200218 死について
二日連続で食べすぎて胃もたれに苦しむ馬鹿をやらかしている。衝動に身を任せたり、食べる行為そのものが目的になって中身が伴わなくなる(つまりやけ食い)の本当に良くない……何より食べることに嫌気がさしてしまうことが苦痛で仕方がない。じゃあなんでやるんだ。馬鹿じゃん。猛省。
今日、本当はネタがないとき用のネタを使おうと思っていた(身も蓋もない)。でもそういうときって明確に書きたいことがあって言葉をこねくりまわすわけで、文章を推敲する気力がないと今日じゃなくていっかとなって結局日の目を見ない。最近ずっとこの調子だ。お蔵入りしないといいけど……(他人事)
つまり以下の文章は(も)全部脳直垂れ流しです。読んでも特にいいことは無い。
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ポスターのイラストの問題が定期的に俎上に載せられている。
いろいろ考えかたや感じかたはあるだろうけど、個人的には「媒体が不特定多数の目に入るポスターである」という点が抜けたまま「架空だからってどう描こうがいいってもんじゃない」という話が出ているのを見たときはどうしても気になってしまった。
同じじゃないかと言われそうだけど違う。ポスターの絵が現実に忖度しなければならないのはそれがポスターだからであって創作だからじゃない。
私は創作と現実は別物という思考が強いのでこの辺には敏感になってしまう。全く切り離すことは人間である以上不可能だけど、最低限のこととして意識的にならなければいけないと思う。
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某所で自殺についてどう思うかという話があった。そこで自分なりに考えてみたのを書き留めておく。
社会という大きな単位で見たときに自殺を認めることがあってはならないのは分かりやすい。最も重い刑罰が死刑である以上建前という意味でもそうだし、死ぬことが「手段」になると、例えば立場の強い人に自殺するよう強いられるようなことが起こりうるなどいろいろ問題が増える。(今でも自爆テロは存在しているが)
ただし、いち個人に対してはそれはあまり理由にならない。個人的に死なれると悲しい間柄の人であれば悲しい思いをしたくないのでとめるけど、それ以外の一般的な問題としては、自殺という手段は社会に認められないものだとしても、それに至った背景(感情、考え方)は否定したくない。
そんなことより大好きなシャノンさんの曲を聴いてください。
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