タクミの非俗人性を表しているように思います。

 タクミは自然の見えているものから見えていないものまで、何でも知っているようでした。自然を翻訳し、人間に伝える。彼は仲介者としての役割を担っています。自然と人間の間の存在として、彼は機械のような中立さで、人間と自然の間を取り持っていました

 タカハシらとの車の中での会話で、タクミは行き場のなくなった鹿はどこへいくのかと自問したまま黙ってしまいます。どこへいくのか。それは「下=死」です。この「どこ」という問いかけは重要です。「下」は具体的な場所ではないことは先ほども言及しました。「下」は「死」という抽象的な場であるとも既に指摘したとおりです。

しかし、「死」は単に生物学的な死を意味しないことに注意しなければならなりません。

 映画のポスターには「これは、君の話になる——」とも書かれています。確かに、死は万人に共通します。だからといって、なぜ我々に映画内の死が繋がるのでしょうか。濱口監督はどのような方法で、死を私たちに接続するのでしょう。このことについてはまた後で説明します。

 タクミの人間ぽくない部分は、おそらくタクミが純粋な人間ではないことを表しているように思います。ただ、タクミは人間らしく振る舞っています。人助けや、ハナに風邪をひかせないように気をかけたりする場面は、タクミが人間らしいとも思える部分でしょう。

 しかし、ハナはタクミが自分に興味がないことを知っています。タクミが絵を描くシーンは象徴的でした。ハナはタクミがかまってくれないため、タクミのもとから離れていきます。このシーンは、ハナが行方不明になることをすでに予兆していました。
ハナはタクミが自分を迎えに来ないから、先に家に帰るのではありません。
ハナは道に沿って帰るのではなく、いつも森に入っていくのです。
それをタクミが探し出す。
ハナはタクミの興味を引きたいのです(なんと切ない涙)。
ハナはタクミに見つけてもらうために森に入っていくのです。

 しかし、森は危険です。棘のある木もあります。森は「下=死」に近い場所です。
鹿の水飲み場は、まさに「水」が溜まった最下層であり、さらにその中に落ちたとしたら死は免れないことでしょう。ハナが行方不明となり、鹿の水飲み場をじっと見つめて、ハナが水の中に落ちていないと判断します。そしてさらに森のずっと「奥=下」へと進むのです。
つまり、このシーンは、水の溜まり場よりもまだ「下」があるということを意味します水は「下」の単なる比喩に過ぎなかったのです

二つの宣言

 さて、最後のシーンに触れる前に、触れなければならないことがあります。それは濱口監督がこの映画で二つのことを暗に宣言をしているということです。

 一つは、視点です。冒頭のシーン、カメラのショットはハナの視点であることがわかります。なぜ木々を見上げるシーンはこんなにも冗長なのか。それはカメラのショットが存在者の視点であることを宣言するためです。
ポイントオブビューや視点の切り返しなど、森の中において、多くのショットは何かの視点となっていました。例えば、オカワサビや鹿の亡骸の視点がそうです。

 僕が参加したアフタートークで、一人のパネリストの方が、そうした視点の表現が、「瑞々しい、あるいは稚拙だ」と仰っていて僕はなるほどと思いました。確かに識者の方がこれらの表現を見ると稚拙に見えるかもしれません。
ただ、視点はもう少し広い領域にまで延長されていたように思います。

 それは森の視点です。それは森全体が視点であるということです。
森の中では、木々が邪魔でカメラと人物の間に植物が入り込んでしまいます。
しかし、その汎心論的視点は森全体へと延長されて良いはずです。カメラはどこか遠くからタクミたちを覗き込むような視点となっています。亡骸が視点を移動させるように、森は彼らを目で追いかけます。

 もう一つ重要な宣言は「時間イメージ」です。
これはドゥルーズが『シネマ』で主題としているものです。純粋に光学的音声的な状況を濱口監督はこの映画で意図的に扱おうとしています

 その宣言となったシーンは、だるまさんが転んだで遊ぶ子供達の場面です。ここはまだ時間イメージではありません。ただ、映画の中での「時間」を扱う意思をここで示しているのは明らかです。

 タクミの車内でのカメラは意味もなく常に後ろを向いています。これは過去のイメージです。それは過ぎゆく時間を意味しています
また、タカハシらの車内のカメラは前を向いています。これもまた未来のイメージとして対応しているでしょう。つまり、この映画全体の時間が進んでいることを車内カメラは表現しているのです。濱口は、三つのタイプのカメラワークを扱っています。それはカメラの水平、垂直、奥行きといった運動です。

 ドゥルーズはこうしたカメラの運動について詳しく分析しています。『シネマ』の前半では、これらの運動が時間のイメージを形成するところまでが語られます。これは、運動が時間を従属させた状態です。
 しかし、『シネマ』の後半では、この従属関係の逆転について述べられます。つまり、時間が運動を従属させるのです。僕たちは、動いているものを見て時間の経過を感じます。これが運動イメージです。
 しかし、僕たちの中にある程度時間の観念が整えば、静止したものにも時間の経過を感じるのです。つまり、「時間イメージ」とは、ものの運動よりも時間それ自体が支配的な状況を指します。

運動は、映画のストーリーを表現します。しかし、『悪は』では、この運動の辻褄が合わない次元に途中から移行しています。
ハナが行方不明になり、タクミ、タカハシ、マユズミの3人で森を探します。マユズミが棘の木に触れる場面では、手は切れていないにも拘らず、棘から血が滴るカットが挿入され、二人と合流した頃には手に怪我を負っていました。この場面からすでに映画内の運動の流れが壊れていると言えるでしょう。
そしてこの血の滴は、映画的状況が転換されることを象徴的に示しています

 なぜなら、この滴はマユズミのもののようでありながら彼女の血であるかは宙吊りであるからです。映画ではそこはハッキリと示されません。彼女の血だと思うのは僕たちの妄想に過ぎないのです。この滴は、既に我々が客観的に受け取る運動の流れからは、はみ出してしまっているのです。

 つまり、このシーンからこの映画は全く時間の質を変えてしまったのです。ここでようやく「下」はどこであるかがハッキリします。

 「下」は死であるのは変わりありませんが、単に生命の終わりを意味するのではありません。それは時間の死、すなわち映画自体の死を意味します。

 「時間イメージ」の状況では、もはや話の辻褄合わせは意味がないことに注意してください。ドゥルーズは、人間が理解不可能な場面に直面したとき、人は自分が理解できるような紋切り型を持ち出してその物事を理解する傾向について述べています。
それはドゥルーズにとって、思考停止であり、彼はこれを批判して「危機」であると言います。つまり、紋切り型に無理矢理当てはめるようなストーリー解釈、考察は退けられるべきものなのです。

 ただ、この物事への理解へ向かう我々の傾向はどうしようもないので、作家はその紋切り型に回収されないようなより強いイメージを作り出さなければなりません。ドゥルーズは「芸術の解釈は人それぞれだよね」なんて甘いことは言いません。より映画を先鋭化させていきます。

 「時間イメージ」的状況下ではストーリーなど最早どうでもよく、どのような紋切り型(こじつけ)にも回収されてはなりません。
『悪は』は、どのような運動イメージ的なストーリー考察をしても腑に落ちることがないという点で、「危機」を乗り越えていると言えます。
この映画に置いて重要なのは、より抽象的な次元にあるのです。

本当の最下層とはどこか

 さて、最後のシーンを検討しましょう。先ほども述べたように、この映画には三つの死の宙吊りがありました。鹿、タカハシ、ハナは確実に死んでいるかは定かではありません。しかし、生と死の間に彼らがいることのは重要です

 最後ハナを見つけた場面では、夜のはずなのに、薄明るくなっています。これは、後の森に入っていく場面の空の暗さと比較しても、空間的な辻褄が合いません。ここでも空間は既に歪んでおり、この場面が強調されているとも言えます。
 この幻想的とも言える地平では、鹿、タカハシ、ハナの系列が一堂に会します。そして、この地平においてこれらの系列は交わろうとしているのです。つまり、この先の最下層へと進むのは誰かを決める場面でもあります。  

 まずタカハシが動きます。しかし、それをタクミに右手で制止されます。タカハシとマユズミは「下」に感化され、急激に下降をしてきました。マユズミは途中でリタイアしましたが、タカハシはどんどん「下」へ向かいます。外からズカズカと村に介入し始めたタカハシですか、最下層へと最も近づいたとき、彼の身分は目の前の鹿とハナに比べれば、タカハシの階層の方が上だとわかります。なぜならタカハシは管理人となって、鹿にその負債を負わせる側だからです。

 では鹿とハナはどうでしょう。鹿は子連れでしたね。つまり、射創のついた手負の鹿は親であり、子を守る立場です。親鹿の下にはまだ子鹿がいるのであり、子供であるハナよりも階層が高いことを示しています。
 つまり、この中で最も最下層にいるのはハナなのです。この構図では必然的にハナは全ての穢れを引き受けなければなりません。ハナは帽子を取ります。これはタクミが説明会でした仕草でもあります。つまり、タクミが中立的な立場にいるようにハナも中立なのです。そして帽子を取り、タクミがタカハシらを受け入れようとしたように、ハナもその負債を受け入れるのです。

 これはこの物語の宿命であり、タカハシが理不尽にも暴行を受けた理由です。タカハシはハナを助けようとするのです。それはタカハシの上から下の流れの系列の負債をハナに負わせることになりません。

 対して鹿の系列は鹿猟という別の系列です。つまり、逆説的にハナはタカハシに助けられてはならなかったとも言えます。
タクミの娘であるハナが鹿から負債を引き受けることを、タクミが選択したのです。
つまり、この場面ではハナではなくタクミに選択権があったことが重要です。

便利屋タクミ

 タクミは人間と自然の中立な仲介者でした。しかし、彼の属性はそれだけでしょうか。

実は彼は映画の内と外の仲介者でもあるのではないでしょうか。

濱口監督はこの作品の神的存在です
タクミはその使徒なのではないか
タクミはその使徒としての役割を遂行しようとします。その使命とは何か。それは上から下への流れを矛盾なく完成させることです。

 なぜ、それを完成させなければならないかというと、ポスターで宣言しているように、この映画は最後、映画を観ている僕たちに接続しなければならないからです。
 これは僕たちもこの上下の構図に参加しなければならないということを意味します。つまり、実は最下層に位置するのはハナであり、僕たち〈観客〉なのです。観客はもはや傍観者ではなくなりました。

 では、どのようにそれが示されているのでしょうか。それは視点と時間によって示されます。

 冒頭と同じく最後も上を見上げた視点のショットです。この視点は冒頭と同じくハナの視点です。しかし、冒頭のそれとは質が異なります。冒頭でも上を見上げる視点は最初誰のものか示されません。徐々に雪を踏み締める音が聞こえてきて、視点の裏には人の存在があることを示し、次のショットでそれは少女の視点であったことがわかります。それはハナの自律的な歩行による垂直の運動でした。
 しかし、最後の垂直運動では、ハナは自律的な歩行ができません。なぜなら生と死の境に彼女はいるからです。しかし、ハナはその状態でも、さらに「下」へいく必要がありましたこの「下」は映画の死、映画の終点です。つまり、物語の終わりまで下降しなければなりませんでした。

 それを手伝ったのは(濱口監督の)便利屋でもあるタクミです。タクミは何か他の存在に掻き立てられるかのようにハナを物語の最後にまで連れていきます。

 ハナは生と死の宙吊りの状態にいます。なぜ、そう言えるかというと、今までに映画内の死は散々裏切られてきたからです。
 銃によって死んだと思われた鹿は、生きていました。
首を絞められて死んだと思われたタカハシも瀕死とはいえ生きていました。鹿に攻撃されて死んだと思われるハナも実は生きているのです。
それは、最後の上を見上げる視点で表現されています。
まだ生きていて死にかけているという状況が重要なのであって、そこで死んでしまったら、僕ら〈観客〉にその負債を負わせられない。
これは濱口監督の意図に反します。

 最後のショットが、ハナが上を見上げた視点であるのは、タクミの息遣いによって示されています。そこにハナを抱えたタクミの存在が示されないのであれば、その視点がハナのものであるとわからないからです。

 もうひとつこの視点は特徴があります。冒頭も同じですが、そのショットが人の視点には感じられないほど滑らかに運動するという特徴です。ハナの視点はもっと荒々しいはずなのです。足元が悪い中であのような滑らかな動きができるはずないのです。この違和感を無視してはいけません。

 つまり、この視点はハナの視点であると示しながらもハナの視点を既に超えている視点であることが示されているのです。つまり、それは次元を異にする我々〈観客〉の視点でもあります
 その理由は単純です。僕たちはの視点は映画を見るとき安定しています。僕たちの体はそれほど動いていません。これにカメラは追従しているのです。つまり、カメラはハナの身体ではなく、シネマ〈観客〉の身体に追従しているのです。全てのショットは僕たちの視点です。それは冒頭で宣言されていました。

 そして本当のラスト、空を見上げる視点は瞼を閉じるようにブラックアウトします。この地点が時間的最下層であり、空間的最下層と接続する境界です。ハナと僕たち〈観客〉の視点の一致。この接触において、もうほとんど死にかけというか、あとは死ぬだけの状況を、負債としてタクミは僕たちに強制的に負わせ、ハナを救済したのです。

こうして、タクミは使命を果たし、上から下への流れを矛盾なく完成させたのでした。これが、「これは、君の話になる——」の真意です。

さいごに

怖いよ、濱口監督。
この作品は、「最上層の濱口監督〈神〉」と「最下層の僕たち〈観客〉」という構造を十全に使った、言うなれば爆弾ゲームみたいな、、、なんだ僕たち呪われるのか笑?

安心してください。このインタビューを見ると、監督は全然そんなことは意図していません。当たり前ですね笑

なんか昔のチェーンメールとか、呪いが感染する系の怖い話の2chスレッドを思い出しました。
でも、こういうホラー的な解釈もできてしまったわけですし、自分の中ではこの解釈が結構しっくりきているので、映画って面白いです。

もしくは、僕の空想力の方が飛び抜けてしまっているのかもしれませんね。

 以上、僕の勝手な妄想解釈でしたが、楽しんでお読みいただけたでしょうか?
今回、肝心の『悪は存在しない』というタイトルにまでは言及しませんでした。
どうやら2020年に公開されたモハマド・ラスロスの『There is no evil』というタイトルの酷似した映画があるので、見ていない僕からはコメントできないなと思い、やめました。
 もし、僕の解釈や映画のタイトルについて何か関連がありそうな情報などあればコメントで教えていただければ幸いです。

 ここまでお付き合いいただきありがとうございました!


 そしてさらに、以下ではもうひとつこの映画についての分析(おまけ)をご紹介できたらと思います。

 それは、この映画から見えてきたジル・ドゥルーズ『シネマ』「時間イメージ」に対する批判的応答です。
 ここからはギャグみたいな感じなので読みたい方は読んでみて下さい。


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