
【ネタバレ】スープの味は「孤独のグルメ」――「劇映画 孤独のグルメ」レビュー&感想
まさかの銀幕デビューを果たした「孤独のグルメ」。本作で五郎が再現を頼まれるスープ、それは「孤独のグルメ」そのものだ。
1.映画で「孤独のグルメ」を再現する
井之頭五郎はあちこちの街で飲食店を回るのが大好きな輸入雑貨商。今回はパリに住むかつての恋人の娘からの依頼でその祖父に絵画を届けた彼だったが、話の流れでなんと祖父の思い出のスープの再現も試みることになってしまった。果たして五郎は幻のスープを再現できるのか……?
久住昌之原作、故・ 谷口ジロー作画の同名漫画を原作とした実写版が大好評を博し、多くの人から愛されるテレビドラマとなった「孤独のグルメ」シリーズ。言ってみれば中年男性が1人で飯を食べる「だけ」の作品が10年以上の長きに渡って続いているのは驚くべき話だが、それが映画化されるという話には更に多くの人が驚いたことだろう。先述したような内容が映画に合っているとは想像しづらいし、それを補うための派手な展開作りがかえって個性を失わせてしまうのではとの懸念も否めない。だが恐れることなかれ、本作は間違いなく映画にふさわしいスケールアップを果たしているし、それにも関わらず「孤独のグルメ」であることを外れていない。これほどまでに調和が取れている理由――それは本作で五郎が作ろうとするスープが「孤独のグルメ」そのものだからだろう。
五郎が再現を頼まれるスープ、いっちゃん汁とはいわば思い出の味である。依頼主が小さな頃に母によく作ってもらった、優しくもいくつもの出汁が混ざっているのがはっきりと分かる忘れられない味……だが、その出身地で聞き取りをしてもいっちゃん汁を知る者はいなかった。いっちゃんとは依頼主の「一郎」のことで、いっちゃん汁は一家庭だけの料理だった……と後に判明する場面が笑いを誘うが、これは思い出の味の一面をうまく表してもいる。
思い出の味は他者との共有が難しいものだ。一緒に食べた人や状況などもまとめてパッケージされているから思い出になるのであり、味覚への刺激は共有できてもその細部まで等しく味わうことはけしてできない。言い換えるなら思い出の味とは本来的に孤独な味である。そう、五郎が食堂に1人入るのとは違うがこれも一種の「孤独のグルメ」ではないか?
パンフレットによれば、本作が映画化されたきっかけは2022年頃に五郎役の松重豊が抱いた不安がきっかけだという。長く関わってきたプロデューサーやスタッフが外れてしまったため、全体の方向性が定まらなくなってしまうのではないか。ならば唯一のレギュラーキャストである自分が主導し、相性が未知数のコンテンツである映画にすることで再構築できないか……と。つまり彼はTVと同じにはなりようのない映画上で「孤独のグルメ」を再現することでそのなんたるかを問い直そうとしたのであり、ならば劇中で五郎が目指すゴールも自然「孤独のグルメ」の 体現となる。スープが何から作られるか? スープがいかに作られるか? 探求のドラマがそのまま「孤独のグルメ」の再現になるのだ。
2.スープの味は「孤独のグルメ」
「劇映画 孤独のグルメ」で五郎が作るスープは「孤独のグルメ」の再現。そのように捉えた時、まず見えてくるのはやはり「食事とは個人的なものである」ことだろう。序盤にはゴローがTVシリーズ同様に1人で食堂に入って料理を楽しむ場面があるし、先述したように思い出の味とはごく個人的な味でもある。最後の食材の特定の決め手となったのは、依頼者の母親が一時韓国にいたと五郎が思い出したこと=国籍や地域より更に細かな個人としてのバックグラウンドに目が向けられたためだった。食事とは個人的なものであるが故に、ただ目の前にある料理だけで完結などはしないのだ。だが、これではあくまで「食事」の再現でしかない。本作は「孤独のグルメ」を映画で再現しようという作品なのだから、食事だけでは足りない。
本作が「孤独のグルメ」を再現するにあたって大いに描いたもの。それはふだん私たちが見ているTVシリーズの外側だ。劇中では五郎が人に見られながら食事をする場面が2度あり、その意味で彼は1人で食事をしてはいない。五島列島から漂流してきた五郎を迎え入れた韓国の女性たちは自分の手料理を美味しそうに食べてくれるのを嬉しそうに見ているし、タイミングの悪さから五郎が食事を終えるまで職務遂行を待たなければならなくなった入国審査官は彼の食いっぷりに食欲をそそられ後日にはその店の常連にすらなっている。TVシリーズでは珍しいかもしれないが、こうしたことは本来ずっと以前から起きていたことではないだろうか。例えば本作の舞台となってきた飲食店の人はこれに近い気持ちだったろうし、モニタ越しに五郎の食事を見て生唾を飲み込んでしまった人は少なくないはずだ……そう、ここには「孤独のグルメ」の周縁的な状況までもが再現されている。
いったい、作品とはモニタに映るものだけではできていない。スタッフによる店探しや調整、脚本作りがあり、撮影を許可し料理を提供する店主の理解があり、実際に作られる料理と役者があり、それを見る我々視聴者があってはじめて作品は作品たり得る。それは中年男性が1人で飯を食べる「だけ」の作品であっても何も変わりはせず、そこまで描こうとしなければ「孤独のグルメ」の再現にはなり得ない。五郎が店主にスープを作ってもらおうとする際に協力する青年が劇中のTVシリーズ「孤高のグルメ」の副監督だったり、その主役として「善福寺六郎」を演じている男性が現場に入る場面や撮影に五郎が居合わせる場面はあまりに意想外で笑ってしまうが、再現として見るならこれは単なるギャグどころか必要不可欠なピースなのである。
本作のゴールはスープの再現である。けれどこの作品は再現されたスープもそれによって作られたラーメンも、食堂の時のように大写しにはしない。五郎にモノローグで語らせたりはしない。なぜか? この時五郎が――いや、我々が味わっているのはスープという物質そのものではないからだ。モニタ越しに目に入る空間を、ドラマそのものを「孤独のグルメ」というスープとして味わっているのだから、そこに二重の再現を加えてしまうのはかえって野暮というものだろう。再現されたスープに対して依頼主が「美味すぎる」と良い意味でのダメ出しをしてしまうのは、映画ゆえのほんのちょっとのドラマチックな味付けに対する本作の照れ隠しとも言えるだろうか。
食事とは個人的なものである。けれどその一方で、「孤独のグルメ」は1人でできていない。役者も料理も、お店もスタッフも、そして視聴する我々までも――そっくりそのままどんぶりの中に収めてしまった贅沢なスープ。それが「劇映画 孤独のグルメ」なのだ。
感想
以上、映画版孤独のグルメのレビューでした。いやー面白かった! 私は原作はちょっと読んだことがあるだけ、TVドラマの方すら帰省した時に食事時に両親が録画や再放送を見るのに同席するくらいでして。当初は映画館へ行く予定もなかったのですが、「なんか普通じゃない映画が見たいなあ」とチョイスしたところ大正解でした。すごいですね、作品そのものから主演・監督・脚本の松重豊さんの人柄というか作品への姿勢が伝わってくる。掛け値なしにいい映画だと思いましたし、何度も吹き出してしまいました。リハの時はモノローグを口に出すんですね……
さあ、レビューを書き終えてまた腹が減ってきたぞ!
<宣伝>
普段はTVアニメのレビューを1話1話ブログに書いています。2025冬は「BanG Dream! Ave Mujica」「メダリスト」「全修。」の3本をレビュー中!