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「たぶん改宗したから飲酒卒業できたと思う」というおはなし

 今回は「お酒」について。

ご存知の方もいらっしゃると思うが、イスラム教徒は飲酒は推奨していない。

なので、改宗してお酒はやめることにした。

そして自分でも信じられないくらいに、なんの躊躇もなくスパっ!とやめた。改宗して以来飲んでいない。

私とお酒の蜜月期

元々お酒は大好きだった。高知と秋田出身というお酒に強い親族に囲まれていたこともあって、飲酒するという風習は当たり前だった。「お酒とは毎日飲むもの」「人が集まれば浴びるように飲む」そんな家だった。きっと飲兵衛遺伝子も貰っていたのだろう、私もお酒がすごく強いことに気がついた。

私が学生の頃は大学生も物凄く酒を飲む時代だったし、大学のムードも体育会系、押忍!ごっつあんです!みたいなところだったことも手伝って、豪快な飲み方を身につけて、ますますお酒は私の日常になくてはならないものになっていた。

子どもができてからは、もっぱら家飲み派になったけれど、飲まない日をどうやって作ろうか?と悩まないといけないくらい、普通にお酒が大好きだった。

悲しいとき、嬉しいとき、ご飯が美味しいとき、友達が遊びに来たとき、お酒は常にあるもの。

映画だって、歌だって、お酒が人生に華を添える、お酒があってはじめてその状況が完成する、お酒の味がわかって一人前、飲めるから話し合える、そんな文化の中に生きてきて、イスラム教徒になるからと言って、果たしてお酒をやれられるのか相当に疑問だったのだが、やめられたのだ。やめても平気だった。やめたところでなんも問題もなかったのだった。


やめられた理由を考えてみた

なんでだろう?いくつか理由を考えてみた。

私が現在、学んだ範囲では、イスラム教においては飲酒は絶対にダメとかではなく、酩酊状態でクルアーン(聖典)を詠んだり、礼拝するのはダメということのようだ。(中田考先生の著書で知った)

あ、じゃあ、飲めるじゃーん!

と思っちゃうけれど、イスラム教徒は1日に5回礼拝する義務がある。

しかも礼拝の時間は決まっていて(5月の今頃、私のいるところでは、大凡①4:30、②12:00、③15:30、④18:00、⑤19:40が礼拝タイム。地球のどこにいるか、季節で時間も異なる)出来るだけ(人によっては絶対に!)on time で礼拝するし、した方がいい。色々な条件下でまとめ礼拝とかが出来る場合もあるにはあるけれども。

こう、こまめに礼拝のタイミングが来るとアルコールを摂取してそれを身体の中から酔いを消し去るまで時間が足りないと個人的には思う。忙しすぎる。

だから、どんなに少量のアルコールでも酩酊状態になってしまう人はかなり厳しく食品に含まれるアルコールも摂らないように気をつけている。アルコール入りのお菓子、料理とか、醤油など。なのでハラール料理は日本酒や味醂を避けるのだ。私個人はそこまで厳密にしていない。元々酒に強いから、料理に含まれているアルコール分で酔うなんてことはないから。

注射の際の消毒アルコールを気にするイスラム教徒もいるけれど、私は飲む訳じゃないし、問題ないという意見を取り入れて普通にしている。

一応、私は真面目に礼拝をしたいと思ってる人なので、酔っ払っている暇はないなと判断した。

これもお酒をやめられた理由の一つ。

二つ目の理由。

酩酊状態では間違った判断をすることも多いし、失敗することも多い。わざわざお金を払って自分を窮地に陥れるのは自分で落とし穴を掘って自分で落ちるようなものだなと、やっと気がついた。(飲酒運転なんて、その最たるもの!)

それでなくてもボーーーっとして働いていない脳みそをアルコールごときで冴えた頭にしようなんて、うまくいく訳がない。ケチであることは、自分を救うこともある。

三つ目の理由。

上にも書いたが、ケチなのに、お酒にずいぶんとお金を使っていた。楽しいし、美味しい、と思っていたし、そこにお金を使うことになんの疑問も持っていなかった。でも、よくよく考えたら、お酒を飲んで解決した問題なんて一つもなかったのに、解決したかのような、スッキリしたかのような気持ちになっていた。相変わらず問題はそこにあるのに。

そんなことにお金を使うなら子どもともっと美味しいものを食べたり、楽しい経験を積むことに使うべきだと思った。でもこれは、お酒を買わなくなって、当然その分のお金が手元に残ったからこそ気づいたことなんだけれど。

四つ目の理由

お酒は太る。(太らないように工夫する飲み方はあるけれど、それでは面白くない!)それでなくても太るのに、お金をかけて太り、まだお金を掛けて痩せようとするのは(そして痩せないし)バカだと思ったから。

たぶん、私は若い頃から豪快にガンガン飲むようなやり方ばかりして、ほんの少し飲んでホンワカ酔ってやめるなんていうお酒との付き合いが出来ないタイプなのだろう。だから、飲むなら徹底的に飲む。飲まないなら、全く飲まない。というやり方が私には合っていたということなのだろう。

最大の理由かも?

でも最大の理由は、やはりこれは宗教というものの力だと言えるのかもしれないが、イスラム教徒になって心の支えになっているのはやはり誰かの視線なのだ。

私の決意を知っているのは、私自身と神様だけ。(今、このnoteを読んでいるあなたも!)仮に自分の決意を翻したとしてしも、そのことを知っているのは、私と神様だけ。

その密やかな緊張感は今までの私の人生にはなかったことだ。お天道様に顔向け出来ないことをするんじゃないよ!と親は教えたかもしれないが、お天道様を意識したことは正直あまりなかった。

ところが今では、「誰も知らないが自分と神は知ってる」という事が自分の心に強くブレーキをかけるのだ。

それが信仰ということなのだろうか。これが信じる者は救われるみたいなことなのだろうか(笑)


たまには…よぎるこんな気持ち


真夏の暑さの元、喉越し爽やかなビールの味を思い出して、飲みたくなる…ということはないこともない。

でも喉の欲求は味ではなく炭酸のシュワシュワを求めているだけのようで、ビールじゃなくてよいことがわかった。

静かな皆が寝てしまったような真夜中に、静かな音楽を聴きながらまったりしていると、何か物足りないような気に最初の頃はなっていた。でも、これも習慣に過ぎず、慣れたら美味しいお茶とかで大丈夫になっていった。

お酒をやめてから変わったこと、変わらなかったこと

①お酒を飲んだ人の匂いが苦手になった

金曜の夜の電車の中がすっかり苦痛になってしまった。お酒を飲むとなんであんなに臭くなるのだろう。かつては自分もあんな臭いを周囲に撒き散らしながら電車に乗っていたのか。

②仲の良い友達とは飲みに行くこともある

お酒の臭いというか、酔っ払いの臭いは苦手になったが、ムスリムではない友達との付き合いもあるので、そこは今まで通りだ。私が飲まないだけ。私が豚系を食べないだけ。職場の新年会とかにも参加している。私だけではなく普通に飲まない人だっている訳で、みんなそれなりに楽しんでいるのは私も同じだ。飲んでも飲まなくても私のテンションは変わらないということが、古くからの友人達によって証明されたので、お酒を飲まないと腹を割って話せないというのも、どこまでが本当なのか分からないのではないか?と思うようになった。

③アルコールによるリラックスは本物なのか?!

前は飲まないとリラックスできないと思っていたところがある。ヨーガのクラスで人様に散々リラックスの方法を指導していたくせに!アルコールによるリラックスと、ヨーガのリラックスは違う!みたいに思っていたのかもしれない。

アルコールでダラリとなるのは、あれはリラックスではないのだろうと今では思うようになった。ただあのフワリとした感覚がないと日々が辛すぎる人もいるということも分かる。甘いものを摂る程度では解消されないストレス。思考がトロけていかないとリセットできないような感覚。私にもあった。

でも今は、イスラム的思考回路を使って問題解決するようになったお陰で、思考をとろけさせなくても良くなった。だからといってストレスが消えた訳ではないし、毎日問題はあるが、別の思考パターンを手に入れたから、それで対処するだけだ。


結論として

"お酒を飲むことが文化"な日本に住んでいるし、そこで育ってきたので、飲酒の文化を否定するつもりはない。自分がお酒をやめたから、エライとか、人にもやめることを勧めるつもりはない。でもやめても生活は普通だし、私にはメリットしかなかった。

そして私のように決断力が弱い人ほど、お酒を減らすよりも、完全にゼロにする方が簡単だと思う。


下戸というマイノリティ

最後に、希望を一つ。

これからは日本も多様性を売りにする社会にするみたいだから(コロナ禍でこれまた微妙になるのかな)お酒が飲めない、飲まないというマイノリティにも居心地のよい社会になって欲しいとは思う。





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