インサイド・ヘッド2|思春期ってまるで渦の中…でも美しい
8月2日金曜日の夜、家族でずっと続編を待ち望んでいた映画「インサイド・ヘッド2」を観に行ってきました。インサイド・ヘッド1から9年かぁ…。主人公ライリーはすっかり大きくなって、多感な思春期に入ろうとしていた。(あんなに、あんなに小さかった、ライリーが!)。前作の彼女を知っているので、まるで親戚のような気分で大きくなったライリーを眺めてしまう。
ヨロコビ · カナシミ · イカリ · ムカムカ · ビビリ。
幼児期の自我の芽生えとともに、ライリーを守ってきた5つの感情に加え、思春期のライリーの中にはシンパイ、イイナー、ダリィ、ハズカシの4つの感情が芽生えていく。
思春期を迎えたライリーにとっては、「お友達」が何より大切だ。それは自分というものが育ってきて、他者を外にみれるほど、ライリーの心が成熟してきた証拠だ。周りの存在と自分自身を比較して、落ち込んでみたり、またはそれを隠すために皮肉めいた振る舞いをしてみたり…。そのふるまいの奥で元々いた感情たちと新たに芽生えた感情たちがぶつかり、せめぎ合う。
「あぁ、あぁ、わたしにもあったよ、こんな時が」と目を細めながらほのぼの干渉していた。思春期の葛藤の真実を伝えながらも、コミカルに描けてしまうのが、さすがピクサー!なんて感心して、わたしも大人になったものよ、なんて思っていた。
しかし、物語の後半にもなると、どんどんその描写に引き込まれて、口をぎゅっと閉じて真顔でスクリーンを見つめていた。
公開直後なので、まだ観ていない方のためにネタバレになることは書けませんが、終盤に向かうにつれ、どんどんライリーの心の中の葛藤と揺らぎは激しくなり、それが現実の行動にも染み出していった。これまで築き上げてきた人格を破壊しながら。その様をみていたら、胸がぎゅっと締め付けられて、わたしが気がつくと泣いていた。
思春期って、まるで渦の中だ。
こんなにも複雑で自分ではどうしようもできない感情がうごめいて、わたしをわたしでなくしていくのだ。体はどんどん変わっていき、感情を受け止める器もないままに。
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わたしはよく覚えている。
「その時」は突然やってきたのだ。
朝目覚めたら、自分を違う誰かのように感じた。
わたしはこんな顔だったっけ?こんな匂いがするんだっけ?こんな歩き方するんだっけ?こんな喋り方をしていたんだっけ?頬が赤いのが恥ずかしい。恥ずかしいからすぐに赤くなってさらに恥ずかしい…。穴があったら入りたいような、痛々しい記憶の数々。
長い眠りから覚めたかのように、自分の一挙手一投足を改めて感じると、どうやって振る舞って良いのかわからなくなってしまった。
友達と一緒にいても、「わたしと彼ら」と感じる。つい昨日まで、わたしも彼らの中にいて、「わたしたち」だったはずなのに——。
当時の状況や感情がブワッと蘇ってきて、涙が後から後から出てきて止まらなかった。何度も何度もワークをして、思春期のことはふり返ってきたはずなのに、そうか、まだまだそこにいたんだね、とまた涙。
だけど、当時の自分と今の自分との違いは、そんな自分を「美しい」と思えることだろうか。醜さだけしか感じられなかったあれこれは、全部全部美しくもあったのだった。
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帰り道、隣で観ていた娘にも感想を聞いてみた。すると、「あー、わたしも最近ね、頭の中で自分じゃない人たちが喋っている事があるんだよね。そっかー、この子達(感情のキャラクター)だったんだね」と言っていた。