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フラジールに惹かれる話

※あくまで個人の解釈に基づく文章です。

アーティストのぬゆりさんが大好きで、特に好きな曲はフラジール。本家様はどれほど聴いたかわからないし、沢山のカバーも耳にしてきました。カラオケでは必ず歌う曲。大好きです。

イラストの、右手で左手の手首を押さえる仕草。カバーであっても本家様に準拠して、同じポーズを取っているものが多いように思います。
それを見て勝手に、私は自傷行為を連想しています。

とても人気な曲ですから、解釈は沢山存在するでしょう。ひとつにしぼるのは様々な意味を孕んだこの曲に失礼だと思うので、歌詞への言及は最小限にとどめようと思っていましたが、随分長くなってしまいました。お付き合いください。


「くしゃくしゃになった診察券を持って」
すぐに精神科を想像してしまいました。「後ろめたい」診察といったら、風邪などではないでしょう。実体験を踏まえても、あまり大っぴらにしたいことではないと思いますから。あとに続いていく、ある種の虚無を生きるような歌詞も、やはり精神的に弱っている姿を連想させるような気がします。自分自身がゆらゆらと揺れているような不気味さがあり、不穏な雰囲気が漂っているように思えますね。

「できるなら痛くしないで」
とてもわがままな解釈ですが、自傷行為をやめたくてもやめられない、そんな気持ちが当てはめられると思いました。
自傷行為における、世界からの被害者意識というか……痛めつけているのは紛れもなく自分であるのに、あくまでそうさせられている、諸悪の根源は自分ではないという逃避を含むような、そんな心情を読み取りました。

サビ
否定を続けて、支離滅裂ともとれるような態度で相手に何かを求め続ける。わかってほしくて、でも何をわかってほしいかは自分でも曖昧で掴めない。でも、わかってほしい、あわよくば助けてほしい。要求の羅列からは切実な感情が胸に迫ってきます。

特に魅力的なのは、2番サビの
「許さないで ないで 最初だけは
悲しくもないはずにしたくて」
稀にいる理解しようと心を砕いてくれる優しい人に、仕方ないことだよね、してもいいよ、などと悲しげに告げられると、私は、怒ってくれたらいいのにと思います。まるで見放されたように思うのです。非常に身勝手な感情です。止められたら反抗するくせに怒ってほしいのです。許さないでほしい。そして、そんな幼稚な感情の動きで悲しくなっている自分を直視したくない。

「アラベスクには触れなかったんだ
火がついたように街が光った」
アラベスクとは一体何を指しているのでしょうか。触れなかったもの。求めても届かなかったもの。私は、死を想起しました。精神的に不安定でうつともいえる状態のとき、死は非常に魅力的に映ります。でも、踏み切ることは容易ではありません。弱っているとき、死を願うばかりで行動に移すのが難しいことも多いはず。あるいは支えられている、または支えるべき人がいて、死を選べないこともある。
その結果、また生きる営みを続けることになる。しかし本人にとって苦しいその「生きる」という選択によって、言い換えれば死に手が届かなかった、触れなかったことによって、「火がついたように街が光った」。仕方なくとも生きることを選んだ、または選ばざるを得なかった人を祝福するように光る街。きっと自分では察知できずとも、確かに世界には肯定されているのです、生きることが。そう信じたいものです。

「無頓着なあの子が傘を差したら
それで救われるくらい単純でしょ」
あの子、とまた抽象的な言葉です。無頓着なあの子。陳腐な解釈かもしれませんが、これは自分自身のことを指していると考えました。それも心の中にいる小さな自分、インナーチャイルドなどと呼ばれることもありますよね。そんな自分をあの子と呼び、あの子が傘を差す、つまり小さな自分を脅かすものから身を守る行為をする。今まで書いてきた流れに沿うなら、自分で自分を傷つけることをやめる。しかし直接的に脅かされなくなるのではなく「傘」を差すのですから、「傘」は手当てを指すと考えても自然かもしれません。傷をきちんと消毒して、絆創膏を貼る。そうすることで、自分をまるごと優しくいたわっているかのような錯覚を得るのです。普通に考えれば、自分で傷をつけているのですからおかしいですね。でも、「それで救われるくらい単純」なのです。

「眠らないで ないで 言葉にして
照らした光に目を細めて
笑わないで ないで 君に咲いた執着よ
僕を飲み込んでくれ」
ラスサビです。ここは、先程までと雰囲気が少し変わり、他者からの干渉に前向きな態度が伺えるように思います。「光」という言葉が使われていますね。照らされる、すなわち闇に沈んでいた自分をすくい上げてくれる他者が眩しく見えて、「執着」が起きてしまう。「君に咲いた執着」、非常に美しい表現だと思います。咲いたのですから、つぼみがあったということ、「君」に育った種を蒔いたのは「君」でしょう。だから、「僕を飲み込んでくれ」。君本位なのです。救ってくれる、と微かな希望を見出しても、上に述べてきたように、自分を傷つけ他者への信頼が上手く築けない状態なのだと思います。だからこそ一度見つけた「光」の絡む執着、つまるところ希望である「君」に自分の全てを投げつける。痛々しいまでに自暴自棄で幼稚な行為に見えても、絞り出した救助要請なのでしょう。僕を救ってくれ、という叫び。
「君」が人かどうか、実在する相手かどうかは関係ありません。とにかく曲の最後に、自分の中で起きていた逡巡から少しだけ逸れて、他者に希望を見た。それがとても価値のあることだと捉えています。暗いままでは終わらないのです。


以上が私なりの解釈です。曲名の通り触れたら壊れてしまいそうなほど繊細で透き通ったこの曲に私はずっと囚われています。

ここまで読んでくださってありがとうございました!コメントでご意見待ってます。

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