努力する才能なんてないし、努力の天才はいないし、そんな言葉使う奴らはみんな凡人未満だ

※このタイトルは自戒です。

僕は本当に、努力の足りない人間だ。世の中は上手くできていて、そんな何もしない人間も言われるとおりにしていればギリギリ生きれる。それが僕の思う、健康で文化的な最低限度の生活。考えることを止めて、頑張ることを諦めて、それでも人としての尊厳をーープライドもへったくれもなくともーー保った生活が保障されている。それを保証するのが国の仕事なので、何も僕が口を出すことではない。

しかし、この世界には成功者がいて、彼らの生活は謂わば幸福で人間らしい最高の生活だ。彼らは共通して類まれな才能を持ち、血のにじむ努力をして、そして計り知れないほど運がいい。

人間皆に三つくらいは才能があるとか、聞いたことがある。でも、天は二物を与えないとも言う。ここで僕の言いたいのは、これらが矛盾しているというものではない。寧ろ、これらはどちらも、きっと間違っていないだろうということを伝えたい。

人の放つ言葉には背景がある。だから、責任が伴う。

これらの言葉を放った人物が同一とは考え難い。もしそうならとんだ掌返し野郎である。彼らは違う人生を歩み、その中で得た知見と経験のゆえにそう放ったのだろう。もしかしたら、誰かを励ます為の口から出まかせだったかもしれない。でも、そんなのはどうでもいい。その二つが今まで語り継がれて、こうして僕たちのもとに届いている。これが絶対的に大切なものなのである。

あなたは才能に恵まれているだろうか

僕は、多分恵まれている。それは、例えばこうして文章を書けること。これが僕の才能だ。

きっとこれを読む人は、この文章がそんな大そうなモノでないことを知っている。大概は暇つぶしか自分の意見の確認か、せいぜいタイトルに惹かれてくれたくらいが関の山で、僕の文章が読みたかったから、なんて人はいないはずだ。いたら今すぐコメントが欲しい。それは僕という人間の生きる意味に繋がる。

でも、僕には文章を書く才能がある。これを断言する理由を、まずは展開したい。

才能とは何だろうか

才能などと言葉では簡単に言うけど、実際我々が才能という言葉で指し示しているのはどのようなモノだろうか。

野球やサッカーの才能、音楽や美術の才能、それとも、勉強の才能だろうか。

そもそも、どんな基準がそこにあるのだろうか。一定の基準を超えたらその分野における才能があるといえるだろうか。そうとも限らないだろう。

野球の才能を例に挙げてみる。

一括りに野球の才能と言っても、色々ある。ピッチングの才能、バッティングの才能。速い球が投げられる、鋭い変化球が投げられる。同じ剛速球を投げる才能でも、人それぞれ球の質が違う。才能とは絶対的基準で測ることの出来る代物ではなく、相対的に見て現れるものなのだ。

僕は、文章を書く才能があると言った。それは、相対的なものだ。当然、世の中に文章を書く才能がない人がいるはずなのだ。僕がそれを判断するのは、その行為が、自分にとって苦であるか。もっと踏み込めば、その行為は自分にとって楽しいものであるのか。それが、唯一才能を測れる基準だと思っている。

僕にとって文章を書くことは幸せだ。一方で、才能のない人には苦でしかない。でも、彼の楽しくてやっていることは僕にとって苦であるかもしれない。才能とは、こんなモノだ。

でも、僕はそれだけでもないと思っている。先ほど言ったことをもう否定することになるのだが、才能を測る基準にはやはり、絶対的なものがありうる。

こう言っておかないと、世の理不尽に説明がつかないのである。この世には、別にそれをなんとも思っていないのになんの困難もなさげな顔でーー自分が死ぬほど追い求めたことをさもありなんとーーやってのける理不尽の体現者が存在する。彼らは躊躇なく才能のない者を絶望の淵に追いやりながら、その才能を活かそうなどと考えもせずに去っていく。

僕は文章を書くのが好きで、コンクールに受かりたいと思って書く。だというのに、宿題をギリギリで終わらせてきたやつが往々にして選ばれたりする。これは、明確に僕の論を否定している。

才能とは、媒介に過ぎない

故に、僕が提唱するのはこんな論だ。無論、以前の行為を楽しむこと、はそのまま才能だと思う。これは、例外的な本物の天才を説明するためのものだ。

才能の存在は不確かだ。もし僕に、僕も知らない僕の未知の才能ーー実は犬を躾けるのがめちゃくちゃ上手いとかーーがあったとしても、僕が犬を躾けてみるまでその才能は明るみにならず、誰も気づかない。それはもはや、才能があるとは呼べない状態だ。もしもテスト中に、カーテンの向こうに答えが張り出されていたとしても、それをテスト中はおろか、テスト後も知らなければ。その人からすれば、そこに答えなど、なかったことになる。

絶対的にあるはずなのに、相対的にしか評価されない、出来ない。それが才能の正体だ。

そして、もしも才能の存在が明るみになったとしても。否、才能の存在が明確になったその瞬間に。才能は才能だけでこの世界に現れるのではなく、今度は行為を通して明るみに出る。

これはちょっと分かりにくい。だから、イメージしてみて欲しい。行為とは、横一直線に伸びる棒グラフだ。左端が、まったく、なんの欠片もできない。右端が、究極的に出来る、だ。これは各行為に対して、各人別に用意されたグラフだ。しかし、グラフの概要は変わらない。故に、相対的に人の間には優劣がつけられるという寸法だ。

才能とは、このグラフのスタートラインの位置だ。才能のない人は、左寄りにスタートラインがある。反対に、才能のある人ほど右寄りにあるわけだ。また、才能とはグラフの伸び具合でもある。才能があればあるほど、少しの練習に対してのグラフの伸び方の比率が高いということになる。

これは、非常に楽観的な考え方だ。自覚してるし、なんなら分かった上で、敢えて書いている。それは何故か。簡単だ。こう考えた方が、楽しいからだ。本当の天才がいて、到底凡人の自分にはまっっったく敵わないとする。じゃあ、それを諦めるのか。

諦めるわけがない。なんなら、燃える。

その域に達することが出来ないとしても、この理論に従えば限りなく天才に近づくことが出来る。もしそれが出来るなら、例え媒介としての才能がなかったとしても、楽しむ才能はある。楽しめない奴は、諦める。

この理論は、凡人が立案した。故に、凡人を肯定する構造をとっている。しかし、この理論に達するまでに僕は相当、努力したと思う。

ここで、本題に入る。長い前座とのお付き合い痛み入る。自分でも驚いているが、多分本題のが短くなる。

努力とはなにか

そもそも、努力は何をもって努力なのだろうか。結局そこが大事になってくる。僕は、努力は絶対的とか相対的とか、そんなもので測れるほど安いものではないと思う。もちろん、他人が勝手に決めつけていいもんじゃないと思う。

僕の思う努力とは、理性的な苦痛だ。心からやりたいこと、成し遂げたいことをする時、きっと人は努力する。その道に、永遠に幸せだけが並んでいるとはとてもじゃないけど思えない。

僕の友人は、本当に努力家が多い。僕が悲惨な点を取っている隣で、間違えた問題を復習してもすぐに終わってしまう奴らが大半だ。彼らは日々勉強をしている。僕はそれを、楽しめない。だから、やらない。

偶に、そんな彼らを見て努力する才能があると賞賛する、どうしようもないバカがいる。僕は正直そんな奴らが嫌いだ。僕は心から、努力する彼らを尊敬しているのだ。

彼らは共通して、勉強を楽しむ才能がない。教科によっては才能がある奴もいるけど、少なくとも僕の周りには勉強すること自体が大好きで、その感情からあらゆる教科の勉強を喜々としてする奴はいない。なのに、彼らは勉強をするのだ。

それがどれほど苦痛であるかを、ほんの触りだが僕は知っているつもりだ。本当に心がピークの時、僕は宿題と向き合っただけで涙が出て、延々と自己嫌悪と社会批判に駆られた。流石にここまで重症な人は見たことはないが、或いは彼らも見えないところでその苦痛と戦っているに違いない。

僕は、彼らそれぞれに尋ねたことがある。どうしてお前はそんなに、自主的に勉強ができるのか、と。

ある男は、その方がモテるから、と。またある男は、こうした方が良いと思うから、と。仕方ない、とか、ダサいから、とか。僕からしたらほんっとうにバカげた理由だ。しかもそいつら全員、勉強なんかより女とラインしたがってるし、ゲームをしたがってる。なのに、その欲望をほっぽりだして、みんな一様に勉強をしている。

努力は、苦痛だ。でも、それをしなければならないと、自分の理性が本能を制して生まれる。

どうして僕に彼らをバカみたいだと笑えようか。その苦痛から逃げる僕を笑う声に、どうして反抗できようか。出来るわけがない。僕は確かに、苦痛を嫌がって、好きなことだけを求めている。理性も自制も一切ない。

僕は理解している。理解しているから、僕は彼らを天才などと侮辱しない。努力するものを天才と称するのは、侮蔑だ。そして、言い訳に過ぎない。

そもそも、努力と才能は相まみえることのできない対極の存在だ。そこに紙一重はないし、表裏一体もない。やるか、やらないかしか、ない。

その意味でこの文章は自戒で、僕と同じように逃げる人には是非読んでみて欲しいものだ。

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Ryuhi
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