養生の3つの目線
一週間前から、娘も私も咳が出る。特に夜間には顕著で、娘に至っては咳き込んで目が覚め、ぐずることで親が起きる、という寝不足ループ。
行きつけの漢方薬局で処方してもらった漢方で対処していたけれど、このまま寝不足が続くはきついし、炎症を長引かせると喘息へ移行しかねないと思ってクリニックを受診し、西洋医学の薬の方を出してもらった。
こんなときは「病」や「症状」に対して、3つの目線を持つように心がけています。
アーノルド・ミンデルによると、現実は以下の3つの領域を持ちます。
(1)合意的現実の領域
身体症状・診断・現実のなかでの制約。
直接測定ができる客観的なもの。
(2)非合意的現実・ドリーミングレベルの領域
測定できない身体感覚、本能的疼き、感情、痛み、ファンタジー。
その人にかしかとらえることのできない主観的なもの。
トラブル・人間関係のもつれ・疾患など「外部からの力」として体験しやすい。
(3)エッセンスの領域
沈黙の力・個性化の道・空。
魂のテーマやビジョンが存在する最も深い意識。
シンボルや構造として現れるもの。
エッセンスの領域はそのものとして知覚することは難しいけれど、エッセンスは「フラート」という微かな感覚・兆しを発している。
よくわからないけれど無性に気になってしまう何か、ふっと一瞬かすめるヒラメキ、虫の知らせ、などとして表現されることが多いでしょうか。
体調を崩したり、病気になったとき、私たちのいつも当たり前だと思い込んでいた「合意された現実」がふっと緩んで、意識は「非合意的な現実」へと引っ張られる。つまり、いつもよりフラートの感覚に触れやすい。
さて。前置きが長くなりましたが、私は今「咳」という症状に対して、3つの目線で見つめるようにしています。
(1)合意された現実レベル
咳が長引いていて、喘息的徴候があるので早いうちに手を打たないと本当に喘息になってしまう。睡眠不足では身体が癒えていく元気を失ってしまうし、メンタルヘルス的によくない。
(2)非合意的現実・ドリームレベル
咳を出すという行為を「何か吐き出したいものがある」と捉えている自分がいる。喉の痛みからは「反射的に出てしまう言葉を修正したい」という意図を感じる。
(1)にフォーカスしすぎて症状に対処しようとするばかりでは「疾患」として表現されているフラートの感覚に触れることができないし、(2)に飲まれてはせっかくエッセンスの領域から持ち帰るものがあったとしても受け入れ、表現できる健全な身体がない。
時として対処法が(1)と(2)にどちらかに偏る。そんなときはだいたい、不調が長引いたりこじらせたりして、バランスを欠いていたことに気がつく。
私はどうしても(2)に寄ってしまうので(1)とのバランスに気をつける。
(1)と(2)が引き合いながら、合意的な世界と非合意的な世界の境界を揺らし、そこに(3)からのフラートの感覚を招き入れ全体性を取り戻していく
その営みこそが養生なのだ。
局所集中的によく効いてくれるのが西洋医学的な薬の良いところ。ただ、よく効くものはそれだけ身体へのダメージも大きいので、サポートする意味で漢方を飲んで整える。
漢方の袋の後ろにある健康十訓。調子が悪い時によく裏返して読む。
症状が改善されていくと、身体からの囁きを忘れてしまいそうになる。
合意的な現実にいる自分は「あぁよかったよかった」と安堵するけれど、非合意的な現実にいる自分はどこか不完全燃焼なんだろうなと思う。
「私は何を吐き出したかったのだろうか」
「咳」から受け取ったフラートの感覚を忘れないうちに、ワークを続けてみようと思う。
「何を吐き出したかったのか」に触れられる感受性と、それを素直に表現できる身体でありますように。そう祈りながら、養生を続けている。