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仏典から ①

 キサーゴータミーという女があった。
 彼女は、子を産んだが、その子はまもなく死んでしまった。悲しみのあまり気が狂い、その死骸を抱きながら町をさまよい、この子の病を治してくれる医者を探した。

 狂った女を、町の人たちは哀れげに見るだけであったが、ある人が「祇園精舎にいるゴータマさんのところへ行きなはれ」と薦めた。狂女はこのなきがらを抱きながら精舎に行った。

 ゴータマさんが言った、「この子の病を治すには、芥子けしの実が要る。町に出て、4、5粒もらってくるがよい。しかし、その芥子の実は、まだ一度も死者を出したことのない家のでなければならない」

 狂った女は、町に出て芥子の実を求めた。芥子の実は得やすかったけれど、死人の出ていない家はなかった。ついにあきらめて精舎に戻った。そして夢から覚めたように正気に戻り、子の骸を墓所に埋めた。

 ── この小物語は、ゴータマさんの適切な助言によって悲しみが癒えた女性の話だが、こうして一生懸命に芥子の実を得ようとしても、得られなかったことが、彼女を救ったように思う。

 死人の出ていない家、仮に新築だったとしても、その地その場所で息絶えた人がいただろう。
 自分の目で、確かめること。そして納得すること。何かに捕われ、狂ってしまったような場合に、キサーゴータミーの話は有効な手立てだろう。

 ことに、苦しみ・悲しみといった感情は、自分を袋小路に押しやる。まるで自分ひとりが、こんな目に遭ったかのような、孤独の極みの絶壁に立たされたような気になる。だが、実際はそうではない、と知るには、必死になって探し求めなければならなかっただろう。

 私の母は、17歳の長男を亡くした。生まれ代わりのように私が出てきたところで、あの悲しみは癒えたのだろうか。
 まったく、生命は分からない。せめて、なけなしの知恵と想像をつかって、わからないものに近づけるだけである。