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読書について

 最近、読書をしていないなあ、と思う。ほんとうは大好きなので、時間さえあればいくらでも読む。というのは、言い訳かもしれない。読書が好きだというわりに、わたしは読んでいる量が少ない。思い返すと、小学生時代からそうだった。本を読むのが好きだという周りの人たちと比べると、本への愛は負けず劣らずあるはずなのに、いや、気持ちとしては、誰にも負けないくらい、わたしの本への愛情は圧倒的に強力だという根拠のない自負さえあるくらいなのに、読んでいる量はたいして多くない(たぶん)。

 それは、日中は、リアルで活動したくなってしまうからだと思う。リアルの音を聞き、風に触れ、太陽の光を浴びて、今をしっかり味わいたい。日中に本を開くのは、なんだかもったいない。そう思ってしまう。だから、リアルをじっくり、満足に味わう時間さえあれば、日中でもなんでも、やっぱりわたしはいくらでも本を読むのだと思う。

 そういえば、中学生のとき、学校で読書記録の取り組みがあった。読んだ本とページ数を記録して、週ごとだったか、定期的に提出をする。あるとき、その集計がページ数の学年ランキングにされて廊下の掲示板に張り出されていて、なぜかわたしの名前が一番にあった。

 廊下の掲示板……どころか、学校で起こっていることには全体的にかなり関心が薄かったので、それも、誰かにいわれて初めて気がついたのではなかったか。読書好きの読書家として有名だった、少なくとも、わたしが知っているくらいに、そういうイメージで通っていた〇〇さんをしのいでの一番だったから、それも、わりと差をつけての一番だったような気がするのだけれど、そのときは、嬉しくもあると同時に少し決まり悪かった。ふだんはほとんど話をしない〇〇さんに、「一体いつ読んでいるの?」と、直接話かけられたような、なかったような。難しい本は読んでいなかったし、その時期はたまたま読む時間がたくさんあっただけというのもあったので、ちょっと困った。

 そもそも、時と場合と人と、本の難易度によっても、読むスピードは全然ちがうのだから(もしかすると、ページの中身は絵だけかもしれないわけで)、ほんとうはページ数だけじゃ何も分かりはしないし、量を読めば偉いってわけでもない。ただ、みんな案外本を読まないんだ、そんなもんなんだな、とそのランキング結果を意外に思ったのを覚えている。

 わたしは読書が好きで、時間さえあればいくらでも読む。

 就職時の面接で、どうして読書をするのか? というようなことを尋ねられた。
 どうして読書をするのか? どうして? ちょっと面食らった。どうしてあなたは呼吸をしているんですか、とか、どうしてあなたはご飯を食べるんですか、とは、あんまり面接では聞かないだろう。ゲームが好きな人に、どうしてゲームをするんですか、と聞くのも似たようなものかもしれない。聞かれた方は、下手をすれば気を悪くしかねない。どうしてそんな野暮なことを聞くんだ。おもしろいからに決まってるだろ。わたしも、どうして読書をするんですか、と聞かれたとき、ただ一言、おもしろいからです、としか答えられなかった。

 でも、最近ふと考えていて、もっといろいろ答えようはあったなと思うことがあった。(もっといろいろ答えなくても、面接は通過できてしまったのだけれど。)読書について、語れることはたくさんある。むしろたくさんありすぎて、たぶんあのときは、結論の一言しか出せなかったのだ。それ以上にしゃべろうとしたら、その二言三言に何を持ってくるのか、瞬時に判断するのは至難のわざだ。とくに緊張した頭では。ダンブルドア教授みたいなユーモアとセンスを発揮するのは、シャイなわたしには(?)もっと難しい。

 最近読書をしていないというのは、先に書いたとおりなのだけれど、少し前に久しぶりにゆっくり読書をする時間を採れて、改めて、読書っていいなあ、と考えたことがあるので、今回はそのことについて、少し。

 今の世の中には、いろんなエンターテインメントがある。ゲームとか、動画とか、アニメとかドラマとか音楽とか……。読書というのは、そのうちの一つにしかすぎない。そう考えることもできるし、わたしも異論はない。でも、そう思うと同時に、読書というのは、中でも他のエンターテインメントと同列に扱うのもどうかなと思うような、特異さがあるように思う。読書のある世界と、読書のない世界を想像してみる。その二つは、はっきりと、黒と白に塗り分けられるくらいにちがうだろう。そう思えるほど、読書がもたらしてくれるものというのは大きい。

 読書をすれば、語彙力がアップするとか、知識がつくとか、賢くなるとか、いわゆるスキルアップ講座の宣伝に使われるような、そういう表面的な効果のことをいいたいわけではない。そう、この世界が、浅いところと、深いところと、二層に分かれているとして、読書をすることでやっと深い方へもぐっていける、そんな感じだ。読書のない世界は、浅いところだけの世界で、どんなにスキルアップしようと、深いところの存在にすら気がつくことなく、浅いところだけを見て、浅いところだけで、生きていくほかない。海の表面で顔を水につけずに、ぱちゃぱちゃとやっているようなものだ。

 もちろん、人を深いところへもぐらせてくれるのは、読書ばかりではなく、それは芸術だったり、瞑想だったりするのかもしれない。だけど、深いところへもぐるのに、読書というのは、一番簡単で、手っ取り早い方法だと思う。本は、ただ開いて読めばいい。あとは、ガイドに身を委ねるだけだ。(優れたガイドがついているかどうかは、本によるだろうけれど。)

 そう、別に、深いところへもぐらなくたって、人は十分に幸せに生きていける。おいしいものを食べたり、体を思い切り動かしたり、人と何かを分かち合ったり、この世界にはいろんな喜びや幸せがあって、浅いところだけでも、十分に満足に、幸せに生きていける。(おいしいものを食べたり、体を動かしたり、人と何かを分かち合ったりするそういう体験や喜びを浅いといいたいわけではない。またそれとは別の話。)読書は必至じゃない。最近は読書をできていなかったので、そのことを実感したし、むしろ、読書のしすぎもどうかと思ったくらいだ。頭でっかちな状態になってしまうと苦しいし、深いところにもぐってばかりでは疲れてしまう。
 しかし、読書の楽しみや、それが見せてくれる世界を知ってしまった今となっては、もう遅い。そう、深いところへもぐっていけるといったって、せいぜいがシュノーケリングするのと大差はないくらいにちがいないけれど、そこから、海面下に広がるその世界の深みをのぞき見てしまったなら……その存在を知ってしまったなら、もう、後戻りはできない。もちろん、わたしは、知れてよかったと思っている。
 今の世の中には、いろんなエンターテイメントにあふれていて、みんなそれぞれの楽しみに忙しいだろうから、人に読書を勧めるのはどうかなと最近は思ったりしていた。でも、やっぱり、読書っていい。もちろん無理強いするつもりはないけれど、機会があったときには、読書っていいよ、と、人には勧めてみようかな。

 ちなみに、最近読んだ本は、吉本ばななの「彼女について」。最近読んでいるのは、齋藤惇夫の「グリックの冒険」。懐かしい! と思う人もたくさんいるはず。ちびちび読み進めている。そして、時間がないからと手を出さずにいたポケモンのゲーム、ついに手を出してしまった……。時間がないは、いいわけだからね。

 最後まで読んでくれてありがとう! それでは、また。

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