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文系の世界も理系の世界も分け隔てなく知りたい

 最近、睡眠不足気味だ。最低でも六時間はと思うのに、平日よりも休日の方がむしろ六時間を割ってしまう。夜は眠くなってしまうので寝付きは早いのだけれど、目覚めも早い。早過ぎてしまう。平日はできる二度寝が休みの日はできない。

 ……というのはさておき。わたしは、理系出身の人間なのだけれど、文字や文章で、表現できるようになりたい、作品を作れるようになりたい、という願いがあるからだろうか。単に、文字や文学や、芸術の世界が好きだからというのもあるかもしれない。文系出身の人や、文系の人を見ると、対して、どこか引け目のようなものを感じる部分がある。自分は一歩出遅れているような気がする。自分は、文とか字とか、そういう世界で生きてきた人のようにはいかない気がする。いや、実際、同じではないと思う。

 素敵な小説に出会ったとき、作者の経歴を見ると、文学部出身とある。がっかりはしないけれど、やっぱりそうなのか、と思う。そのときの感情を何といったらいいのか。嫉妬というのか、嫉妬とはいわないまでも、そう、たぶん、わたしはそういう世界で生きてきた人たちのもっているものが、うらやましいのだろう。

 二年ほど前、とある人の講演会へ行った。ふだん、自分からどこかへ出向いていくなんてことの滅多にないわたしとしては、かなり珍しいことだった。誰かの講演を聞きに行くなんて、過去にも先にもなかった。だからだろうか。そのとき一回の体験は、わたしの中で大きな重みをもっている。考えてみればあれからもう二年は経つのか、と驚くほど、昨日観た映画のことを考えるような感覚で、よくそのときのことを思い返している。講演は夢中で聴いた。二時間があっという間だった。自分が、人の話を二時間夢中で聴き続けることができるなんて、初めて知った。講演といえば、それまでに経験があったのは、開校記念講演だとか、学校で半ば強制的に聴かされるようなものだけだった。おもしろいものも少なくはなかったし、今でも内容を覚えているものはあるけれど、あのときほど夢中になれたことはない。どれも時間は長くて、意識をそらさずにいるのは至難のわざだった。寝ることはなかったけれど、半分以上は空想タイムになっていた。わたしは真面目だったので、聴こう聴こうという努力だけは、していた覚えがあるのだけれど。

 わたしが夢中で聴いたその講演会は、本と読書をテーマにしたものだった。聴講者は、わたしと、わたしと一緒に来ていた姉以外は、みんな年配だった。熱心な人たちばかりで、質問タイムには、挙がる手にいとまがない。講演会の常連なのだろうか。講師とはすでに面識があるみたいで、なんだか親しげだ。わたしと姉は、完全に新参者だった。勇気さえあれば、わたしも質問をしてみたかったけれど、最後までその勇気は出なかった。

 講演会を通して感じたのは、こういう世界を愛している人たちは、現実にちゃんといるんだな、ということ。こういう世界を愛し、そこで生きている人たちは、現実にちゃんといるんだ。自分たちだけではなかったんだ。ということ。いるはずだというのは、理屈では分かっていたのだけれど、実際に出会うことがあまりにもなくて、そうした人たちや世界というのは、どこか遠いところにいる、本の向こう側の存在だった。本が好きなくせに、同じように本が好きな人たちのいる世界には、どうしてか足を踏み入れることなく、比較的縁のない世界を生きてきた不思議である。関心のおもむくままに進んできたら、いつの間にかそうなっていた。


 理系か文系か、進路を決めるときも、わたしはほとんど迷わなかった。決める段階になるよりもずっと前から、いや、最初から、自分の中で、自分は理系に進むものと決まっていた。小学校一、二年生のときだっただろうか、そのときは、理科の授業が始まるのが楽しみで、待ち遠しくてしかたなかったのを覚えている。

 文系の科目に、興味がなかったわけじゃない。でも、文系か理系か、大学で何を学ぶか。どれかを選ばなければならないとき、どれかを選べば……理系を選べば、文系は選べない。文系を選ばないことになるのは惜しかったけれど、理系よりも文系の方が独学しやすいだろうという思惑もあって、理系の道に進む決心をつけた。そう、学校で学ぶ分野としては理系を選んだけれど、結局わたしは、どちらかを選ぶことをしなかったのである。

 理系を選んだのは、理系の科目が好きだったからに他ならない。(とくに、生物が。)文系の世界への憧れや嫉妬はあるけれど、もう一度過去へ戻って、理系か文系かを選べといわれたら、やっぱりわたしは、理系を選ぶにちがいないと思う。選ぶしかないと思う。あのときは、自然科学をやりたくてたまらなかったし、やらない道なんて考えられなかった。今振り返っても、やらずにはいられなかったと思う。そして、そちらを選んでよかったと思っている。そこで見た世界は、かけがえのない、素晴らしいものだった。ほんとうに、そこで、閉じていた目を開かれた、そんな体験をした。

 わたしは、理系の、自然科学の世界が好きだ。文系の世界が人中心の世界であるとすれば、それに対し、理系の世界は、もっと高いところから、俯瞰的なところから、見る世界だと思う。そして、文系の世界が、人間社会の内部の世界であるとすれば、理系の世界は、人間社会の外部の世界、というのか、人間社会を、その一部として内包した世界だと思う。生物学や、生態学や、そうした理系の世界において、人というのは、何百万何千万といる無数の生物の中の一種でしかなく、人間社会というのは、無数の生物種の中の一種としての人間が作る集合体であり、それはやはり、生物の作る無数の社会の中の一つでしかない。アリの社会も、カラスの社会も、人の社会も、同じものだ。人間社会は決して特別なものではなく、アリの社会やカラスの社会や、あらゆる生物の作る社会と同列線上にある。もちろん人という生き物も、特別ではない。そして、もっといえば、人を含めたあらゆる生物は、道ばたの石や太陽と同じ、この宇宙の構成要素である。

 また、理系の世界というのは、偏見のない、公平な世界でもある。(理系の世界にいる人が、偏見のない公平な人とだという意味ではない。)そこには、善も悪もなく、非常も異常もない。そこにはただ、現象や事象や、それらを説明するしかけがあるだけだ。たとえば人は、人を傷つけないものを善、傷つけるものを悪、としたり、割合の高いものを正しい、低いものを間違い、としたりする傾向があるけれど、いい者も悪者も、正しいも間違いも、本来この世界には存在しない。それらは、人の価値観が生み出しただけの、人の世界にしか存在しないものなのだ。葬送のフリーレンに出てくる魔人も、決して悪ではない。もちろん、隣で暮らしたくはないけれど。

 わたしは、そういう理系の世界が好きだし、そういうものの見方を養えたことには満足している。と、いうより、わたしにはもともとそういう見方、考え方をするところがあって、それが、ちょうど理系の世界と合っていたからこそ、わたしは迷わず理系の道を選んだのかもしれない。


 結局、思うのは、理系であろうと、文系であろうと、学校へいっていようといまいと、すべての人の経験や学んできたものには、すべて等しく価値があるということだ。わたしは、理系の世界が好きだし、同時に、文系の世界も好きだ。何が優れているということもない。人の世界のことは、文系の人や、人の世界に興味のある人の方がよく知っていると思うし、今のわたしはとくに、人の世界のことも、もっとよく知りたいと思っている。

 そして世の中には、文系的なものの見方をする人や、理系的なものの見方をする人など、いろんなものの見方をする人がいて、だからこそ、人はお互いに学び合うことができ、また、そうして学び合う楽しみを味わうことができるのかもしれない。

 今回は、話の都合上、文系理系という書き方をしてしまったけれど、そういう風に二分する考え方も、ものの見方の一つでしかないことはいうまでもない。枠を作らず、とらわれず、これからもいろんなことを貪欲に学び、考え、わたしはわたしのもっているものを大切にしながら、自分のやり方で文字や文章と向き合っていけたらと思う。


 まとまりのある文章を書くのって難しいですね。硬い文章になってしまったのに、最後まで読んでくれてありがとう! それでは、また。

 ……ちなみに、最近読んだ本は、瀬尾まいこの「そして、バトンは渡された」、安壇美緒の「ラブカは静かに弓を持つ」、宮下奈都の「羊と鋼の森」。今読んでいる本は、砥上裕將の「僕は、線を描く」、斉藤惇夫の「ガンバとカワウソの冒険」。次は、上橋菜穂子の守人シリーズを読みたいと思っています。

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