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セナの想い出

アイルトン・セナをご存じでしょうか。
ブラジルが生んだ天才F1レーサーでした。
F1フォーミュラワン、モータースポーツの最高峰の世界選手権、ヨーロッパを中心に世界各国で開催されている。
有名なのはモナコグランプリで、一般公道でレースを行う。
日本では、鈴鹿グランプリ、鈴鹿で走ることがレーサーの夢なのです。
わたしは、そもそもF1など何の興味もなかったのですが、先輩の外山さんが熱く語るのを聞いて、同じところをグルグル回るだけのレースのどこがおもしろいのか?
と批判的でした。
ただ、観もせずに批判するのも自分のポリシーに欠けると思い、観た上でちゃんと批判しようと思ったのですが、ミイラ取りがミイラに、ハマってしまいました。
そもそもF1というのは世界最高峰の自動車レース
燃焼率まで徹底的に研究されたガソリン、
タイヤも、シャーシも、尾翼も何もかも最先端、
途中で行われる給油のクルーも完ぺきなトレーニングを積んでコンマ1秒たりとも無駄な動きはしない。
雨の日は雨用タイヤを、ガソリンが減って軽くなるとスピードも増すので、オペレータも重要な役割を果たす。
当然ドライバーも200㌔超で走るわけですから、動体視力は動物並、相応のトレーニングを積んでいるわけです。
企業秘密のためエンジンはダミーエンジンも混ぜて数台送るという周到さ。
レースでは、スタートの駆け引きとか、コーナーでのせめぎ合いとか、計算された走り、状況予測する判断力とか走るためにいろんなことが準備され、配慮されていたのです。
知れば知るほどどこを切り取ってもF1は、面白かったのです。
当時ホンダはマクラーレンと組んでバリバリ参加していました。
当時のライバルはフランスのルノーだったり、
マクラーレン・ホンダが強かったが、ウィリアムズとの熾烈なトップ争いの時期でもありました。
イタリアのフェラーリは、金のかかるF1で走るために一般車を造っているのだと豪語していました。
まさにこの時期がセナ全盛期、シューマッハはまだ若造でした。
ブラジル人のアイルトン・セナ、
フランス人のアラン・プロストやイギリス人のナイジェル・マンセルとチャンピオン争いをしていました。
フェラーリに後藤久美子と付き合う前のジャン・アレジもいたなぁ。
中嶋悟が現役でアグリが新人で、右京が後にデビューした。
とまれ、F1にハマってしまったのです。
ホンダがウィリアムズに差を付けられ、なかなか勝てなくなった時期がありました。
レース後のセナのインタビューが衝撃的でした。
 「日本のみなさん、ホンダ、和光研究所のみなさん、
  今のこのマシンでは勝てません。
  もっと早いエンジンをわたしに一刻も早く
  送ってください。」
そんなようなことをテレビに向かって訴えたのです。
ビックリしました。
なんと埼玉県和光市(最先端のホンダの研究所)の工場の皆さん指名でのリクエスト、
これには痺れました。ホンダの工場の研究者たちもいきり立ったに違いありません。
セナというの人の無邪気さというか、身近さというか、人間性に触れたような気がしてますますファンになりました。
当時わたしは、ホンダの協力工場で部品発送のバイトをしていたので、F1でセナが優勝すると社内アナウンスが流れ、ところどころで拍手や歓声があがっていました。
1994年5月1日サンマリノグランプリにおいて、首位を走っていたアイルトンセナが突然コーナーで側壁のコンクリートバリアに激突、クルマは側面を大破、
TVで見ていた限りでは、まさか死ぬとは思いませんでしたが、この事故でアイルトンセナは、まさかまさかの帰らぬ人となってしまったのです。
信じられなかった。
まさかのセナの死の報道に凍りつきました。
その翌日からブラジルでは半旗を掲げ、3日間にわたり国を挙げて喪に服しました。
サンパウロで行われた国葬には300万人の人が出たそうです。
セナは、それほど愛された国民的ヒーローだったのです。
そしてブラジルという国の母性をここでも強く感じたのです。
セナはサンパウロのモルンビー墓地に葬られ、
その墓石には
「神の愛から、わたしを引き離すことはできない」
と刻まれている。
本田宗一郎の夢、F1チャンピオン
そしてアイルトンセナの想い出
わたしは、あの事故以来F1を観ていません。
わたしにとってF1ってセナだったんです。
みなさんもF1:フォーミュラワン観たことありますか?
今のF1はどうなってるのでしょうか?

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