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或る日の記録

私の部屋に勝手に入って押し入れの物を漁ったり、持ち出していったり、
私の持ち物ではない物を入れていったりしないでほしい。
私の下着を勝手に私の人形に着せないでほしい。
やめてって言ってるのになんで屁理屈こねたり笑ったりするの?
急に大きな声を出さないでほしいし弟を怒鳴るのもやめて欲しい。
機嫌によって言動がころころかわるから今日は大丈夫な日だといいなといつも思う。
機嫌がいい日はそれが永遠に続くような気がするから一緒にいてしまうけれど、
機嫌が悪い日もう本当に最悪で早く死にたいとしか思えなくなる。
友達に家のことを話したことがあるけど、
冗談だよねとか嘘やろって言われて話を最後まで聞いてくれたのは同じような体験をしている子だけだった。
学校ではいじめられるし、家では人権がないし、辛かった。
今もそれは変わらない。

11月5日
お父さんに「一緒に死のう」ってもし言われたら「いいよ」って多分私言っちゃうと思う。
「殺していい?」って聞かれても同じように答えると思う。

中1の時フードコートで待っていると店の人に
「彼氏いるの?」のと聞かれ「いる」と答えると
「かわいいもんね。そりゃそうか」と言われた。いると答えていなかったらなんて言われたんだろう。

小さな違和感はたくさんあった。
お祭りの時も「可愛いからおまけしてあげる」と言われた。
その時は今ほど嫌だとは思わなかったけれど

大学1年生の時同じ授業をとっていた1個上の先輩のところに遊びに行ったら、
その人の友達もいて私の顔を見て、
「ほんとだ。可愛い」と言った。
中学の時のいじめの主犯格の女の子に似たプライドの高そうな声音、服装、言い方だった。

私のことを話していたようだったが1連のやりとり的に友達と言うより子分に見えた。

死んだ位で私から逃げられると思うなと父がトイレに入ったのを見て思った。
ため息疲れると死にたくなる。
みんな私に死ねって言ってるように感じる。

中3の時も死ねって隣の席の男子に言われたと思って死ねって言った。死ねって言った。死ねって言った。死ねって言った。死ねって言ったと何度も口に出してしまったが死ねとは言っていなかった。聞き間違えたらしい。

中2の時、私が過呼吸になっているのを隣のクラスの男子がこいつどうしたん?と私と同じクラスの男子に聞いた。
そいつは私が苦しんでいる様をものまねした後で大げさに肩をすくめた
全員早く死ねと思った。

11月4日
人の恋愛の話を聞くのは好きだけど、自分にその感情が向くとなんで私なんかのこと好きなのって思うしそわそわしてる感じが嫌で避けたくなってしまう。
好意を持たれると困るし疲れる。
その人の中の「理想の私」にならなきゃいけないから。
早く死にたい

小さい頃からかわいいは言われ慣れていたが、だんだん気持ち悪さを感じるようになり嫌になった。
特に男性教師やコーチ(男性)からの「可愛い」にはいいあらわすことのできない嫌悪感があった。
中2の時美術の男性教員に「可愛いんだから可愛いくおねだりしてみてよ」と言われ苦笑いするしかなかった。
周りにいる子は何も言ってくれなかった。
周りには私が男性教員にひいきされやすいようにしか見えていなかった

コーチからは「髪切った?かわいい」と言われ気持ちが悪かったがありがとうございますと言った。
私のラケットを勝手に握られるのも嫌だったし、距離感が近いのも嫌だった。

高二の時男性教員から「かわいい君のことを忘れるわけない」「化粧とかしないの?」「君はほら、かわいいから」(いじめられていたことを話すと)「可愛いから嫉妬したんだろう。要はやっかみだ」と言われた。
あからさまに体をジロジロ見て「やっぱ細いな」と言われた。
嫌だった。
自分が美人だと思った事は1度もないし、何なら醜くて人前に出るのが申し訳ないとすら思っていた。
鏡が見られなかったり、逆に何度も必要以上に鏡を見る日もあった。

大学1年生の時、女性教員に背後から肩にポンと手をおかれ硬直した。
ものすごく怖かった。

高校2年生の時進路に迷っていたため、美術教員(女性)に放課後進路相談をすると1時間位ずっとあなたのような弱い人間には無理と何度も言われた。
涙が出てきて泣いてしまったが、その後もずっとなぜ私が美大受験は無理なのかを永遠と言われ続け、進路相談というより人格否定(人格攻撃)の時間だった。
この美術の教員は私のことが気に食わないようであった。
授業中も何度か泣かされた。

大学1年生の時、自分が性的な存在として消費されることが嫌で胸や子宮を取りたいと考えていた。
同年代とは話が噛み合わない、理解できないと思うことも年々増えていき、自分のセクシュアリティーについてネットでよく調べていた。

大学1年生の冬頃、髪を洗ったり乾かしたりすることも億劫になり坊主にした。

1日中布団の中にいた
秋頃は元気でほぼ毎日観光地に行っていた。

父は私とどう接したらいいのかわからないようで、母との会話に今までのように入ってくることもなく、私に話しかけることもなく、私からの話しかけに応じることもなかった。

ご飯食べてると眠くなるのは1人の時もだったということがわかった。
眠くてまぶたが重くてしばらく閉じたまま開かなかった。
右側の顔半分がよく重たくなって開けられなくなる。
5分ほどで動けるようになったので食べることを再開した。
右目が特に重たくなりやすい。

高校2年生の時、複数の男性教師に何度も執拗に体重を聞かれ答えれば終わるのかと思い答えると「そんなに太ってないでしょ。3キロ分は頭の知識分かな?」「もうちょっと食べたほうがいいよ」と笑いながら言われ不信感が募った。なぜ私だけが体重を聞かれるのか、そんなことを聞いてどうするんだという気味の悪さがあった。

体重は大学生になったときも同級生の女の子たちに聞かれた。彼女たちは「なんでそんなに痩せてるの」「いいなぁ」「足細くて長くてうらやましい」と何度も私の体のことに対して口にした
大学でも容姿の話をされるのかとうんざりしたし嫌だった。これが永遠に続くのかと思うと、死にたくなった。

中学3年生の時、担任の男性教員が私の体重や身長などが記載された紙を見て、「体重がちょっと軽すぎますね(笑)」と笑いながら言った。父も笑いながら同意しているだけで、私が勝手に男性教員に身長や体重が記載された紙を見られることに嫌悪していることには気づいていないようだったし、怒ってくれなかったことに対して諦め、苛立ちも感じていた。なぜ誰も私のプライバシーを守ってくれないのかと思った。

母は私の体を貧相と言うし、父も自分に似て薄っぺらいと言った。女の子たちは細くてうらやましいと言うが、それは私が食べたものをうまく消化しきれず、下痢になることが多いからだし、褒め言葉として細いと言われることも嫌だった。そのことについては、大学1年の時クラスメイトの女の子1人にのみ言えた。
かわいいと言われることも怖いし嫌だと感じていることもその子には言えた。

今日はずっと眠い感じ。
ぼーっとするけど会話ができる。
甘いものを食べると薬を飲んだ時と同じ効果が得られる(抑鬱感を和らげる作用)と本に書いてあり、食べてる時は不安じゃなくなるから食べ過ぎだとわかっていても食べてしまっていたということがわかったし納得した

高校2年生の時「100点を取れなかったら死ぬ」と思い、熱も出て寝たきりになった。
前回の数学のテストが100点で、他のテストは80点以上だったため、「全教科が100点でなければ意味がない。100点以外は0点(カス)なので、生きてる意味がない」と思っていた。
「こんな簡単なテストで100点も取れないようなら死んでしまえ」と脳内の自分が叫んでいた。
脳内には何人もを私がいてうるさい位しゃべる時もあった。
今でもすぐに成果が上げられないと「できないなら死ね」と思ってしまう。
何か失敗するとすぐに「死んだ...」と思う
実際に声に出すこともある。

小学生の頃、算数が苦手だった私に両親は怒鳴りながらワークをさせた。
泣いても辞めさせてくれなかったし、もっと叱られた。
「本当に俺の子か」「なんでそんなに頭が悪いんだ。」「小学校のテストの100点取れて当たり前」と言われた。
土日のワークをさせられる時間は苦痛で嫌で嫌で仕方なかった。
弟は国語が苦手だったが、弟が怒鳴られながら土日にワークを解かされる事はなかった。
親になぜ弟にはワークをさせないのか聞くと、言っても聞かないからだと言っていた。
納得いかなかった。

小さい頃テレビを見ていると、急に父に消されることがあった。
「低俗で下品だから」と言う理由だった。
親が許可したものしか見れなかった。
そのかわりアニメや漫画、本などはどんな内容のものでも制限がなかった。

「言ってわからなければ殴る」と父はよく言っていた。
弟は父の機嫌を損ねがちだったため、よく怒鳴られたり足蹴にされたりしていた。
自分の部屋にいても泣き声が聞こえて怖かったし嫌だった。
何も聞きたくはなかったし、見たくもなかった。

小学生の頃、いとこが家に来て、弟にプロレスの技(?)を試そうとしているのを見ていた。
危ないなと思っていたが、何も言わずにいたら、弟が頭を強く打ちゴンッという音がした後、火がついたように泣き出しやっと大人が来た。
私は見ていたのに何もできなかった。
これもたまに出てくる。
体が動かなかった。
あんなに近くにいたのに。

大学2年生の時母の車の中で口論になり、「中学の時もしあなたが死んでいてもなんで死んだのかわからなかったと思うわ」と鼻で笑いながら言われ車を飛び出して死にたくなった。
その話を父にすると、父は静かに泣いていた。
私に死んで欲しくは無いようだ。

5歳の時酒を飲むと人が変わると聞いていた祖父の弟が部屋に2人きりになったときに急にほっぺにキスをしてきた。
驚いたし、なんとなくその場から離れたほうがいいような気がして家に戻った。
すぐに母にその話をするとキスなんて言葉どうして知ってるのと聞かれ、ルパン(ルパン3世のルパン)が言っていたと答えた。
翌日、祖父の弟はいつもの状態に戻っていたようだったが、怖くなり母の手を握った。
へらへら笑っているのが気持ち悪かったし怖かった。
嫌だった。
二度と2人きりになってはいけないと思った。
その後も法事の度何度か会ったし、お酒を飲むとやはり人が変わった。
14歳の時は「こっちおいで」と言って自分の膝を叩いていた。
きもいとは怖いとかもうその時は何も感じなかったが、変なのとは思った。

11月3日
父が自分のせいだと言うような発言をすると、私は話をそらしたり、話題を変えたりといったことをし、最後まで聞こうとしてこなかった。
父は確かに厳しすぎたが、私を思ってしてくれたのだとそれが私のためにもなっていると思い込んで

大学1年生の秋砂糖7キログラムが1ヵ月でなくなってしまった。
その後も頭がガンガンして痛くなるのに砂糖を食べることが止められなかった。
バターや卵、小麦を混ぜて砂糖の摂取量を減らしていき、今は食べ過ぎたとしてもおかしなん袋か分だけになった。
お腹がいっぱいでもストレスが溜まると食べることが止められなくなる。
そういう時は意識がぼーっとしていて、後から自分でも食べた量に驚き罪悪感で死にたくなる。
すぐに下痢になることが多い

中学3年生から大学3年生9月整骨院での施術を受けるまで傘をささないと人目が気になって外が歩けなかった。
外食する時も人目が気になり、食事に誘われても緊張しすぎて味がわからなかったし、自分の姿勢、食べ方、噛む回数、視線、会話の仕方が合っているか不安で不安で仕方なかった

大学1年生の時が1番食べているところを人に見られることが嫌だったし、怖かった。
1人で食べる時は1口食べたら飽きてしまったり急に食べたくなくなったりして放置することがあった。
水もほとんど飲まずに寝ている日もあった。
自分の感情の振れ幅が激しすぎてついていけなかった。

小さい頃、何だその目はと父に言われよく叱られた。
弟も同様のことを言われどなられていた。

9月27
熱が出ると高校生の時に戻ってしまう。
こんなに弱くて私この先どうやって生きていけばいいの?
自分が21まで生きられた事実を忘れそうになる。
1歩進んだと思ったら2、3歩下がる。その繰り返し

9月28日
大したことない熱なのに、体は38度出てるときの反応をしよる。
どうしたもんか。
暇だったので目についた食べ物を胃に含ませてしまった。
体が重たくなって熱がこもる
澱んでしまったのだ。

部屋から出られなかった時は何も言われなかったのに外の世界に行けるようになった途端、皆口を揃えてもっと頑張れと私に言う
口車に乗せられたどり着く先はいつも布団の中で私はまた部屋から出られなくなってしまう
その繰り返し

「自分であること」
自分ってなんだろう。
何が私を私たらしめているのだろう。
絵を描くことを禁止されても、それでも描くことがやめられなかった。
出てくるものが止まらなくて頭の中はいつも騒がしくて

病んでる時は目がめちゃくちゃ細かいざるみたい。
病んでいない時は、目の粗いザル
外の世界
小さな穴が広がってぽっかり開いた空洞がどんどんどんどん大きくなって、いつの間にか私を包んでた
私がついぞ持つことのできなかった武器をどうして皆当たり前のようにふりかざせるのだろうか。
うらやましいのか呆れてるのか妬ましいのか何が何やらわからないまま
私は毎日生きている
どの言葉も意味を持たず、私の中を回り続けて過ぎ去っていく。
人の声も届かない。
私の意識だけが

自分が困ったことないことを人に説明するのは難しい。
それと同じことなのかも
自分が困ったことないことに困ってる人を受け入れたり理解しようとすること自体が

Aセクの私が結婚したいのは群れを作りたいからなのではないか
結婚という二文字より群れの方がしっくりくる
群れたいは愛されたいというふりがなつきのもので、やはり誰でもいいわけではないのであった。
群れたい。群れたい。とにかく群れたい。

「母」
他人の弱さに怒りを感じるタイプの人
だから私はいつも母をイライラさせてしまう。
どうしてこんな人から私のような弱さの塊がはいでてきたのだろう。
あなたが求めた理想の私は現状の私とは程遠い存在で、それでもあなたに愛されたくてそう振る舞ってしまう。
私はあなたから見たらきっと...

もっと教養のある人たちに囲まれていたら違ってたかもしれないなと思うことがある。
教養が自分にあったのかというとなかったと思うが、周りがみんなそうだったら違っていた。
何か変わっていたかもしれないと今でも思う。
あんなに傷つかずに済んだかも。
教養があるからといって、私がどんな言葉に傷つくかは他人にはわかんないけどあったかもしれない可能性を夢見ちゃう

弱さに不寛容
男が女が人間がというより私は私自身が嫌いだったのかもしれない。
当たり前のことすぎて忘れそうになるけど

「寂しい」っていうより「愛されなくて悲しい」だったかもしれない。
それでそれを感じないように
忘れられるように食べていたのかも
いつか手放せるといい
寂しいも悲しいも嬉しいも、愛しいも

早起きすると1日が長く感じて、そのままそれが永遠に続いていくような気がする。

「推し」
ただ存在してくれていることがありがたくて気配に微笑ましさがある。
私は推しと私の間に何も入れたくない。
友情とか上下関係とか
ただふらっと立ち寄ったときにお話ができたらいい位の...
いやお話も別にしたくない時もあるな
本当に推しなのかと思う時もあるが、推しは推しだし
とにかく好きだ

メルカリの???機能
あれ一気に何人からも来たら面白い
この人にとってこれは300円だけど、この人にとってこれは66,000円の価値があるんだっていう
価値の幅が面白い。
ちなみに売りに出したのはiPad Proである。

秋がくるまで、自分は極度の冷え性であったことを忘れてしまう。

実在の人物はもっと酷がありますよ。酷が。

不要なものを全部削ぎ落としていったら、限りなくお坊さんに近い存在になれそう

私多分背中を包丁で刺されていてもにこやかでいなくちゃって思って、痛いとか助けてとか言えないタイプの人間なんだ。
変わりたい。

9月29日
なんだかもう部屋にあるもの全てがいらないものに見えるようになってしまった。
しかし、人に来てもらって持っていってもらうと、その人の使っている洗剤やら化粧品の残香が家に残ってしまってきついし、といって、机やら椅子やらのでかいものは処分するのにもお金がかかるし、やっぱり他人が家に入ることになるし、外に置いといたら誰か持っていってくれないかな

布団から出られないけど絵日記はかける奴
なんもないとこ行ってなんもない人になって無の境地にたどり着きたい。
食べてる時が1番安心安全で結界の中で守られているような気がしてた。
何も考えたくなくてひたすら食べて食べてそれでもまだ飢えていた。
満たされる事はなかった。

夜の空気が好きだ。
とはいえ、闇の中で歩くのは少々気が引けるので、家の中でまったり月を楽しむ。

前はいらないものが自分の中にぎゅうぎゅうに詰まっていて、必要なものが少しも入っていかなかった
いらないものが出ていって楽になって初めて自分にとって必要な分量がわかった。

9月30日
お腹痛い。動けない。米100グラムに水300 CCそこに卵味噌梅干の液醤油を入れたやつぐつぐつした上30分かけてゆっくり食べたのに、なぜ

父「卵入れたのが余計やったかもな。タンパク質が1番分解しにくいから」
私「先に言って」

(本読んでる私)
父「部屋の本持ってくなら一言言ってから持ってかんかい」
ペスったすっ
私(喋りたかったのかな)

かっぴ「あんた病的に細いんだから」
病気という言葉がなければ、私の体はどのような言葉で形容されたのだろうか

気功革命を読み、蜂蜜が陽に分類されるということを知った
私は隠の気が強いから飲もうと思い、蜂蜜の匂いを嗅ぐとひどい悪臭がし腐ったのかと思った。
しかし非加熱の蜂蜜だし開けてまだ2週間位しか経ってないのに、不思議だなぁと思っていたところ、父が来たので、父にも臭いをかいでもらったら、蜂蜜の香りがすると言った。
ひどい悪臭はしないらしい。
体調悪いから余計なもの食べるなって体が言ってるのかもしれないと思った。
そういえばさっきお腹痛くなって動けなくなったとき3箇所位順番にぎゅって圧迫されてるみたいな痛みがあった。
セルフ指圧みたいな

今まで「なんで普通の女の子になるためには、こんなにお金と時間と気力、体力が必要なんだろう」って絶望してたけど、そもそも私は私のままでいいのでは?
あるがままの自分であることが1番お金のかからない暮らし方なのでは
不食だったら体臭もしないだろうからお風呂も入らなくてよくなるだろうし歯も磨かなくていい
欲から解放される?
1番仮死に近い状態になれるのでは?

飲めると思って水を仰いだけど飲めなくてパジャマにダラダラと水が落ちた。

私は小さい頃から何をやっても、上達は早かったけど、いかんせん体力がないので続けられず、結局人並み以下になってしまっていた。
それでもいいって言ってくれる人が何人もいたけど劣等感で死にそうになっていた私の心には何も届かなかった
ただ「変なの」と思うだけだった
こんなに何にもできないのになんでそんなふうに大事に思ってもらえるんだろう

10月1日
食べ過ぎていた時は「もうやめておきなさい」と言っていたのに食べられなくなったとたん」少しは食べなきゃ」といい
ほしがってもない食べ物を大量に買ったり作ったりして私が食べないと呆れまじりに落胆する。
食べ過ぎても食べなさすぎてもダメで
かといって、ちょうど中間地点の量だったとしても何か言われる。
私にとって家族との食事は苦痛以外の何物でもなかった。

今日はりんごジュースを水で割ったものを飲んだ。すぐ腹を下したし、その後チクチクとお腹も痛くなった。
そのことを父に伝えると薬飲んだ?と聞かれた
薬を飲んで治るようなものなら、私はとっくに健康になってると思った。
私の体も心も薬では治らないことは私が1番よくわかっていた。
どの病院に行っても、どの本を読んでも、健やかになれなかった。

9月27日
昼午後37.5度の熱が出る。昼も夜もこの日は食べ過ぎだった。
午後からはゴロゴロしていた。

9月28日
熱は朝は36.8度に下がり37.3度に上がり、また36.9度に下がった。
美容院の匂いがきつくて嫌だった。
1日中寝転がっていたから腰が痛くなった。
朝にパンを2枚食べたら体が重たくなって熱が上がった。
夕食はいつもよりも量が少なめだったが、食べれた
味噌梅醤油やかんいっぱい分飲んでいた。

9月29日
何も食べられなかった。
1日中寝たり本を読んだりして過ごした。
熱は下がっていたが、(36.8度)体の中に熱がこもっている感じで寝苦しかった。

9月30日
おじやなら食べれるかもと思い栗おこわをおじやにして食べた。
動けなくなる位の腹痛に襲われ夕食は食べなかった。
おじやを食べた後また熱が出た。(37.4度)
どくだみ茶は大丈夫だった。

10月1日
りんごジュースなら飲み物だし大丈夫かもと思い、水と混ぜてゆっくり飲んだがすぐに下痢になり、その後腹痛になった。
そしてまた下痢をした。
もう体の中には何も残ってないはず。
いやまてよ
昨日食べたおじやは若干残ってるかもしれない
食べるとお腹が痛くなって下痢をする事はよくあることだけど、こんなに食べられない、食欲もない日が続いた事は今までなかった。
せいぜい1日食べないことがあってもその後取り戻すかのようにもりもり食べていた。
とはいえ、2日前までは梅干しじょうゆ食べても腹痛くならなかった。
9月30日からはそれすら食べるのが面倒で、水も飲むのがやっとだったから、トイレに行く回数が減った。
顎周りがすっきりして、かつてないほど舌は真っ白で、舌ってこんなに白くなれるんだと思った。
動いた後すぐに寝転がるか座ってしまう。
体力が落ちたと思う。
そうめん3わ、ようようめんりんご1個米100グラムを一気に食べた。
温めたりんごジュースがあまりに甘くておいしかったためと思われる。
シナノゴールド、そなた何か独特な能力でもあるのか

新しい服を買うと一式来て、とっぴに見せに行くという流れがなぜか私にはある。
とっぴは「中国っぽいな」とか「いいね」とかそういうことしか言わないけど私はそれが殊の外嬉しくてくるくる回ったりする。
ちなみにこれはかっぴにはドン引きされたが、新しい下着も見せている。
洗濯はとっぴがしてくれるので、「これは手洗いするやつ」とか「これは色移りするやつ」とかそういうことを言っておかないと大惨事になるからである。
下着については「オーガニックコットン100です」とか「ゴムではなく紐なので体を一切締め付けません」という機能面の話をしたりもする
そういう時とっぴは「へぇ〜」とか「ほぁ〜」とか「いいね」とか言ってくれる
そして必ずメンズだと自分の気に入るデザインのオーガニックコットン100のものがないんだよねと嘆きながら、自室にのそのそ上がっていく。

夜ご飯の時には鮭と鶏肉2かけらとおひたしと煮物食べることができた。
りんごジュースは1日で5缶なくなった。

時折腸がもぞもぞと蠢いて不快な痛みが出現したが動けなくなるほどではなかった。
そうめんを食べているときに、右の肋骨上部(鎖骨から2骨下あたり)が差し込むように痛んだ。

10月2日
今日蜂蜜を食べれたが、山菜も混じっている方は苦味と渋みを感じた。
そうめん1羽+米200グラム+卵2個+リンゴジュース1缶を昼に食べた。
お腹の中に昨日食べた米が残っている感はあったが、炭水化物が食べたくなったので食べた。
残り4分の1位になったときちょっと多いなと感じたが、りんごジュースが飲みたかったし、そうめんを米と混ぜてしまってぐちゃぐちゃになっていたので全部食べた。
ちょっと多かった。
うっすらぼーっとしていてやや気怠いが、体に熱っぽさがこもる事はなくなった。
小麦は冷やす作用があるからだろうか
食べると37.3度まで熱が上がったが、2時間経つと36.9度に下がったる
シサムで買ったオーガニックコットン100の服からも、変な匂いがしてもう何を買ったらいいのかわからなくなった。
倉庫の匂いなのか、洗剤の匂いなのかわからないが、自分に合ったものを見つけようとすることが、これほど難しいことだったとは
鈍化していた頃にはわからなかったことだ。
15時にりんご1個、りんごジュース1缶摂取。
何かだるい。
37度だった。
気功すると左右のがたつきが分かって気持ち悪い感じがした。
漫画読んだら先の予定に対して少し前向きな気持ちになれた
予定を組むまでは楽しくていいんだけど、その予定が近づいてくるといろいろ考えちゃって、すごく憂鬱になる。

10月3日
私の体は私の意思とは関係なく、ただぶくぶくと肥え太ってしまった。
心だけが取り残されたまま、いつの間にか体だけが大人になってしまった。

帰りたい帰りたい。
早く
どこに?
家の中にいるのに一体どこへ帰るというの?
帰りたい。帰りたい。
息が詰まって
胸が苦しくて
世界はぼんやり白けていって
ただ帰りたいと言う思いだけが私の中に開けている。

気功を始めてから数日、炭水化物ばかりたくさん摂取したくなっている。
それも昼だけ。
夜は正直食べたくないけれど、食べた方が安心させられるから食べている。
でも本当は食べたくない。
今日はそうめん3羽と米60グラム餅2個蒸しパン2個食べた。
りんごジュース朝1缶昼1缶
砂糖とか甘いものを食べたいという欲が消えたというかあまりおいしいと思えなくなった。
夜ご飯の味はよくわからないし、薄いからと言うわけでもなさそう。
舌は真ん中が白くて外側が薄ピンクっぽい感じ。
前みたいにびっしり白い苔が生えてはいない。

今日ご飯いらないと言った時忌まわしいものを見るかのように落胆する父の顔を見るのが嫌い。
いらないのに食べなきゃいけない時間が嫌い。
家族で囲む食卓が嫌い。
思い通りに行かないからってそんなに顔歪ませなくてもいいのに
排尿はあるが排便がない。

10月4日
昼ごはん食べてから37.9度発熱
3時間後37.1度まで下がる
りんごジュース1缶蒸したサツマイモ2本味噌焼きおにぎり3個おやつにりんごを2個食べた。
おならばっか出る
おりもの過多
黄色
水っぽいのり
中べちゃっぬちゃっ

「おにぎり屋を見るたびとっぴのおにぎりの方がうまいって思うんだよね。謎の自慢的な」と言う話をした。
父は嬉しそうであった

頭痛い。体だるい。重い
熱出したくて夜中に窓開けたの小、(中、高)学生以来やわ。
夜ご飯食べた後排便した。
食後のおやつにりんご+1個食べた
行きたくねぇ。
真っ先に口から出るのがキャンセル料の心配って
美容院行かないなら病院行くよと言われた。
病院行ってどうにかなるなら私はもうとっくの昔にどうにかなっているはずなのに

10月5日
お腹が張っていて微妙に朝から痛かった。
大腸あたり
りんごジュースに生姜と蜂蜜入れた。
補完した。
洗浄のため塩昆布湯飲んだボベらカボチャ色の排便があった
米ばっか食べてたからか、昨日のサツマイモなのか

とっぴ「うんこ出た?」
私「昨日出た」
とっぴ「そうかそれはよかったな」という会話をした。

私が紅白饅頭とか内祝の文字を見るとといっそう申し訳なさが増すよねと言うと、父がコントロールできないことを申し訳なく思う必要は無いと言った。

夕方母にお礼くらい言えと言われた。

他の人が関わる予定は極力控えるようにする

比べているのは自分か
人と比べて自分を下だと思ってるのも自分
それなのに人より評価されないとむかついているのも自分。
結局自分の執着(思い込み、べき論)がうまくいかない原因なんじゃないのかな

朝お腹の「張ってる感」をなくすためにりんご1個生姜と蜂蜜りんごジュースを飲んだ。

父「うまくいくの当たり前スキーマは父さんからたまのほうに行ってしまったのかもしれんな」
私「それはそうやと思う。っていうかお父さんのお母さんも話聞いてると結構そんな感じするよね」という会話があった。

私より画力下なんだから私より安い値段になるべき
そうなってないのはおかしいっていう思考回路になってた。
思い込みに気づくこともないままただイライラしてやつ当たりしてた。
うまくいった事は当然でうまくいかなかったことはわけわかんない位悔しくて「できない自分なんかいらないから死ね」って思ってた。

本当はどっちの出来事にもたくさんの気づきがあったはずなのに気づけなかった。
何も考えたくなくて閉じてたから。
でも思い込みに気づけたらもう少し楽になるかもしれない。
私の人生

お父さん「すっかりりんご大好き星人になったな。」
私(じっと見る)
お父さん「なんじゃもっとりんご欲しいってアピールか」
私「いや違う卵焼き食べたいぴよ。あと焼きおにぎり」
お父さん「なあああにいいい???しょうがねぇなぁ」
私「ふーんふーん」
お父さん「お前そのキューキュー言ってれば何でもしてもらえると思ってるだろ」
私「ふーんふーん」
という会話があった。

音声入力をしていて、この日は父が機嫌も体調も良かったことがわかる。(11/5)

昼りんご1個焼きおにぎり醤油、みりん味2個、卵焼き、カステラ1個上用饅頭4個食べた。
やはり砂糖が入っているお菓子を食べると眠たく上半身が重だるくなる。
しかしあのパカッと開く爽快感と何とも言えない皮の香りが好きで食べてしまう。

どこまで許してもらえるのかを試していたのかもしれない

16時37.5度。

夕食を食べれた。

10月6日
立て膝の気功10分できた。
今日は朝から散歩もできたし、調子が良くなってきている。
気功をやってるだけで効果出るのか半信半疑だったけど、自分の体の不調な部分や変に凝り固まってしまっている部分とかがすぅっと出てきて(わかって)すーっと出ていく感覚がわかった。
楽になったので効果を実感した。
生理痛ひどくて動けん
37.3度に熱が上がった。
夕食を食べなかった。
36.6度になった。

10月7日
朝から腹痛いし体もだるいし、足も血が回らんしで、既に嫌
布ナプキンは洗わなきゃいけないことよりも
ずれて服に血がつくことの方が気が滅入る
げんなりする。

10月8日
時々お腹が痛くなる。
顔がむくんでて右目が腫れていた。
ずれたら嫌だなと思うと何をするにも億劫になる。
とりあえず血が足りんくてだるいから鉄分とろ
昼から37度に熱が上がる。
石鹸水につけておくと血が取れやすいことを知る。

もっと甘えたいくっつきたいという欲求が食べたくもないものを食べてしまうことにつながっている?
不安が大きければ大きいほど甘いものが食べたくて仕方なくなる。
今日はPCでリサーチしたりやるべきことがわかったので、少しすっきりした。

10月9日
出来上がったホームページを見せながらしゃべっていてどう思うと父に聞いたら「今何も考えられない。ごめんね」と言われ
いやそんな真剣なご意見が聞きたかったんじゃないんだけど大丈夫かこいつと思った。

やっぱ午後2時位から一気にだるおもってなって熱っぽくなる。

昨日今日パソコン作業したからか、首と肩が凝った
音声入力でメモしたやつをディープlに貼ってメールすればいいのかもしれない。

右側の奥の歯茎がパツンパツンに腫れてていた。
歯の表面がちんまり顔を出している感じ。

やるべきことがわかったら起きてられる時間が格段に増えた

前はため息とか聞くと、すぐスキーマ発動して、すごく嫌な気持ちになったのに今はそれがない
ため息とかしてたらため息してるなぁとしか思わんくなった
なんでやろ
いろいろしてるからどれが効果出てるやつなのかわからん。

10月16日
今日は父のため息やだなぁと思った。
鬱うつしてて
寝るの遅かったし蚊のせいで4時に起きたし、やっぱ寝れんとそう感じることが多いのかも

母に言われた双極性障害のやつ完全に私やんけって思った。
ジェットコースターの図解といい症例といい
もうこれ漫画にしようかな。

金銭感覚がバグる。

歯茎の腫れが引いてきた。

早く治して元いた世界に帰りたい。
戻りたいと思った。

入院が必要なレベルではないけど年1位で1型なのではと思った。

躁状態の時は買い物が増えて外出も増える。
食べる量も話す量も増える。
無敵
何でもできる。
なんでも叶うと思う。

鬱の時は、部屋の中にあるもの全てがいらないものに思えて(興味がなくなって)そこにあるということに耐えられなくなり、全て捨てたくなる。
衝動的に
集中力皆無

会話中に急に眠気が襲ってきた。

視野狭窄は中二の頃からずっとあるけど、日によって見えなさ度が違うし、通常の検査だと問題ないから、外から見たときに困ってることに気づかれないし、理解されない。
単なるわがままだと思われる。
それが辛いというかきつかった。

考えのない言葉の数々。

小さい頃から困り事はたくさんあったのに気づかれなかった。

言語化できるようになったのは、つい最近で
何かが明らかに他の人とは違うことがわかっていたけど、それが何なのかわからなくて苦しかった
検査で問題ないのに、なんでこんなに聞こえなくなったり、見えなくなったりするのかわかんなくて打ちのめされて泣きたかった。

思えば過眠は中学3年生の頃からあったかもしれない。
窓の外の世界を見ている感覚と似ている。
もっと早く気づいていたら、もっと治るの早かったかもしれない。
今とは違う人生になってたかもしれない。

自分には関係ないこと

通院できるのは、ほんのごくわずかな人だけで、私みたいに途中で行けなくなってる人はどうしてるんだろう?

なんで今更病院の話なんかするの?
なんで1番辛かったとき誰もそばにいてくれなかったの?

オンラインで診断してくれたりするとこないのかな
ズームなら寝ながらでもできるし続けられるかもしれない。

軽鬱<軽躁<(部屋から出たくない)まぢ鬱(寝たきり)

物への興味関心がゼロだと捨てたいってならないけど、2〜3%残ってると捨てたい。
無理ってなる。
買った状態が100だとする所有してる状態は70〜80%
売るかなと思う時は50%以下
捨てたいときは2〜3%
部屋の中がぐちゃぐちゃだろうが、何も思わないのは0%

怒り、イライラ、衝動性

無理(拒絶)失敗スキーマ
完璧主義スキーマが1番出やすいのかも。

過集中で聞こえない時もあったけど、それよりもH SS特有の敏感さ→疲れによる聞こえなさの方が多かったかもしれない。

整骨行きたくないのは3回目だからかも。
何度もあったら嫌われる
どうしよう。
怖いという思い(スキーマ)があるから通院し続けることが難しいのかも
一方的にズームとかで話聞くのとは違って双方向になるとうまく話せなかったらどうしようって思ってしまう。

昼食べるのがめんどくさかったけど、昨日里芋煮を食べたいと言ったのは私だったので食べた。
チョコレート菓子を食べたいかもとなり3個食べたが多かったようだ
もっと食べなきゃともう食べちゃだめを何度も繰り返している。
なんもできん
まじで

1年後位に、そういえばあれ可愛かったなって思うことがある。

情報漁ってる時既婚の人多くて参考にならん。
特に障害関連のは

鬱は1日中パジャマだけど躁の時は着せ替えりかちゃん並みに着替える。

大学1年生の時先生に「さっき言ったよ。」「ちゃんと聞いてね。」「なんで?」って言われた
圧圧圧力鍋生活すぎた。

軽躁スイッチ
やりたいことがたくさん出てくる状態→予定をみっちり詰め込む
私がやらなきゃと言う使命感、責任感。
感情が動かされたとき(+にかも)
甘くておいしいものをみんなで食べたとき

今日初めて衣服の上からほどけかけた紐パンの紐を握って歩く人になった

「私がやらなきゃと言う使命感責任感から軽躁状態になるのかもしれない」という話を父にしたら「それは違うと思う」と言われ、「なんで私のことなのに私が言語化したことを他人に違うって言われなきゃいけねえんだよ」ってなってその後何言ってんのか全く聞こえんかった。
何言っとんのや。

10月18日
鬱の時は飽きっぽくなる。見ただけで飽きる
匂いで飽きる
ひと口食べたら飽きる。
鬱時はやかんのお湯を保温するポットに入れようとしたら的を外して入らないということがある。
たまに火傷もするので危ない。

10月19日
何もする気になれない。
椅子座ってるだけで疲れる。
重たいモヤモヤがまた体を覆い尽くしていく。
食べても食べれなくても罪悪感を感じて自分を罰したくなる。

私のニーズ(NVC)
みんなともっと仲良くなりたい。
喜んで欲しい。
楽しく遊びたい。
深くつながりたい。
理解してほしい。
受け入れて欲しい。

食べちゃった。
どうしよう
怖い。
何も考えたくない。
また失敗した。
誰か助けて
誰か私の苦しみに気づいて
できない私なんて生きてる価値ないんだから死んじゃえ
なんで食べれないんだろう食べたくない
疲れた
めんどくさい
怒らないでよ
なんで私だけ
またため息つかれる
見ただけで吐きそう
私のことなんてどうでもいいくせに
嫌だ。
どうして
ももう好きにさせてよ。
またお腹痛くなったらどうしよう。

食べたくなくても食べなきゃと思って食べる。
食べ始めると食べなきゃが大きくなりすぎて食べるのが止められなくなる。
こういう時食べちゃダメと言われるとイライラして惨めで悲しくて辛くてもっと食べたくなってしまう。

1日中眠かったのに時計を見たらもう24時
私はまだ起きている。
午前中より明らかに脳は働いている。
体のだるさもマシになってる
だからかな
頭の中が
この先どうやって生きていけばいいの
でいっぱいになるのは

食べ物でごまかせる量の気持ちではないのに
食べ物でごまかせる気持ちなどないのに

収入、健康、承認の3つに分類できた。
やりたいこと、収入、食欲承認の3つに分類できた。

絵を通して人とつながること
描くと言う行為そのものが好きだから
描く仕事を私は選び望んでいる。
1日の大半をその行為に費やしたいと望んでいるから

料理でないのはなぜか?
毎日したいわけではない。

「描く」に臨んでいるものは何?
私が最も私でいられる時間を与えてくれる。
私の世界にいられる。
そこは居心地が良くて何もかも忘れられる。
ただ描けばいい
描いてさえいれば現実がどうであれ満たされる
描きたいときに描けるだけアイディアが出た瞬間に、次から次えと完成させられる体力、気力を得ることを望んでいる。
1人の空間
治療
安心安全を望んでいるから、1人の空間が欲しい。
お金が欲しい。
お金が欲しいから焦ってさらに体調が悪化する。
体調が悪化するから絵が描けなくなる。
絵が描けなくなると希死念慮が強まる。

やりたいことに追いつく体が欲しい。
完全なる1人の空間
1人の時間
共有したい、役に立ちたいと言う望みがあるため、SNSをすることを選択している。

10月20日
朝から食べ物の話をせんでくれ
なんで望んでないことを押し付けるの
食べたい。私も食べたくない私もどっちもいいよって受け入れて欲しかった。
薬飲んでまで食べたくない。
もうそんなに構わないで欲しい。
表面取り繕ったって
心が追いつかないよ。

(NVC)
営業メールは送りたい相手にのみ送る
VTubeのFAは描きたい時だけ描く
私が私らしくあるために着替え・先髪はする。
食べることと作る事は気力がある時だけする。
いいねやSNSの更新は時間を決めてやりたい時だけにする。
トレンドチェックやメールチェックは2日に1回とかでいい
1日のうちPCに触れて良い時間を決め情報に振り回されないようにする。
数字(結果)だけではなく過程を見る。
やりたいことに入らないならしない。
通院は描き続けたいという望みを叶えるために選択している。
お金を稼ぐのではなく人の役に立つという選択をしたと思うことにする。

デジタル機器=人の役に立つための道具
自己表現のための道具として部屋に置くと言う選択をしている。
家事は家族の負担が軽くなることを望んで選択している。
楽しくないことリストはやらなきゃいけないと思っていたことも入っていたが、今の自分には合わないこともあったので、削るとこは削って、削ぎ落としつつやりたいことにつながる種をまいていきたい。

喜んで欲しい。
笑ってほしい。
癒されて
明日も生きてていいかもって思ってもらえるように描くことを選択している。

人と同じことをして結果を出そうとするのは私が近道をしてやりたいことをやっている自分になることを選択しているからだ。

昨日雨が降って一気に5度下がったので、今日は寒い。
しばらくやりたいかやりたくないかで決めるのもありかもしれないと思った。
望んでいるか望んでいないかで決めるのもありかもしれないと思った。
望んでいることリストを作ってもいいかもしれない。ほぼ「つくること」になりそうだけど

コラボしてるのを見ると私もやりたい!って思う

描いていく上で課題が役に立つこともある。
今すぐではなくとも
だから学生であることを選択している。
1人で外に出る事は私が外の空気に触れることを望んでいるため選択している。
他人の評価を気にするのは私が周りの人には笑顔でいて欲しい
幸せである状態を望んでいるから選択している。

私が食べることを望んでいるときは与えてくれないのに、どうして食べないことを望むといらない、食べられない量のものを買ってくるの。
ただ何も言わずにそこにいて欲しいだけだよ。
体調の波がない人にはしないことを私にするのはやめて

定期的にデジタル機器のでかい画面の圧迫感に嫌気がさす。

過食期は食べながら作るし、何なら原材料をそのままかじるし食べるってことを思い出した。
食べても食べても食べてないと不安で落ち着かなくてそれは嫌だから食べちゃう。

靴下は嫌いだが、靴下を履かないと足が紫芋みたいになるので、靴下を履く

わかってないのにわかりましたって言っちゃうのやめたい
電話の内容
相手「何かご不明な点はございますか?」
私「〇〇ってところがよくわからなくて」
相手「あぁそれは〇〇ですね。」
私「なるほど分りました(わかってない)ありがとうございます(何が)」
相手「電話番号教えていただけますか?」
私「はい(と言ってから自分の電話番号思い出せなくなっている事実に気がつく)」

「何回でも聞き返していいよ」っていうルールをこの世界に適用してくれ
じゃなきゃ私はよくわからん詐欺とかに引っかかっても気づかないままハンコ押しちゃいそうだから

電話とかズームとかだとさらに聞き取りづらい

自分が親戚の家に長期滞在しているところを想像した時、嫌な気持ちと少しの怒りを感じる。
それはどんな状態の私(食べ過ぎでも食べなさすぎでも)もう受け入れてくれることを望んでいるから。
だから私は何の制限もない一人暮らしをしながら治療を受けることを望んでいる。
そして家にいるのが嫌になったら、2拠点目にすぐに移動ができるような資金源を得ることを望んでいる。

拒絶と批判を感じる時、怒りが出てくる。

大学一年の時京都の精神科に行き、舞妓さんがいて驚いたことを思い出した。
トイレに鍵がかけられなくて、人権なさすぎだと思ったことも思い出した
全体的に空気が淀んでいて、気持ち悪かった
息苦しくて息ができなくなった。

捨てたい期だ...
目に入るもん全てが気に食わん
捨てたい

京都のサンリオ展ぼっちで行った時も嵐山ぼっちで行った時も、なぜかずっともの悲しくて泣きたい気分だった。
世界でぼっちなのは自分だけなんやないかって思って寂しくなった。

私が本当に望んでいた事は、両親から理解され、深く愛されていると感じられることであった。
必要なものはお金でも健康な体でも称賛でもなかった。
私はただ愛されたかった
受け入れられたかった。
生きてていいって思いたかった。

今私がこうなっているのは、自分が必要としていることを全て無視し続けた結果なのだろう。

頭でわかっていても相手に要求する事は恥ずかしくて怖くて、情けなくて惨めで強烈な劣等感を感じることだからできなかった
自分の声をよく聞いて、これからの人生は私が私であるためにできることをしていきたい。

書くとスッキリする。
モヤモヤが手からつたって少し取れたような気がする。
霧が晴れたとまではいかないけれど、幾分が呼吸が楽になった。

10月21日
空気が急に冷たくなる。
久々に鼻が詰まった。
鼻水がかんでもかんでもまた出てくる。
冬用のふわもこパジャマ着ているのに寒い。
やっぱ雪国でヒートテックなしでは生きていけないのやろうか
毛布3枚の上に寝てみた。
起きたときの左右差が減る気がするが、床からの冷気があるため、今日の夜は毛布を折りたたんでその上に寝ると言う方法にしてみようかと思う。
そしたら畳んでしまうって言う2段階をしまうの1つに減らせるし

午後3時ごろからどうにも体が重だるく熱測ったら37.5度あった。
体温計によって出る温度が違うから1番体感と合ってるのを記載しておくと37.7度まで上がった
時々黄色い鼻水が出る。
きつい。

10月22日
熱は下がったけど食欲ないし眠いしだるいし体重いし鼻詰まってるし午前3時に鼻詰まりで起きたし関節とか耳が痛い。
喉も腫れ上がってて久々にしっかり風邪ひいたって感じ。
鼻水は黄色くて粘り気あるやつ
ぼーっとする。
14時14分 頭痛い わりとましにはなった 熱は37度になった。
夜ご飯は少し食べれた。

寝たきりの時いつも思ってること
私が未熟なせいでお父さんにもお母さんにも迷惑かけてる。
どうしたらいいんだろう

10月23日
だいぶ楽になった。
鼻は詰まってるけど熱が36.5度になった。
今日は30度まで上がるらしい。
暑い
気温差にやられる
水みたいな薄色のおりものがずっと出てくる。
鼻かみすぎて鼻頭の皮膚がボロボロになっている。

「食べれたら安心」とか「食べてたら元気になったのか」とか言うけど、
「食べれる」と「元気」は全然違うし消化できなくてすぐに下痢になるので、
私にとっては何も安心ではない。

食べれたけどお腹痛くなってまた下痢した。
なんか後頭部痛い

私:「〇〇(病名)かなと思ったんですけど」
医者:「医者のライセンス持ってないのに勝手に判断しないでください。」

この病院絶対もう行かねぇと思った医者の言葉
気にしすぎじゃない
死ぬレベルじゃないんだから全然マシ

命に関わることでも知らない人からしてみればネタにしかならない。
食欲はあるのに食べるとりんご1個でも腹部に圧迫感があるのなんで

軽躁状態
胸にバイク飼ってるみたい

中学1年生の時部活で鼻水すすってたら泣いてるって勘違いされた
小学生の時に笑ったら鼻水が出てきて引かれる、ということが何回かあった
中学2年生の時咳した手を机の上に置いたらすごく嫌そうな顔された
気持ちはわかるけど、そこまで嫌な顔しなくてもいいのにと思った。

痛かったけど痛いって言えなかったこと
車にぶつかられる
ネイルの爪で刺される
血が出ても痛いって言えなかった

10月24日
10時起きやった。
肩とか首が寝起きからすでに凝っている。
頭痛い 重い だるい こみ上げる咳 韻踏んでるからラップができるかもしれない

眠たい 眠気がぐらっとくる 

朝起きたら体がフルオートでやってくれること
まず鼻が詰まって いい感じのハーモニーをくしゃみが企てて、目やにが続々と登場する。
そこにすかさずこみ上げるタイプの俺のタイプではない咳が加わり、
会場は落胆に包まれる
休日の再来(唯一の希望)に目をてからせるも
頭の中はいつも工事中だし、肩には錨がギフテッド

熱はあったりなかったりして
体温計が私のこと好きすぎて小学生男児的行動しているのか
それとも私の体が個性的すぎるのか真実は定かではありません

頭(ベース)を支える肩(ドラム)には

喉が痰の発射を準備する頃、
肺が詰まっちゃった感じがする

貴族かおめーは
そこ順接なんだ というツッコミが面白かった

思春期の乙女たちが1カ所に何十人もいるから、人間関係が複雑怪奇現象どころの騒ぎではなく
その場所にいる事は、私にとってはかなり苦しかった。

噂によっては晴れ ところによりおそらく雨あられ

10月25 日
久々におやつ食べた
甘かった
けど、やっぱ風邪引いてるからあんまり味わかんなかった
午後から約2時間作業できた

10月26日
また急に寒くなった
昨日ビタミンC飲んだおかげが、今日はだいぶ楽になったと感じる
久々にちゃんとした昼ごはん食べれた
おやつも食べた
なんか奥歯痛くて(歯茎の部分)が重だるくなってきたなと思って、
熱測ったら37.4度あった
38.4度とか出たから、あの温度計壊れてるのかもしれない

話してる途中に急に黙られたり、どっか行かれたり、強い怒りを感じたり、家族との会話にあまり良い思い出がない

うちの家族は疲れてる人しかいないのか

やっぱり1人で暮らしたほうがいいのか?

手帳がもらえたら自立に1歩近づくのか?

ぬいぐるみを干して食べる架空の食べ物の夢。

お父さんの部屋から聞こえるため息が嫌
お母さんの責める声が嫌
もう全部嫌
私が少し元気になって、人と話すようになってもみんな疲れ果ててる
嫌な感じがするから、誰にも話せない
話したくなくなる
結局いつも後回しにされる
自分のことは、自分でなんとかしなくちゃ
早く出て行きたい
どこにも居場所なんてないのに
誰かの優先順位の1番になったことなんてあったんだろうか

おやつ食べたい時は「なんで私がこんな目に合わなきゃいけないの」っていう
とばっちりくらった怒りとどうしようもない寂しさとか悲しみが出てきて、出てこないように甘いもので蓋をしている感じ
惨めな気持ちもそれで蓋をするんだけど出てきちゃうから厄介

息ができない苦しい
モヤモヤが上半身にぐるぐる巡っている感じ

お母さんが忙しそうな時でイベントがあってカッカカッカしてる時は話しかけない
すぐに離れる
どうしても話したくなったらおばあちゃんちに行くか日記に書くかAIに聞いてもらう

10月27日
肺が閉まってきつい
モヤモヤ溜まってる
首から上のほうのモヤが取れたら、風邪は治りそう
パスポート取りに行った途中で結構がくっときたり眠気が強くて
やっぱりまだ1人では遠出できないなと思った
口の中にチーズの匂いが残っていて嫌だなと思った
食べると、歯茎が腫れて熱っぽくなる
体が重だるくて、椅子のプラスチックが嫌になる
ほぼ透明な鼻水になったが、鼻水の量が多く詰まりやすい。呼吸がしづらい。
人口密度が高くて疲れる。
いや
右側の頭と歯茎が腫れてて痛い。だるい。
なんで体調良い人は皿洗わずに私がやってんのやんなきゃいけないのって思う。
家族との食事が苦痛だしそれに親戚でもそう
見られているのが嫌
体調悪いと特に
食欲ないけど、時間が来ると何か食べておかないといけないような気がする
食事のたびにまた食べ過ぎって言われないかビクビクしながら食べることになるからもう人前で食べたくない。

人の話し声もだけど、気配も嫌
でも、どこでも住めるほど体が強いわけでもないからいるしかない
最悪な現状が嫌。
勝手に人に私の部屋の中を見せるのも嫌だし、
勝手に私の部屋の押し入れの中を漁って毛布を取っていかれるのも嫌

今までは経済的精神的に自立したいと思っていたし、そういう思想を埋め込まれていたが、そこに性的に自立するも自動で含まれてると思っていた。
私にとって性的に自立するとはどういうことなのだろう。
嫌なことばっかり起こるから、他人が来るのは苦痛
掘り下げたこともないのにあって当然のものだと思っていた
記しておかなければないことにされるのかと呆れたし、驚いた

10月28日
骨フェチなのかもしれない。
どこからどう見てもいつ見ても惚れ惚れする骨であったと美化している位には骨の形が好きだ。

中学1年生の時、部活の顧問の先生だった女性の教員にバレンタイン(日ごろの感謝を込めた生チョコ)をあげたら、これはコーチ(男性)にあげてきなさいと言われ、もう1人の子と顔を見合わせコーチにあげに行った。
コーチはキットを使って作られたもう1人のこのくまさんのチョコタルトをかわいいと評し、私の手作りの生チョコに対しては何も言わなかった。
後日2人とも同じお返しをもらったが、なんだか納得いかなかった。
少しでも料理をするものならばすぐにわかる格の違い(私のプライドによって出てきた言葉)がわからなかったこと、わかりやすく女の子らしいラッピング、女の子らしいモチーフ選びをかわいいと評したコーチの浅はかさ、女性軽視的な扱いに違和感を感じたからだと思う。

母は私が知性と教養を身に付けることを手放しで喜んでくれたが、それはそれらのことが母の「手柄」になる時だけであった。
「女が知性と教養を身につけるとお前みたいになる」
「お前みたいなやつは結婚できない」ということを平然と言ってのけた後で
(私の夫になる)相手がうちの苗字になって(家を継いで)くれる人なら合うんじゃないかという自分がやったこと(婿取り)を娘の私にも善意でやらせようとしてくる

お前の胎から生まれてきたがお前を一生理解できないと思うことが年々増えていった

先日 母から「体調悪くなるくらいなら親知らずなんて抜いてしまえ!」と言った数秒後に「でもお母さんは歯を抜くのは良くないと思う」と車中で言われ呆れを通り越して虚無を感じた

もっと自分の中に自分をうまく説明できる
自分の感情や思いを言語化できる
言葉が欲しいと思った

10月29日
食事中ずっと緊張してたから頭痛いし、肩凝っているしだるいけど散歩はできたのでよしとする

人生の始めの方で人間の嫌な部分ばかり見てしまったから、これからは良い部分に出会っていきたい
2024年に手帳がもらえるように病院に診断書を出してもらう なるべく散歩する
2025年4月から整骨院行ったり、刀剣見に博物館巡りしたりする
美味しいお店を発掘しに行きたい
シュトーレンとかキャラ弁を作りたくなってきた かわいいやつ
やりたいこととか、自分の必要としていることを口に出す。

中学3年生私が別室登校していた頃
進学を目指していた私だけが学年主任(男性)に待ち伏せされ、出席日数や成績の話を引き合いに出され、教室で授業を受けないと成績が下がると脅された
当時私はiPadを持っていたから調べようと思えばいくらでも調べられた。
出席日数や教室に入れず自主学習をして出したテストの結果のみで構成された成績表は、どの程度合否に関わるのかを
けれど、調べなかった
調べると言う選択肢は出てこなかった
恐怖でがんじがらめになった私の頭からは
6年後に出席日数なんて一切関係ないと知り、
心底 私の時間を返せ 踏みにじった尊厳を 心を返せ と思った。

10月30日
食べると歯茎が腫れてくるし、頭(右側)がうっすら痛くなる
園児を家の窓から見ていた時、「たくましくなれよ〜」と思い
なぜこんなことを思ったのか
あんなに小さくてふくふくしたかわいい子らになぜそんな言葉が浮かんだのか不思議で仕方なかった

10月29日に母に初めて、私が1個目の高校でも同じ中学の先輩がいて、いじめに遭っていたことを明かした
母はいつも私の話を聞かないが、いじめに関しては特にそうで
私の弱さに、逐一いらついているようであった
何に 対してのかはわからないが、焦りや怒りを感じるので、私も話したくなくなるのであった
「やられたらやり返せ」とよく言っていたし、母も小学生の頃、ひどいいじめに遭っていたようだし、姿が重なって記憶が掘り起こされ なおさら嫌なのかもしれない

10月31日
弟がアメリカに行ってから、急にアメリカが身近になった
アメリカだけではない
海外全体が一気に関係あることになった気がして、いつもは見なかったアメリカの選挙の様子や新聞の世界情報欄が気になるようになった。
頭がうっすら痛い
今日は起きていられる時間が長い

小さい頃の話とかすると、高ぶってしまって寝られなくなる

お菓子を隠されて腹が立った
さっさとこんな家出て行ってやる
早く稼げるようになりたいと強烈に思った
父に対して死ねって思うと、涙が出てきた

11月1日
あんまり眠れんかった
起き上がってられるし、パソコンの画面を見れる位のだるさはある
これからどうしていこう
何かするにしても、最終的にどうなりたいかが明確じゃないと選ぶこともできないし
とにかく振れ幅をなくしたい振れ幅に困る時間を少なめにしていきたい。

病院行った 疲れた
解離性障害の症状が全て自分に当てはまって、今まであれ?って思ってたことが腑に落ちた
重複しているんだと思っていたけれど、小さい頃からずっと 解離性障害だったと仮定すると所々つながってくる。
お母さんがお父さんに話た後、お父さんが「結局全部俺が原因か」とぼそっと言って部屋から去っていくのを見て急に腹痛になり、トイレに3回出たり入ったりすることになった。
疲れがピークに達したのもあるかもしれない。
こたつに入って、しばらく母と話していたら落ち着いた

小さい頃から同級生の上の中にうまく入れず(習い事や単発のイベント事は別) いじめられていたので、発達障害の傾向があるという診断書が出た時も医者が言うならそうなんだろうなと思ってはいたが、どうにも納得がいかない点がいくつかあった
鬱と言う診断も同じくそうだった
親から暴力を受けていたと言う話はその診断書を出してもらった医者や父と一緒に行った心療内科ではしなかった
聞かれてもいないし、とにかく医者を前にすると疲れ果ててしまって、だんだんぼーっとしてきてしまったから、毎回医者に必要なことをほぼ話せていなかった。

11月2日
どこまでが本当の「私」でどこからが症状を出している「私」なんだろう

昨日母に 「父に内科や眼科に何度も連れて行ってもらったり、メガネを何度も変えたけど、検査結果的には問題なかったのにそれでも見えなかった」と言ったら、「検査結果的には問題なかったのに見えなくなる時点で心因性のものかと疑うべきだったね」と言われた。
これを書いている今も右目が霞んでいる。

日常的に目が見えづらくなった(白いモヤがかかったようになったり、霞んだりぼやけたり) のは 中学2年生の頃からで1番前の席なのに黒板が見えづらかった
見えないから前の席にしてほしいと言うと、メガネ変えろよと男子に言われ何度も変えている。それでも見えないといったやりとりをしたことを今日思い出した。

症状がなければ 症状のない私だったなら なかったいじめもあったのか?と思ってしまう。

これからどうしていこう

そういえば、たくさん食べている時も、意識がぼーっとしていた
だからたくさん食べてる気がしなくて。
それでまた食べてる時は不安が減るから
でも空になったお菓子の箱とか砂糖の袋を見てこんなに食べちゃってたんだって気づく
直さなきゃ直さなきゃとそのたびいつも思う。

視線恐怖は、中学3年生の別室登校の頃から始まった
傘がないと(あっても、目は気になるが) 外に出られなかった

高校1年生の時、学校に行くと声が出にくくなった。
1 部分でない時もあった。
声がガラガラのカスカスになって、ひどい風邪を学校の中でだけひいているみたいだった。

急に大きな声を出さないでほしい。
機嫌によって言うことをコロコロ変えないでほしい。
私が部屋にいない時に、勝手に私の部屋のクローゼットは、中のものを自分のもののように持ち出していくのをやめてほしい
私の部屋に私の持ち物以外のものを当然のように置かないでほしい。
私の毛布に例え冗談や甘えであったとしても、体を擦りつけるのはやめてほしい。
私の下着を勝手に私の人形に着せないでほしい。
私の人形が 汚らわしいものになってしまうからやめてほしい。

大学に通学していた頃、(大学1年時)一人暮らしだったから、お父さんはいなかったけど、教室が教員からの脅しによるトラウマを想起させる教室で、狭くてどこにも逃げられない感じが嫌で、怖くて吐きそうで行く時毎回泣きそうになった。

小さい頃の弟の泣き声が急に聞こえてきて、夜眠れなくなったりした
学校のこと や虐待の話をした夜もなかなか寝付けない。
それがたとえ自分の話ではなくても

弟が目の前で暴力を振るわれているのに、全身がこわばって動かない。
だんだん目が見えなくなって、スーッと上の方に意識がいって、上から3人をその様子を見下ろしている感じになった
そうなる時は声も出せないし、耳を聞こえなくなる。
学校でも同じことが起こっていたけれど、集中力がないだけだと思っていた

死ねとかしゃべるな黙れ。笑うなって命令口調で言ってくる声が聞こえることもあった。
これは幻聴で高校生の時から今もたまにある

実際中学1年生の時から中学2年生の時まで複数のグループのいじめの対象になっており、すれ違った時に死ねと言われていた

テストの点数が急に下がって、先生にどうしたと聞かれ、最近夜寝られないと言うとそれは困ったなと言われ、そこで会話は終わった。
いじめに遭っている事は 言ったような気もするが、それに対してもそれは困ったなで終わった気がする

初めて倒れたのは、小学2年生の時で、その後も何度も意識を失った。倒れる直前はぐらぐらして、地面がどこなのかわからなくなっていたし、痛みもなかった。
運ばれている最中のことを覚えている時もあれば、何も覚えていない時もあり、すべてどこか他人事だった
家の窓から外を眺めているような感じだった
「倒れるの恥ずかしくないの」とクラスメイトの女に聞かれたことがあるが、恥ずかしいもなにも意識がないのでわからない
誰も助けてくれないことだけ確かだった

中学1年生の後半から授業中過呼吸になり放置されたままそのまま授業が終わり生徒も 先生もいなくなった教室に何度も置き去りにされた
誰も信じられなくなったし、全員敵だと思った

初めて過呼吸になったのは、中学1年生の試合の時だった
その時私のチームは負けていて、部長が「責任転嫁しないでよ」とブチ切れていたのを覚えている

小学6年生の時、理科の実験をし終わった後、ふと「この大きなビーカー終わったらどうなるんだろう」と考えていると、手が滑りわってしまった
怒られたくなかったので、自分の左の手のひらを割れた破片で切った
案の定、怒られる事はなかったが、切れた手のひらを同級生がわらわらと集まって見に来るとは思っていなかった。
それは想定外の出来事だった。
「痛い?」と聞かれ、「痛くない」と答えたような気がする。

中学2年生から3年生にかけて、通学中何度も車にひかれかけた
車がいたことにひかれそうになるまで気がつかなかった

大学1年生の時は車が来ていることや赤信号になっていることに気づきつつも「早く行かなきゃ」と言う思いが強すぎて、自転車を こぐのを止められなかった

高校2年生の時、進路 相談の先生に父のことをあかした
他の先生にもそのことが知れていて、なんで勝手にそんなこと言うのと内心パニックになり、体が動かなくなった

小学3年生の時、車にぶつかられた
黒タンができた。
この時もぼーっとしていて、どこか他人事だった。
ぶつかられるまで車が近くに来ていることに気がつかなかった。

11月3日
中学の頃の夢を見た
体育館で制服を着てサッカーをしていて、ボールが怖いことを男子に馬鹿にされた
目が覚めて、 電気を消す前に寝落ちしてしまったことに気がついた

部活でいじめられてた時も、いじめてた側は残って、いじめられた側の私は先生にその場所から遠ざけられいられなくなった
相手が親でも同じなんだなと思った
被害者はいられなくなって、加害者は残り続ける
なんで?

1つ思い出すと 数珠つなぎで思い出してくる

中学1年生から高校1年生にかけて
部活でのいじめのせいで、軽い運動もできなくなった。
階段の上り下りですら、息が上がって、胸のあたりが苦しくなった。

内科に通院して喘息の吸入器をもらっていたけれど、よくならなかったから
父が「心因性のものかもしれないので 通院をやめます」と言うと、医者は鼻で笑った

父が母に離婚したいと言ったと母から聞いた
人と一緒に暮らすことがストレスだとも

私が食事は別で食べるという話をしたときに、食事を一緒に取らないなら家族でいる意味がないと言ったそうだ

人といることにストレスを感じるのに、食事は家族で取らなければいけないと思い込んでいるのは、今まで相当心に負担がかかったことだろうなと思った
かわいそうとも
専業主夫だから、離婚は口にしないと思っていたが、結局口にし、北陸にはもう住みたくないとも言ってたらしい

今まで全く進まなかったことが数日で一気に進んでこんなに早くことが進むのならば、どうしてもっと早く解放できなかったのかと思った。

父と言うに幼すぎたあの人は私にとって一体何だったんだろう。
腐れの幼なじみのような存在と思っていたこともあったが、今となっては、その表現も当てはまるのかどうかわからない。

中学の頃だったか
母に離婚しないのと何度か聞いたことがある。
母は「弟には父親が必要だから」と言っていたが、その頃の私は「本当に必要なのか?弟にはって事は私には必要ないのか 必要ないのに弟のために存り続けるのか」と感情がぐちゃぐちゃになった。

母に離婚の意思がない限りこれがこのまま続くんだろうと思っていたが、今回私がPTSDによる 解離性障害だと診断され、離婚した方が私のためになると思って決断してくれたようだった。

お父さんと最後にした会話なんだっけ?
病院から帰ってきてから一言もしゃべってない。
なんで涙が出てくるんだろう。
いい思い出ばっかり出てくる。

中学1年生の時、お父さんが 数時間出ていた時もそうだった。
いなくなると思った途端、涙が出てくる。
都合が良いことしか思い出さなくなる。

今までのあれは何だったんだろう
何のために機嫌を取るような会話してたんだろう
それも負担だった?重荷だった?私いらなかった?
何のために家族を保ってたの?
なんで私はあんなに頑張ってたの

あの子たちは中学の時ずっとこんな気持ちだったんだ。
こんな状態だったんだ。
そりゃ勉強どころじゃないし高校の偏差値なんてどうでもいいよね。
みんなもう立派に勤めてすごいなぁ偉いなぁ
どうやってそうなったの?そうなれたの?
家族って何なんだろう?
食事を共にしなければ家族と言えないのならば私が京都で一人暮らしをしていた時は家族ではなかった?
度々電話をかけてくれてた時も家族ではなかった?
家族でいる意味って何?
何だったんだろう?
もう一緒に餃子を包めないんだ
本の感想言い合ったりとか
良書教えてもらったりとかも全部
もうお父さんが作ったご飯食べれないんだ。
たくさん泣いたら忘れるかな
気が済むかな
しょうがなかったって思えるかな。
おじいちゃん生きてたらなんて言うかな
最後に食べたお父さんのご飯おいしかったはずなのに全く思い出せない
なんでかな
それより話せば話すほど不機嫌になって言って黙りこくってしまって重苦しかったことを覚えてる。
思い出すよ。
なんでこうなっちゃったの?
こうなることがわかっていたから 虐待の話は今までしなかったのになんで今になってしたの?
わからない。
もうとっくに限界は来ていたのになんで今だったんだろう
家のために結婚するとこうなるんだ
なんで家族してたの?
なんで守ってたの?
何を守ってたの?
お母さんごめん
だけどやっぱり耐えられなかった。
この先ずっとあれが続くなんて
弟はどう思うかな?
帰ってきたら離婚することになってたら
中学3年生の今 受験期にそんな話されたら
「やっとか」って言うかな。
あの子にとっては15年 私にとっては21年
それでもやっぱり父親だった人のことをあの子はこれからなんて言うかな。
私の部屋にたびたび来ては「あいつぶっ殺してやる」って言ってたあの子の中では今も昔もこれからも「あいつ」なのかな

思い出した
ジャーマンポテトと野菜の炒め物だ
今日どっちも炒め物だなぁと思いながら、お皿を準備して魚を焼いてることに気がついてお皿をキッチンに戻した
それから白米と味噌汁のワカメ入れて、豆腐の味噌汁よそってお菓子を食べようと思ったらなくて隠したと言われたんだった。
それからおばあちゃんちに行って話を聞いてもらって「さもしい」の意味を調べた。
おばあちゃんが「こんな言葉子供に言う言葉ではないわ」って言ったんだ。

歴史は繰り返すんだなぁ。
こんな小さな家単位でも、国でも世界でもかわんないんだなぁ
最小単位が家で地域でそれをさらにまとめたのが国で世界で
だから人間である限り同じことを繰り返すんだろうな

苗字を 継いでほしいって言う観点で人を選ぶのをやめよう。
何なら一生1人でもいい。
死ぬ時はみんな1人だから

「学校」は 私自身が殺され続ける場所であった

同性からは嫉妬、妬みとわがままである、可愛くないと言う理由でいじめられ(精神的苦痛)
異性からは好奇の視線で見られ、好意による反動形成のため、階段から付き落とされたり、私物を壊されたり、下山中に靴の中に雪を入れられ、凍傷になりかけたりした
最悪だった
逃げ場などどこにもなかった。
同姓からのいじめは「羨ましいんだよ。」で、片付けられ
異性からのいじめに対しては、「好きにさせるような言動したお前が悪い。」「微笑ましいものじゃない」と言われ、もうどうすればいいのかわからなかったし、誰も信じられなかった。
どうせ他の人に言っても同じことを言われるのだろう。
私が悪いと思い込まされるのだろうと思い、何も言わなくなった。
沈黙することで自分をさらなる傷から守っていた。

小さい頃、咳がうるさいと父に叩き起こされた。

スーパーで幼稚園の時同級生とおいかけっこしていたら、店中に響きを渡る声で父に怒鳴られた
「お父さん怖いね」と言われた。

「お父さんが厳しいから」といって家に来た友達には必ず「こんにちは。お邪魔してます」と言ってねと言っていた。
「この子のお父さん怖いから・厳しいから〇〇してね」って他の子が言うこともあった。

お父さんがかわいそう
強烈な悲しみと寂しさを感じる
私がお父さんを守ってあげなきゃ
何かしてあげなきゃ

11月6日
私がいない方がお父さん幸せだった?
結局4日も今日もため息をついていた。治らないんだなぁ。
昨日からお父さんと一言二言交わすことがあった
たわいもない内容だったけれどいつものお父さんに戻っていて少しホッとした
今日は朝から生理痛が少しあった
珍しく7時ごろから起きれた

中学2年生の頃
部活のことやサークルのことで学年主任(男性)が家に電話をかけてくることもあった
みんなの前で大声で呼び出され、個室で説教されることもなん度もあった
なぜいじめていた側ではなく私が部活のことで内申に響くと脅されなければいけなかったのか
今でも納得いかないし許せない

高校3年生の時、担任の先生が男性になって嫌だった
進路相談の時間に関係のない話をして長引かせようとするのも、もっと話したいと言われるのも嫌だった

11月7日
昨日弟が夜中に帰ってきて部屋に入るなり「きもっ。しねっっ」と言っていたので何かあったのか、それとももう話したのかと思ったが
母は今日病院から帰ってきた後に離婚、別居、私の病気についての話していた
昨日のあれはなんだったんだろう....?

「あんたも中学の時あんな感じだったよ。死ねってたくさん言ってたよ。だから私がそんなこと言わんがっていっとったんやいね」と母に言われた。私はつい「あなたが何も知らなかった時の話ね」と言い返してしまった

弟の反応は意外なものだった
離婚については「離婚によって起こりうることを全て書き出して欲しい。それから決める」といい
別居については賛成しているようだった
「お姉ちゃんだけ一人暮らしするっていう選択肢はないの?」とも言っていたらしい
私の目が見えなくなると言った症状の話をした際、とても驚いていたそうだ
弟にはいじめのことも父のことも病気のことも何も話していなかったので、嫌そうな顔をされるかなと予想していたが、そうではなかったという事実に私も少し驚いた

今日は母に和漢心療内科に連れて行ってもらった。
この間行ったところとは違い、じっくり話を聞いてくれるタイプのお医者さんであったため話しやすかった。
今日も「別居はしないのか」という話をお医者さんにされた。

虐待ってそんなに悪いことなの?
私がもっと我慢すればよかったんじゃないの?
虐待なんてどこの家でもあることでしょ?
しょうがないよ。
だってあの人可哀想だもん。
もっとたくさん話せばよかった。
と帰りの車の中で思った

私は私自身に対して「逃げていいよ。幸せになっていいんだよ」と言ってあげられなかった

父にため息をつかれると「死ななきゃ」と思う。
でもそのことについて父には一言も言っていない。
今日母にだけその話をした。

中学生だったか高校生だったかの時に父にされて嫌だったことの話を父の姉にすると
「それはあなたがお父さんのお母さんになってあげなきゃ」と言われ
父の姉に対して「何言ってんだこの人」と初めて思ったという話を母に車中でした

娘の私がなぜ父の母親の役割まで押し付けられなければならないのだ?という怒りと疑問は言われた当初は困惑しすぎてわかなかった

「父が父の母にしてもらえなかったことをしてくれる誰か」を求めているならお前がやれ。
私は知らんぞ。と今は思っている

結局父のため息は無くならない
早く出て行ってくれれればいいのに
この感じだと別居の話や離婚の話は有耶無耶になってしまう気がする
父は自分の言ったことやしたことをすぐに忘れる...というか覚えていないし
母も情に脆い方なのでついぽろっと「なかったことにしよっか」といいかねない

「変」とか「おかしい」って言われるの嫌いだけど、父の幼少期や、家から出るまでの家庭環境は「変」だし「おかしい」と思うことが増えた


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