春分-しゅんぶん-その体とその色であなたにしか見えない道を歩いてみてよ。
二十四節気通信。
2020年3月20日〜4月3日は春分です。
日 天の中を行きて 昼夜等分の時なり
-暦便覧-
昼夜の長さがほぼ同じ長さになります。
ここからは昼の時間が長くなり、陽気も良くなり色々とはじめたくなる季節です。忙しくなってきますね。
忙しさとは意識できない時、暴力へと変わる。しかし、意識できた時、人生の方向性を示すコンパスとなるのです。
忙しさに意識的である人は人生のコンパスを手にしている。
毎年3月になると思い出すのが、世界中にマインドフルネスを広めた僧侶・ティクナットハンの言葉。
忙しさは現代の病です。
平和のために活動しているとか、環境を保護するために尽くしているといってはばからない人たちでさえ、自らに課した過度のプレッシャーとストレスのもとに行動し、身心両面の健康を犠牲にしています。
「時間をむだにしてはいけない」と私たちは教えられました。
もっと行動し、もっと達成し、さらに結果を出せ、と。
速ければ速いほどいい、というわけです。
でも見てごらんなさい。
そのような集合意識は私たちをどこに導きましたか?
さらなる効率と便利さを求めた私たちは、とてつもない犠牲を払いました。
子どもたちによりよい未来を確約するために、さらに長い時間必死に働いて、そうしてその子たちに何を残しましたか?
今後何十年もの間、原発事故の影響下で生きて行かねばならないのは、その子たちです。
私たちのからだ、言葉、心によるすべての行為には、個人としての果実と集合体としての果実があります。
精神を物質主義に置きかえた社会は、その行いの果実である結末を自ら目にしなければなりません。
(引用: Wind of smile〜微笑みの風〜より)
現代はいくらでも忙しくなれる条件に溢れている。
人間は外側に理想を求め、そこに自分の内側とのつながりを失ってしまった時に「忙しさ」をまとう不思議な生き物だ。
忙しさは心を亡くす、と書くけれど、
外側の対象物に強く引っ張られて、自分の内側とのつながりが切れてしまった時、人は自分の生きた感情を感じられなくなる。
そんな時、あぁ今私は忙しさにやられているなぁと気づく。
そして、立ち返ることになる。
私はそもそも何をしたかったんだっけ。
しかし、忙しさは人生にとっての厄介者かといえばそうとも言えない。
なぜなら、忙しさに意識的でいられるということは、いつだって「こっちじゃないよ」と軌道修正できる力があるということで、それはまるでコンパスのような働きだからだ。
それは、無意識的に忙しさに飲まれている状況とはまったく違う。
どんなに外側からは忙しくしているように見えたとしても。
忙しさに意識的である人は、人に忙しさを強要したりしない。
反対に過剰に相手を忙しさを与えることを避け、自分を忙しくすることもない。
後者の態度は他でもない、私自身が苦手なことなのだけれど。
私にとっての忙しさのコンパスは、子供への態度。
彼らの意味のない遊びに心をひらいて楽しめない時、ちょっとした失敗に過剰にイライラしてしまう時、「あぁ、今私は忙しさに飲まれているんだな」と気がつく。
そして、そもそも私は何がしたかったんだっけ?
と、子供への態度や感情をコンパスに軌道修正を試みるのだ。
すると、目の前には私にしか見えない道がうっすらと浮かび上がってくる気がするのだ。
その体とその色であなたにしか見えない道を歩いてみてよ
今年の春分のテーマソングはモーリス・ラヴェルのマ・メール・ロワから「妖精の国」。
今、冬をおしのけるように吹いていた春一番のような強い風は、いつしか穏やかに地表を撫でる風へと変わった。
この曲の旋律のようなあたたかくて優しい風。
毎年春分はどこか男性的で、地面の下から突き上げてくる強いエネルギーに外へ押し出される感じがするけれど、今年は違う。
とても女性的であたたかな風に手を引かれ、送り出されるような寛容さを覚えます。それはまるでこの曲の旋律のようで、情景のようで、先祖という見えないところで支えてくれる存在のように、あったかい。
「その体とその色であなたにしか見えない道を歩いてみてよ」
お彼岸の風たちはそう囁いて、私を昼の世界へ送り出してくれる。
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