見出し画像

Vol.9 懐かしい感覚は体が覚えている


友人ファミリーと一緒に過ごした日本からフランスまでの時間。
一緒に歩いたグルノーブルの道。
一緒に感じた異国の風。
一緒に味わったフランスの美味しいもの。
一緒に分かち合い、楽しかったその全てはあっという間に過ぎていき、いよいよお別れの日となった。

日本へと帰っていく友人ファミリーを見送ると、自分たちは帰らずここでの暮らしを続けるのだという現実が押し寄せてきた。そして、心の中に微かな心細さがむくむくと芽生え始めてきた。



翌日からは、日本にいる時と変わらず、「生活」が始まった。


朝、はらぺこな娘に起こされ、朝食を用意する。
近所のパン屋さんで買ったソフトバゲッドにバターを塗って、フルーツ皿から手なりにとって来たフルーツを並べる。
自分もお腹のご機嫌次第で何かをつまみ、シャッキリとしない頭を起こすべく、エスプレッソマシーンへMONOPRIX(フランスのスーパーマーケット)で買って来たエスプレッソキューブを入れてスイッチをぽん。
小さな小さなカップに入った濃厚なエスプレッソをクイッと飲んで夫を送り出す。

生活はフランス式ではあるものの、おにぎりがバゲッドに、コーヒーがエスプレッソに変わったくらいで、日本にいた時と変わらない朝の時間が流れていく。

ただ違うのは、なかなか明るくならないフランスの朝の空。
まだまだ青く薄明るい空がゆっくりと明けてゆくのを眺めているとなんだかものすごく早起きをした気分になるのだが、時計に目をやるともう10時を回っている。

「ママー!ねぇ、ママー!!」

朝ごはんをとっくに食べ終わり、一通りお絵かきや一人ダンスを楽しんだ娘が出かける気満々で靴を履いて待っている。


「きょうどこいく?」


それからしばし「ジャンバー着たくない」やら「半袖で行きたい」やら「濡れててもいいからこれ着たいのに!」(お気に入りの服がまだ乾いてない)という癇癪とファッションショーに付き合ったのち、なんとか外へ出られるコーディネート、という妥協点を見つける。
こうして、やっとマンションのドアを開けるのでした。時計はもう、11時近くをさしており、娘の腹時計が鳴るのも時間の問題だ。

今日は近所のパン屋さんでバゲッドを買って、
いつもの公園へ行ってみよう。

フランスへ来て、言葉により意思疎通ができないため言語野が静まって。
後ろに控えていた感覚や感情が音を立てるように自分に近づいてくる。
特に嗅覚が冴えてきて、来て数日は匂いに酔って、大変だった。
普段自分はいろんなものを言葉によってマスキングしてるんだろうなぁ。
頭がうまく働かなくて、印象だけが入ってくる世界。
はがゆいけどなんだかとても懐かしい。
きっと赤ちゃんの頃はこうやって世界を見ていたんだろうなぁ。
街のあちこちですれ違う、ベビーカーに乗った赤ちゃんを見るたびに「きみとおんなじだね」と思って、気づいたら笑いかけている自分にビックリする。
この感じ。
なんだか自分じゃないような変な感じ。
わたしは圧倒されて、夕方にはぐったり。
しかし子供にとっては普段使いな感覚なのでしょう、待ってましたよとばかりにぐいぐい迫ってくる娘に、わたし、降参(笑)。
写真はよく行く大きな木のある公園。
学校が近くにあって、いつも子供の元気な声が響いている。

(2019年11月28日のFacebook投稿より)

当時のFacebook投稿。
今でも鮮明に思いだす、言葉を失って感覚だけで動いていた私の日常。

ただ近くの公園へ行って、寒空の下娘の遊戯の「もう一回!もう一回だけ!」に付き合うというありふれた日常の中で、自分の内側から湧き上がる既知のような未知のような感覚にただただ圧倒される毎日でした。

外へ放たれる言葉は行き場を失って、言葉はただただ内側漂うだけ。
言葉を失った代わりに、外から入ってくるのはあらゆる感覚や感情。
あぁ、自分は普段言葉によっていろんな感覚をマスキングしているんだなぁという事をしみじみと感じて、そして心地よかった。

話す言葉は「bonjour」(おはよう・こんにちは)と「au revoir」(さようなら)だけ。
それ以外は喋れないので、出会う人出会う人、アイコンタクトや微笑みでコミュニケーションを取ろうとしている自分に驚いた。
同時に、微笑みには微笑みを、アイコンタクトにはアイコンタクトが返ってくることには、ちょっとした感動を覚えた。

とりわけ、「赤ちゃん」という存在にはとても強く反応していたのを覚えている。バギーに乗った赤ちゃんとすれ違う度に、彼らがものすごく自分と近い存在に思えたのだ。
彼らも言葉を発さないし、言葉の意味というものは理解していない。
私とおんなじだ。
しかし彼らは、体全体で周りに訴える術を知り、知っていこうとし、体全体で状況を感じ取ろうと目を輝かせていた。

懐かしい感覚。

きっともう忘れてしまっているけれど、自分が赤ちゃんだった頃は毎日こういう世界にいたのでしょう。
頭では忘れても、体はちゃんと覚えているのかもしれない。

さて、言葉が鎮まり身体の感覚がググッと強くなってくると、なぜかはわからないけれど嗅覚がものすごく研ぎ澄まされて来た。

そのことによって困った?いや、深く考えた?フランス生活でのあることを次回は書きたいと思います。
書いていいのだろうか。いいか。

生きていく場、暮らしの場、すべてがアトリエになりますように。いただいたサポートはアトリエ運営費として大事に活用させていただきます!