「怒らない恋人」前編
浮気の方が、もっとずっとわかりやすい。私は、向かい側に座っている私の恋人、大輝の顔を睨み付けながら苛立ちを募らせた。なんとも間の抜けた表情だ。長めの前髪の隙間から何度か瞬きを繰り返す黒目がちの瞳。ちょっとだけ首を傾げる様子は、どこか子供じみている。彼は私よりも2歳年下だから、そう見えるのかもしれない。とは言っても、もう25歳だ。子供っぽくてかわいい!が通用する年齢はそろそろ過ぎようとしている。
大輝は、さっきから困ったように何度も後頭部を掻き毟っていた。襟足が中途半端に跳ねている。長めの前髪と跳ねた襟足は一見するとオシャレに見えるけど、ただ無造作に伸ばしっぱなしなだけ。私が「そろそろ髪切った方がいいよ」と注意すると、翌週には綺麗に整えられている。
大輝は視線を下げて真剣に考え込んでいた。彼が注文したコーヒーはとっくに冷めているだろう。今日は彼がどうしてもこのカフェに私を連れて行きたいと言ったから私は嬉しくて、とても楽しみにしていた。忙しくてなかなか休みが取れない彼との久し振りのデート。それなのに、今は険悪な雰囲気。何故なら、私がパンケーキを注文しようとした時に、大輝が得意気に言ったからだ。「莉奈もパンケーキが好きなんだよ」って。
「やっぱり俺は、由依が何を不満に思っているのかわからない」
大輝が真剣な眼差しで言った。ただのポーズではなく、彼は本気で私の怒りの原因を考えてくれているのだ。私がしつこく不満を口にしても大輝はちっとも怒らないで話を聞いてくれる。けれど、私がどれだけ説明しても、彼は私が何を怒っているのか理解できない。これまでもそうだったように。それでも、どうにかして私の気持ちを理解しようと努力してくれている。こんな時、私は彼のことを、誠実で優しい人だなぁと再認識して、苛立っているにも関わらず愛しさが募るのだ。私は彼の優しさを好きになったから。
「私の前で、莉奈さんの話をしないで」
私はもう一度、自分の要求を明確に伝えた。この要求は、もう何度も何度も彼に伝えてきたことだ。それなのに、彼はすぐ忘れてしまう。私が要求をつきつけた翌日には、彼の口から「莉奈」という名前が飛び出してくる。私は、それが煩わしくて仕方ない。莉奈。彼女こそ、私の怒りの原因。
「そっか、ごめん。でも、莉奈は俺の大切な友人だから、そんなに嫌わなくてもいいだろ」
そう。莉奈は、大輝の友人だ。ただそれだけ。元カノだとか、実は大輝に片想いしている女だとか、そういうややこしい関係ではない。ただの女友達。それなのに、私はその女友達の存在にずっと悩まされている。心が狭いなと自分でも思う。
付き合い始めた最初の頃は何とも思わなかった。私にも異性の友達くらいは居る。けれど、大輝と莉奈の関係は、私をいつも追い詰めるのだ。友人という関係であるが故に。
「嫌ってはないよ。ただ、私の前で莉奈さんの話をされると複雑な気持ちになるの。わかる?」
「いや……。わからない」
「恋人の女友達について話を聞くのは嫌なのよ」
そこまで言葉にしてから、自分はなんて嫌な女だろうと思った。恋人の友人を認められないなんて、束縛が強い嫌な女だ。もし、自分の男友達がそんな女と付き合っていたなら「別れた方がいいよ!」とアドバイスするだろう。そう考えて、私は一人で勝手に落ち込んだ。
「俺と莉奈はただの友達だよ。やましいことは何も無い」
「それはわかってる。でも、嫌なの」
大輝と莉奈の間に恋愛感情が無いのはわかっている。あまりに仲が良いので疑心暗鬼になり、彼のスマホをこっそり確認してしまったこともあるが、何も無かった。それに、莉奈には同い年の恋人が居て、その恋人はイケメンで優しくて、仕事も順調。結婚前提に彼と交際中。先月、式場も何ヶ所か見学に行った。だから、大輝とは本当にただの友達なのだ。
どうして会ったこともない莉奈について、私がここまで詳しく知っているのか。それは、大輝が私に話すからだ。聞いてもいないのに、莉奈についてぺらぺら話す。聞きたくもないのに「そう言えば、莉奈がね……」と、私の前で話し出す。私はそれを聞いているから、莉奈について必要以上に詳しくなる。顔も知らないのにここまで私の脳内を占めているなんて、いったい何者なんだ、莉奈。
「悲しいよ。莉奈は本当に良い奴なんだ。優しいし、話してて楽しいし、きっと由依も仲良くできると思うのに」
莉奈について話すだけならいい。大輝はいつも、莉奈を褒める。「莉奈ってすごいんだ」とか「莉奈は偉いよ」とか、何故か私の前で自慢気に話す。私は、まるで惚気を聞かされているかのような気分になる。恋人が、私の前で他の女について惚気けている。そうとしか思えない。だけど、「莉奈さんを褒めないで」なんて、そんなみっともない言葉は流石に言えない。結果、私はいつも苛立ち、大輝と喧嘩になる。「私の前で莉奈さんの話をしないで! 」と。
「俺は由依のことが大切だから、由依が嫌がることはしたくない。どうすればいいか考えるよ。いつも苦しめてごめん」
どうすればいいかって、大輝が私の前で莉奈の話をしなければいい。それだけだ。だけど、大輝は眉間に皺を寄せ、私に深く頭を下げてきた。いったい何が難しいのだろう。大輝は「どうすればいいか考える」と言っているけど、彼が何を考えようとしているのかよくわからない。だけど、もう疲れてきた。莉奈について議論するのは疲れる。
「わかった。私も言い過ぎた。大輝の友達を悪く言っちゃってごめんね」
「いや、いいんだ。それに、多少悪く言われても莉奈は気にしないさ。あいつ、本当にいい奴だから」
胃袋がずんっ……と重たくなる。だけど、大輝が笑っている様子がとても幸せそうで、もう文句を言う気力が無い。せっかく和やかになった雰囲気を再び壊すのは嫌だ。
大輝だって、友人について文句を言われるのはやっぱり良い気分がしないだろう。私も悪かった。私は莉奈についての不満を何度も大輝にぶちまけているけど、彼はいつも怒らないで真剣に受け止めてくれている。それは感謝すべきことだろう。大輝は私の話を真剣に聞いてくれる。
莉奈も好きだというパンケーキを注文するのはやめて、私は別のデザートを選ぶ。大輝はにこやかにコーヒーを飲んでいる。私の不満は解消されないままだけど、大輝の穏やかで優しい空気感が私は大好きだ。
+++
「私だったら気にならないけどなぁ」
休憩室で缶コーヒーを飲みながら、同僚の亜花里があっさりと言った。私は落胆しつつ、諦めてもいた。もし、自分が亜花里の立場だったとしても、同じことを言うと思う。彼氏の女友達の存在を許せないなんて心が狭いし、束縛しすぎ。もうちょっと余裕持ちなよ、とアドバイスするだろう。
私と亜花里はコールセンター勤務。同期入社だから仲が良い。職場の人間関係に悩むことが多い私にとって、プライベートの話もできる亜花里は貴重な存在だ。
「本当にただの女友達なんでしょ?だったら笑って聞き流せばいいよ」
「私もそう思うよ。思うんだけどね……」
「隠し事が無くていいじゃない」
亜花里の言う通りだ。隠し事ばかりする彼氏よりも、なんでも話してくれる彼氏の方が良いに決まっている。実際、大輝はとても誠実で優しい自慢の彼氏だ。私がこんなに憂鬱な気分を抱えているのに、大輝は嫉妬の感情とは無縁だ。
男女の友情を信じていないわけじゃない。異性間での友情は絶対に成立しない! と断言する人もいるけれど、私にも何人か男友達はいる。でも、彼氏ができると自然と男友達とは距離ができる。2人きりでは会わないし、もちろん、彼氏の前で男友達の話をしたりもしない。それが当然で、常識だと思っていた。
私の気持ちをわかってほしくて大輝の前でわざと男友達の話をしてみたことがあるけど、彼はちっとも怒らなかった。「由依が楽しそうでよかった」と、にこにこしている。心が広い。広すぎる。
大輝は莉奈のことを隠さない。隠し事が無さすぎる。莉奈とあれを話した、これを話した。莉奈とここに行った、あれをした。莉奈はとても良い子で、彼女とは長い付き合いで、何でも話せる仲で……。
やっぱり、思い返すだけで苛々してきた。少しは隠してほしい。自分の恋人が女友達とどこまで親密になっているかなんて、特に知りたくない。そんなに贅沢な望みだろうか?そもそも、大輝は私の前で莉奈の話をして、私にどんな反応を求めているのだろう。「莉奈さんは相変わらず素敵な人だね! 仲が良い友達同士で羨ましい! 」とでも言えばいいのか。それこそ惚気じゃないか。
「由依、なんだか学生みたいなことで悩んでるね」
「だよね……。ごめん」
亜花里が苦笑したので、私は恥ずかしくなった。言われてみれば、確かに学生みたいな悩みだ。彼氏が女友達のことばっかり話してて嫌だ!なんて、まるで中学生だ。仕事ではどんな理不尽なクレームも聞き流せるのに、彼氏の女友達の話を聞き流せないなんて馬鹿げてる。
私はもう27歳。大輝とは将来のことも真剣に考えたい。だからこそ、彼氏の女友達について悩んでいる場合ではないのだ。それなのに、莉奈の存在はずっと私のことを悩ませる。もっと他に考えることはあるはずなのに。
「いっそ、莉奈って人に会ってみれば?」
「は?」
「仲間に入れてもらえばいいのよ。彼氏の友達なんでしょ?」
なるほど、その発想はなかった。むしろ、どうして今まで思いつかなかったのだろう。
もしかしたら、大輝もそれを望んでいるのかもしれない。莉奈に対する拒絶反応で思考がすっかり麻痺していたが「私も莉奈さんに会ってみたいな」と言えば良かったのか。
それに、莉奈には結婚を約束している恋人がいるのだから、その彼も含めて4人で会えば、私と大輝の関係も進展するかもしれない。こうやって考えてみれば、莉奈と会うことは私にメリットしか無いような気がしてきた。急に元気が出てくる。
本当に、どうして私は莉奈のことをこんなにも疎ましく感じているのだろう。友人に莉奈の件を相談すると、全員が「嫉妬」「ヤキモチ」だと答える。実際、私も自分の感情を言葉で表すのなら、その単語が適切だとは思う。だけど、莉奈に関してだけは、何かが腑に落ちない。
+++
莉奈さんに会ってみたいな。私が思い切ってその話を切り出したのは、仕事終わりに大輝と2人で入ったレストラン。彼がメニューを選んでいる最中だった。お気に入りのイタリアンレストランでは、私が注文する料理はいつもラザニアに決まっているが、大輝は毎回、メニューと睨み合って最大限に悩み抜く。そんな時間も私にとっては愛しかった。その愛しい時間に、私はわざわざ莉奈の話題を提供している。
なんだかものすごく馬鹿なことをしているような気分になって「大輝が嫌ならいいんだけど」と否定の言葉を続けてみたが、食い気味に大輝の声が重なった。
「嫌なわけないだろ。きっと莉奈も喜ぶよ」
弾んだ声で答えた大輝は、なんと私の目の前で莉奈に連絡を取り始めてしまった。まだ料理の注文も済ませていないのに、スマホを夢中でタップしている。私が「お腹減っちゃった」と柔らかく急かすと、スマホと睨み合っていた大輝は、自分がレストランにいることをやっと思い出したようだった。既に彼の頭の中では私と莉奈が仲良く寄り添って会話しているのかもしれない。
「今度、飲み会をセッティングするから楽しみにしててくれ」
そう言ってメニュー選びに戻った大輝は、食事が終わるまでずっと嬉しそうだった。
それから、飲み会が開催されるまではあっという間だった。大輝は飲み会の幹事やまとめ役が得意で、本人もその役割を率先して引き受けるタイプ。私はいつも誘われるまま飲み会や女子会に参加だけするタイプだから、リーダーシップをとれる大輝のことは本当に尊敬する。
飲み会のメンバーは全部で4人。私と大輝。それから、莉奈と、莉奈の恋人の潤也だ。
飲み会当日、大輝と2人で訪れた居酒屋は外観も内装もとてもお洒落で、私は大輝のセンスの良さに改めて感心した。ほとんどの席は半個室で、騒がしくても落ち着いて話せる雰囲気。そんな良い雰囲気の店内で私の向かい側に座った莉奈は、まず最初にこう言った。
「初めまして、由依ちゃん!由依ちゃんの話は大輝からたくさん聞いてるよ。大輝がお世話になってます。大輝はだらしないとこあるから、色々と大変でしょ? 由依ちゃんに迷惑かけてない? 大丈夫?」
ああ、すごい。莉奈はやはり、私とは住んでいる惑星が違うのだ。自己主張かなり強めな莉奈の挨拶に曖昧な笑顔で頷きながら、私はくらくらしていた。室内の照明に反射する莉奈のミルクティー色の髪は、絶対に私には真似できない髪色。視線を絶対に逸らそうとしない人懐っこさに気圧される。
その全部に怯みながらも、莉奈と会ったことを後悔はしていなかった。むしろ、安堵すらしていた。私と莉奈は性格も見た目もあまりにも違う。きっと莉奈も大輝と同じで、嫉妬なんていう面倒な感情とは無縁の人なのだろう。だから、恋人の前でも平気で異性の話をしたり、2人きりで遊びに行ったりもしてしまう。細かいことで嫉妬して苛々する私とは、根本から価値観が違うのだ。初対面の相手には警戒心を剥き出しにしてしまい、打ち解けるのに時間がかかる私とは正反対。
「初めまして、潤也といいます」
莉奈の隣に座っている潤也は、私と大輝に向かってとても控え目な挨拶をした。潤也は整った顔立ちをしているけれど、就職試験の面接みたいな礼儀正しさのせいで堅苦しい雰囲気が拭えない。そんなに身構えないでよと言いたくなる。けれど、それは私も同じだっただろう。これは私の直感だけど、私と潤也はタイプが似ている。真面目と言えば長所だが、初対面の挨拶では堅苦しさが全面に押し出されるので、相手が身構えてしまうのだ。ひょっとして、大輝と莉奈は異性の好みまで似ているのだろうか。
大輝は潤也に向かって何か挨拶を返していたが、うまく聞き取れなかった。潤也が明らかに緊張した面持ちで俯く。
「潤也くんったら、ちょっと緊張してるの。ごめんね」
莉奈がすかさずフォローして、潤也がやっと笑った。そのぎこちない笑顔を見て、私も自分の顔が緊張で凍りついていたことに気がつく。潤也に向かって「私も緊張してるからお揃い!」と言ってみようかなと思ったけど、彼女がいる男にぐいぐい距離を詰める無神経な女という印象を持たれるのが恐くなって止めた。
4人でぎこちない乾杯を済ませたあとは、しばらく莉奈と大輝が中心に会話していた。私は大輝の隣でぼんやり相槌を打っているだけで、このまま赤べこみたいにペコペコと頷き続けたまま飲み会が終わるんじゃないかなと懸念していたが、莉奈が私にもこまめに話しかけ、会話から置いてきぼりにならないように配慮してくれた。
私がついていけない話題になると「ほらぁ、由依ちゃんが困ってるよ!」と、大輝を冗談混じりに叱る。話に加われない私にとってはありがたいことだったけれど、自分の彼氏が他の女に叱られているのを見るのは複雑な気分だ。だけど、莉奈は大輝と同じく嫉妬の感情に疎い。そう自分に言い聞かせると、不思議と落ち着いていられた。
氷が溶けて味が薄くなっているカシスオレンジをちびちびと飲む。もともとお酒があまり好きじゃない私はカシスオレンジがどんな酒なのかも知らない。カシスってなんだろうと疑問を抱いても調べようとしないから、きっと永遠にわからないままだ。
「由依ちゃんはとっても素直そうだね」
私の顔をじっと見つめた莉奈が、突然、褒めているのか馬鹿にしているのかわからない評価を下した。素直?……って、どういう意味だろう。というか、初対面の莉奈に私の内面なんてわかるんだろうか。私が素直かどうかなんて、私自身にもわからないのに。
莉奈はにこにこと満足そうに微笑んで私を見つめている。自分自身で下した評価をちっとも疑っていない様子だ。……というか、莉奈はきっと、何も考えてないのだ。深く考えずに私の性格をテキトーに評価している。私は相手のことをよく知らないうちから「素直そう」なんて無責任な評価はできない。相手にどう思われるか常に考えてしまうから。
「素直なんかじゃないです。彼氏が女友達と仲良くしてると嫉妬しちゃうタイプなので、めんどくさい女ですよ」
莉奈の無責任さと奔放さに腹が立ち、同時に羨ましさを感じてしまった私は、きつい口調で反論した。そして、たった数秒後に自分の発言を後悔し始める。どうしよう。これはまさしく痛烈な嫌味じゃないか。空気が悪くなるかもしれない。というか、もう悪くなってるかも……
「わかるー! 私も!」
私が恐怖で表情を凍りつかせたのと、莉奈が歓声に近い声を上げたのは同時だった。莉奈は私に向かって大袈裟に「わかる! 」を連発し、何度も頷く。そして、早口で続けた。
「私もけっこう嫉妬深いんだよね。それなのに潤也くんったら、わかってて私の前で女友達の話をするのよ。どうして男の人って、こんなに鈍いんだろうね? 私は何度も怒ってるのに、潤也くんはちっとも学習しないんだよ」
莉奈が刺々しい口調で潤也への不満をぶちまけるのを、私は信じられない思いで聞いていた。軽い混乱状態に陥る。今の莉奈の言葉は、まさに私が大輝に対して感じている不満そのものだ。莉奈は「恋人に異性の親友がいる」という状況の複雑さや、嫉妬の感情を完璧に理解している。どういうことだろう。
そんなの、考えなくてもわかる。莉奈は、私の悩みや不満を理解していながら、私の気持ちなんか無視して大輝とあんなに仲良くしているのだ。大輝には私という彼女が居ると知りながら、そんなことはお構いなしに、大輝を平気で呼び出したり、ご飯に誘ったりしている。
莉奈の隣に座っている潤也に視線を向けてみると、潤也は気まずそうに笑った。そして、すぐに私から目線を逸らす。私と潤也の一瞬の視線の交わりに莉奈が気が付いた様子は無い。
「良かったー。由依ちゃんとは良い友達になれそう!」
莉奈はひたすら喜びを表現しているけれど、私は確信していた。この女は、嫉妬の感情に鈍いだけの大輝とは違う。相手の感情をしっかり把握した上で、それを都合よく無視することができる女だ。
助けを求めるつもりで大輝を見ると、彼は何故か、うっとりするような目つきで私と莉奈を見比べた。
「莉奈と気が合ったみたいで嬉しいよ。俺の大切な人同士が仲良くなってくれるなんて夢みたいだ」
大輝の発言がまったく的外れだったので、私はこの場に味方がいないことを思い知った。
そういえば、この飲み会の目的ってなんだっけ? 私はどうしてこんな地獄みたいな場所にいるんだ?
確かに私は、莉奈に会いたいと言った。大輝と莉奈の関係を認められないのは、私が莉奈に会ったことが無いからだ。私の知らない世界で大輝が盛り上がっているからモヤモヤするんだ。だから、私も莉奈に会って仲間に入れてもらえば、このモヤモヤした気持ちは解決するかもしれないと思った。でも、甘かったかもしれない。未だかつてないほどのモヤモヤが私の中に溜まっている。
「由依ちゃん。今度は2人でランチにでも行こうよ」
莉奈の誘いに私が答えるより先に「おお! いいね! 」と、何故か大輝が返事をする。大輝の嬉しそうな横顔を目にすると断れるわけがなくて、私は曖昧な笑顔で頷く。
きれいに染まっている莉奈のミルクティー色の髪が、照明にきらきら反射して輝いていた。
+++
莉菜の「ランチにでも行こう」発言は社交辞令だと思っていたし、そうあってくれと願ってもいた。だけど、莉奈は飲み会が終わった数日後、実際に私をランチに誘ってきた。正直言って断りたかったけれど、莉奈が私をランチに誘ったことは大輝にもばっちり伝わっていて、まだ返事もしていないのに「莉奈とランチに行くんだって? 」と、嬉しそうに笑っている大輝を見ていると私の心はいとも簡単に折れてしまい、断れるはずもなかった。
そんなわけで私は、貴重な休日に何度も莉菜のランチに付き合わされる羽目になっている。本当は休みの日は大輝と会いたい。だけど、土日が休みの私と、土日祝日も関係なしに働いている大輝とでは休みがなかなか合わないのだ。莉奈は病院の受付事務をしていて、日曜は休みが簡単に取れるらしい。私にとっては残念なことに。
私だって、「会ってみたら莉奈は意外といい子だったから安心した! 仲良くできそう!」っていうオチを望んでいたし、そっちの方が良かった。というか、その結果以外は受け入れる覚悟ができていなくて、莉奈が嫌な女だった場合の対処法をまったく考えていなかった。嫌な女かもしれないと予想はしたものの、実際に会ってみたら想像を越えてくる嫌な女だったというオチが待ち受けているなんて思わないじゃないか。
本日のオススメとしてメニューに載っている「季節の彩りフェットチーネ」を注文したけれど、フェットチーネってなんだろう? たまに聞く名称だけれど調べたことはない。パスタなのか?調べてみようと思いつつ、食べ終わる頃にはいつも忘れているから、私はフェットチーネの正体がずっとわからない。対面に座っている莉奈はシンプルにナポリタンを注文していたから、私はオシャレぶってフェットチーネなんか注文したことを後悔した。私もナポリタンが良かったな。
「このカフェ、潤也くんとの初デートの場所なんだよ」
注文を取りにきた店員が去ったあとで莉奈が自慢げに言った。喫茶店とカフェの中間みたいな内装の店内は、オシャレだけれどこだわり強そう。とても気難しい店長が経営しているのかも。フェットチーネの正体すら知らない無知な私が来店していることに呆れて、店長やスタッフが裏で舌打ちしてたらどうしよう。
私がそんな被害妄想に取り憑かれている間にも、莉奈の話は止まらない。
「潤也くんが私のために頑張って初デートの場所を選んでくれたの。でも、フェットチーネってなんだろう?ってこっそり呟いてたの聞いちゃった。あの時の潤也くん、今思い出してもすごくかわいい! 」
意外なことに、ランチの席で莉奈が私に話す内容は、ほとんどが潤也の惚気だ。潤也がいかに完璧な理想の男か、どれだけ潤也に大切にされているか、莉奈は私に延々と話す。今日も例外ではないらしい。私は莉奈の話を邪魔しない程度に相槌を打つ。「そうなんだ、素敵だね」。
「由依ちゃんも惚気けていいのに」
莉奈は私に向かって、何度もそう言った。おそらく莉奈は、私と一緒に惚気大会をしたいのだ。そういうことであれば、私もそれなりに楽しもうと気持ちを切り替えて惚気ようとしたこともある。「大輝はとても優しい」と、毒にも薬にもならない惚気を口にしてみた。その時の莉奈の相槌はこうだ。
「わかる! 大輝ってそういうとこがいいよね」
毒にも薬にもならない惚気だったのに、莉奈の相槌は猛毒だったので、切り替えたばかりの私の気持ちはあっさりへし折られた。私がこれから口にしようとしている惚気のほとんどを、莉奈は既に把握しているのかもしれない。私が大輝の良いところをどれだけ口にしても、莉奈もきっと知っている。「わかるー! 」と言われてしまう。そんな惨めな思いをする羽目になるなら、私は聞き役に徹したい。
カフェ店員というよりはギャルソンと呼んだ方が相応しそうな男性がナポリタンを運んできて、莉奈の前に置いた。フェットチーネはまだ来ない。
「私は潤也くんに不満なんて無いの。でも、彼は私の交友範囲が広いことが不満みたい。私が男友達と遊んでると、すぐ嫉妬するんだよね」
せっかく運ばれてきたナポリタンは放置したままで、莉奈は続けた。不満混じりの惚気も莉奈の得意技だ。
「でも、潤也さんが女友達と遊んでたら、莉奈さんも嫌でしょ?」
「絶対にやだ! 潤也くんが他の女と一緒にいるところなんて想像もしたくない!」
莉奈の思考回路はどうなっているんだろう。莉奈と出会うまでは「自分がされて嫌なことは人にもしない」というのが私の中の常識だった。私の周りの友人たちも同じような常識を持った人しか存在しなかった。だけど、莉奈にその常識は通用しない。莉奈と話していると、私が今まで常識だと信じていたものが次々に崩壊していく。莉奈を相手に私の常識を説いたところで、無駄な気がした。
私のフェットチーネが運ばれてきた。アスパラやパプリカなど、色鮮やかな野菜が平麺の上に添えられえいる。果たしてフェットチーネとは。
「潤也くんは浮気なんて絶対にしないよ。すごく一途だから」
私は浮気の話じゃなくて女友達の話をしていたんだけど、いつの間にか話題が逸れている。会話の主導権はいつも莉奈だから、もう気にもならない。
こんなにも話が噛み合わない女とランチを共にしている理由は、ただ1つ。莉奈を大輝と会わせたくないからだ。私を抜きにして大輝と莉奈が会うことに比べれば、莉奈と2人きりのランチなんて辛くも何ともない。私が莉奈と定期的にランチをすることによって、大輝と莉奈が会う頻度を少しでも減らせるのなら、莉奈の惚気なんていくらでも耐えられる。
「いただきまーす」
莉奈がやっと惚気を止めて食事を始めたので、私もフェットチーネに向き合う。
莉奈は食べ方がきれいだ。ソースがたっぷりかかっているナポリタンを食べても、ソースがテーブルに飛び散ったりしない。私は平麺のパスタをどうやって食べるのがベストなのか悩んで、フォークを何度も皿の上でくるくるしてみる。
莉奈と会う度に、莉奈の恋人である潤也を気の毒に思う。飲み会で一度会ったきりだが、潤也は明らかに莉奈と違うタイプだ。たぶん、飲み会の幹事なんて絶対に避けたい、私と同じようなタイプ。それなら、莉奈と付き合うのは大変そう。
私と潤也は同じような悩みを抱えた同志なんじゃないかと勝手に解釈している。莉奈が大輝と仲良く話している時に潤也が見せた、あの困った笑顔。莉奈と潤也の距離感。あれはまさに、私と大輝の距離感と同じ。
密かに目論んでいることがある。莉奈と大輝。私と潤也。それぞれが友人になればバランスが取れるかもしれない。大輝が莉奈と仲良くし続けるなら、私も潤也と仲良くしてもいいはずだ。大輝には言えないような惚気や愚痴を潤也に溢してもいいはず。
潤也に異性としての魅力は感じない。私をそのまま男にしたような人と付き合いたいなんて思わない。だからこそ、私と潤也は異性の友人になれそう。飲み会の時にメッセージアプリで4人のグループを作ったから、その気になれば潤也に連絡は取れる。でも、大輝はともかく、莉奈が嫌な顔をするかもしれない。莉奈と潤也が揉めるかもしれない。それを恐れて実行に移せないでいる。
「由依ちゃんの料理も美味しそうだね」
私のフェットチーネを見つめながらそう言った莉奈の言葉を「一口ちょうだい」と同義だと解釈した私は「食べる? 」と聞いてみた。けれど、莉奈は笑顔で「いらない」と返してくる。莉奈は相手の気持ちを慮るなんて繊細な行為とは無縁だ。だからこそ、大輝の彼女である私の立場を完全に無視して大輝を頻繁に呼び出したり、2人きりで出かけたりできる。私にはできない。たとえ嫌いな相手だったとしても、他者の気持ちを完全に無視して自分勝手に振る舞うなんて難しい。それを簡単にやってのける莉奈は、けっこうすごい人なのかも。
私が潤也と仲良くしようとしても、どうやって声をかければいいのかさっぱりわからない。彼女がいる男性に気軽に声をかけるなんてできない。誤解されると困るから。
そして、潤也が私と同じタイプの人間だとしたら、間違いなく潤也は私に接触なんかしてこない。私との仲を誤解されて莉奈と揉めるのが嫌だから。結果、私と潤也の間にはどうやっても友情なんて成立しないから、私の目論見はただの妄想だ。同じ悩みを持つ者同士が友人になれないなんて理不尽すぎるけれど。
あれこれ考えるうちに、フェットチーネとはいったい何か、なんてことはとっくに忘れている。
+++
大輝と莉奈を引き離したい私の思惑とは裏腹に、大輝はますます遠慮が無くなっていた。飲み会で4人が対面したことをきっかけに、私の前で莉奈の話をしてもオッケーだと勝手に解釈してしまったらしい。おかげで、私と大輝のメッセージのやり取りには、莉奈の名前がずらりと並んでいる。試しにメッセージ内の検索機能を使って莉奈の名前を数えてみたら、私の名前よりも莉奈の名前の方が多くて悲しくなるだけだった。何やってんだ、私は。
まあでも、莉奈は以前ほど正体不明の謎の存在ではない。そのことを考えれば、少しは気が楽だった。少しずつだけど、共通の話題もできつつある。
だけど、事件は起きてしまった。事件と呼ぶには些細なことかもしれない。だけど、私にとって大事件だった。
その日は、私と大輝が付き合い始めて1年になる記念日だった。もともと私は記念日を気にするようなタイプではない。誕生日やクリスマスならともかく、「付き合い始めた記念日」を祝うなんて学生のやることだと思っていたし、いちいち記念日を作るのは疲れる。だけど、大輝が言ったのだ。
「来月で付き合い始めて1年になるから、当日は盛大にお祝いするよ。楽しみにしてて」
……と。
大輝がそんなことを言わなければ、私も記念日なんて意識しなかった。「私は記念日とか気にしないタイプだから」と返したけれど、大輝が付き合い始めた日を覚えてくれていたことは純粋に嬉しかったし、彼がその気なら、たまには祝ってみるのもいいかなと思ったのだ。
私の中で期待値が膨らんでしまったのもいけなかったのだろう。記念日当日、私は仕事だったけど、職場を出てすぐにスマホを確認した。でも、大輝からのメッセージも着信も無い。
たぶん、大輝も仕事が長引いているのだろう。そうに決まっている。メッセージも着信も無かった時点で嫌な予感はしていたのだが、その嫌な予感から目を逸らしたくて、私は自分に言い聞かせていた。大輝は仕事が忙しいだけだと。
大輝からは「盛大にお祝いする」とまで言われていたのだから、私の方から連絡すると催促しているように思われる気がして、メッセージは送れなかった。
家に帰ってからも、常に視界に入る場所にスマホを置いてずっと待っていたけれど、大輝からの連絡は無いまま、夜中の0時を過ぎて日付が変わった。
夕飯も食べずお風呂にも入らずに待っていた私は記念日が終わってしまったことに絶望し、そして、絶望している自分に絶望した。「付き合い始めた記念日」をこんなに楽しみにしてしまった自分自身がショックだった。
夕飯も食べていないからお腹が減っているはずなのに、もしかしたら、まだ大輝から連絡があるんじゃないかと僅かな希望を抱いていて、スマホの液晶画面と睨み合う。夕飯の準備をしたりお風呂に入っている僅かな間に大輝から連絡があったらどうしよう。その不安は希望的観測が大半を占めているのだと気が付くのにそれほど時間はかからなかったから、結局、私は多大なる敗北感と虚しさに包まれながら大輝にメッセージを送った。
『仕事忙しかったの?』
私にも連絡できないくらい大輝は忙しいのだから、きっと既読にはならないだろう。既読にならないでくれと願った。それなのに、ほとんど秒で既読になって、返事が来た。
『今日は仕事が早く終わったから、さっきまで莉奈と会ってた。潤也くんの誕生日プレゼントを選んでたんだ』
後頭部に向かって真っ直ぐ隕石が落下したら、きっとこんな感じだろう。それくらいの衝撃を受けた。大輝はやっぱり記念日の約束を忘れていた。それだけならまだいい。よりによって莉奈と会っていた。そして、莉奈の恋人、潤也の誕生日プレゼントを選んでいた。よそのカップルの記念日について考えていた。どういうこと。莉奈。いったいどこまで邪魔をするんだ。
たまらずに音声通話を発信する。大輝はすぐに出てくれて「どうしたんだ? 」と心配そうな声で答えた。その声に条件反射でホッとしたものの、何を話せばいいのかわからない。「記念日のお祝いはどうなったの!? 」なんて、子供っぽく詰め寄ったら呆れられそうだ。
「ちょっと声が聞きたくて……」
やっとそれだけを口にした途端、何故か涙が出そうになった。私は、こんなにも大輝に会いたかったのだ。記念日なんて気にしないタイプだったはずなのに。しかも、誕生日とかクリスマスとかではなく、「付き合い始めた記念日」だ。
私の様子がおかしいことに、大輝はすぐに気が付いたようだった。スマホの向こう側から心配そうな声が聞こえてくる。
「由依、元気ないよな? 大丈夫か? こんな時間に突然連絡してくるのも珍しいし……。ひょっとして、何か話したいことでもあるのか?」
あんたが記念日を忘れていたせいで悲しいんだよ! そうやって怒鳴ることができたらどんなに楽だろう。だけど、記念日の件で感情的に大輝を責め立てても、きっと私が惨めになるだけだ。
「何でもないよ。本当に声が聞きたかっただけ」
「正直に話してくれないか。由依に嫌な思いはさせたくないし、困らせたくない。嫌なことがあるなら、解決しよう」
大輝はやっぱり優しい。夜中に突然電話しても、ちっとも迷惑そうな素振りも見せず、怒らずに対応してくれる。それどころか、私の様子が普段と違うことに気が付いて心配してくれる。その優しさと気遣いに、私の気持ちも落ち着いていった。大輝がこんなにも優しい対応をしてくれているのに、私は記念日を忘れられたくらいで感情的になって彼を責めようとしている。
「あのね、大輝。今日……じゃなくて、昨日が何の日だったか覚えてる? 」
できるだけ穏やかな口調で、何気ない問いかけに聞こえますようにと祈りながら口にした。けれど、大輝は「あっ。ごめん……」と、とても悲しそうな声を出す。「忘れてたよ、本当にごめん」と。
私のためにこんなにも大輝が悲しんでくれてい
私のためにこんなにも大輝が悲しんでくれていると思うと、もう私の怒りや悲しみなんて消滅したも同然だった。……なのに。
「……でも、由依は、記念日は気にしないタイプって言ってたじゃないか」
謝罪のあとに「でも」という単語を続けられると、一瞬にして誠意を感じられなくなるのは不思議だ。どんなに真剣な謝罪でも、手品の鳩のごとく瞬時に消えてしまう。その結果、一旦は落ち着いていた私の怒りはあっさり復活した。
確かに、私は言った。「記念日とか気にしないタイプだから」と言ってしまった。だけど、他ならぬ大輝自身が「盛大にお祝いする」なんてハードルを上げまくってくれたせいで、私は記念日に過度な期待をしたのだ。結果、こんなにも怒っているし、悲しんでいる。
どうして自分から言い出したことを忘れているのか。守れないなら約束なんかしないでよ。今日くらいは一緒にいてほしかった。
「今度、由依が欲しいものを一緒に買いに行こう」
まだ伝える言葉を整理できていないうちに大輝がそう言ったので、私は慌てた。
記念日に高価なプレゼントを買ってほしいと強請る強欲な女にはなりたくない。今のところ、私が伝えたいことは微塵も伝わっていない。
「違うの。プレゼントが欲しかったとか、そういうわけじゃなくて」
考えろ。考えろ、私。どうすれば私の気持ちは大輝に伝わるのか。めんどくさい女にならず、なおかつ、自分のモヤモヤを晴らせる一言を。
「たまには私のことを優先してほしいだけなの」
これだ。私が言いたかったことは、これなんだ。やっと言ってやった。「莉奈さんじゃなくて」という言葉は、かろうじて飲み込んだけど。
「え? 俺の中では、いつでも由依が最優先だよ」
私がやっとのことで自分の気持ちを口にしたのに、大輝はあっさり打ち消してきた。
私が最優先? どういうこと? まさか大輝は、私よりも莉奈を優先している自覚が無いのか。
「俺は由依が一番大切だし、いつも由依のことを考えてる。仕事してる時でも、友達と遊んでる時でも、莉奈と一緒にいる時でも、俺の中には由依の存在が居るんだ」
大輝の言葉を聞けば聞くほど目眩がしてきた。
だいたい、この会話の流れで大輝が莉奈の名前を出してくるのもおかしい。大輝は意識していないかもしれないが、莉奈だけ特別扱いじゃないか。
「由依は俺にとって、誰よりも特別な存在だ。いつも一緒にいてくれてありがとうな」
え? 何言ってるの? 一緒にいないよね?
混乱しながらも、なんとか自分なりに大輝の言葉を解釈する。これはつまり、私と大輝では、「優先する」の定義がまったく違うということだ。私は大輝と物理的に距離を縮めたい。休みの日には会いたいし、記念日には隣にいてほしい。でも、大輝は心理的な距離で満足している。たとえ休日に会えなくても、大事な記念日を忘れてすっぽかしても、大輝の心の中を占めている割合が多ければ、それが大輝の最優先。
信じられない。まさかこんなにも2人の考え方がすれ違っているなんて。
私のモヤモヤは何も解決しないまま会話が終了しそうな気配がスマホ越しに伝わってきたので、慌てて言葉を続ける。
「ちょっと待ってよ。これからも2人が一緒にいるために、お互いの不満を解決することは大切だと思うの」
「何言ってるんだ。俺は、由依に対してなんの不満もないよ。由依は俺にとって、完璧な理想の恋人だ」
大輝にそう言われた途端、言葉を続けられなくなる。
完璧な理想の恋人。喜んでいい台詞の筈だ。それなのに、この複雑な気分はなんだろう。全肯定されている台詞なのに。
「そっか……。ありがとう、大輝」
「うん。大好きだよ、由依」
少女漫画みたいな会話。たぶん、子供の頃の無邪気な少女だった私が憧れ続けていた夢の会話だ。君は僕の理想だよ、大好きだよ。でも、ちっとも嬉しくない。ただ、モヤモヤした気分が溜まっていくだけ。どうしてだろう。
+++
私と大輝が初めて出会ったのは、恋活のパーティーだ。婚活ってほど重たいわけでもないけど、恋愛相手を探しているから、それなりにみんなが真剣。男性と女性が10人ずつ集まって、立食パーティー形式で行われた。
だけど、私は最初から大輝のことを狙ってたわけではない。素敵な人がいるな、とは思っていた。誰とでも気さくに話して、聞き上手。見た目も平均以上。
でも、大輝はたくさんの人に囲まれていたし、人気がありそうだったから、アプローチする自信が無かった。きっと彼は一番人気だろうから、私なんかは相手にされない。
そう思っていたから、パーティー終了後、彼が誰ともカップル成立していないことは意外だったし、驚いた。
チャンスはここしか無いと思い、私の方から声をかけて連絡先を交換し、何度か食事に行くうちに付き合うようになったのだ。付き合い始めたばかりの頃はとにかく幸せで、莉奈の存在を脅威に感じることも無かった。
いったいいつから? 私はいつから莉奈に翻弄されているんだろうか。
そういえば、初めて大輝と食事をした日にも、私は既に莉奈の話を大輝から聞かされていた気がする。まだ「莉奈」という名前こそ出なかったものの、大輝は会話の中で「おもしろい友人がいて……」とか「これは友人が言ってて……」とか、さり気なく莉奈の情報を挟み込んでいたのだ。
忌まわしい記念日の記憶をなんとか振り払いたくて、大輝との懐かしい思い出に浸って現実逃避したのに、出会った当初から莉奈の存在が匂わされていたことに気付いてしまい、ますます落ち込んだ。
仕事に没頭していればモヤモヤはそのうち晴れると思ったのに、駄目だ。恋愛関係のモヤモヤした気持ちを仕事中にまで引きずってしまうなんて異常事態。なんとか気持ちを切り替えたい。
休憩時間にスマホを弄ってみるけれど大輝からのメッセージは届いていなくて、その代わり、意外な人物からスマホにメッセージが届いていたので驚いた。なんと、莉奈の彼氏である潤也からだ。
『突然の連絡失礼します。最近、莉奈と会いましたか?』
律儀な、潤也らしいメッセージだ。と言っても、私は潤也のことをほとんど知らないから、私が勝手にイメージしている潤也だ。とても真面目で、あくまで彼女以外の女性には一定の距離を保って接する人。
『会ってません。どうかしたんですか?』
少し迷って、それだけを送った。実際、莉奈とのランチも途絶えがちだった。潤也の意図はわからないが、私が莉奈について何か情報提供できるとは思えない。
送ったメッセージはすぐに既読になった。そして、
『大輝さんの方は、莉奈と会ってますかね?』
……と、送られてきた。
なるほど。潤也は最初からこれを聞きたかったのか。
このメッセージを送るだけでも、潤也にとってはかなりの勇気が必要だっただろう。ほとんど接点がない私にこんなメッセージを送ってくるなんて、彼もかなり悩んでいるのだ。
あくまで推測だけど、潤也は莉奈とあまり会えていないのだろう。もしかしたら、私と同じように記念日か何かをすっぽかされた可能性もある。だから、大輝と莉奈が会っているのかどうか気になった。恋人とは会わないくせに、異性の友人とは会っているのかどうか。
莉奈と大輝は今も頻繁に会っている。それどころか、潤也の誕生日プレゼントを2人で選んでいた。でも……
『わかりません、すみません』
すぐにバレるとはわかっていたが、私は正直に言えなかった。この期に及んで、私はまだ揉め事の気配を避けようとしている。潤也と莉奈にすら、喧嘩をしてほしくない。
ふと、潤也について惚気けていた莉奈の言葉を思い出した。
〈私は潤也くんに不満なんて無いの。でも、彼は私の交友範囲が広いことが不満みたい。私が男友達と遊んでると、すぐ嫉妬するんだよね〉
莉奈は潤也の前で、大輝の話をあまりしないのかもしれない。だとしたら、莉奈は一応、自分の彼氏に対しては気遣いができるのだ。
でも、その気遣いは的外れだと思う。潤也が嫌がっているなら大輝と会わなければいいだけの話なのに、莉奈はそれができない。だいたい、彼氏の誕生日プレゼントを別の男と一緒に選ぶなんてことも、私には理解不能だ。無神経すぎる。
莉奈だけじゃない。大輝もそうだ。私が嫌がっているのに、莉奈と会うのをやめない。だから、潤也も私もこんなに悩んでいる。
『莉奈さんは、潤也さんのことを完璧な理想の恋人だと言ってましたよ』
フォローになっているかどうかは不明だが、言い訳のように追加でメッセージを送った。
莉奈が潤也のことを褒めちぎっていたのは事実だ。莉奈は潤也にべた惚れで、理想の恋人だと本気で思っている。
『それ、褒め言葉じゃないですよ』
私が薄々感じていたことを、潤也はあっさり言葉にした。というか、ついに言ってしまったって感じだ。スマホの液晶画面越しなのに、潤也の言葉からは諦めの気配が漂っている。
完璧な理想の恋人。
そんなことを言われたら「理想の恋人」を演じ続けなければならない。私は不満だらけ。大輝には何も不満が無い。その理不尽な状態を維持しなければならないのだ。
あれ? これって潤也と莉奈の問題じゃなかった? 私と大輝のことじゃないよね?
……ああもう。どっちなのかわからない。
やっぱり、私と潤也は同じ悩みを抱えた同志だったんだ。同志が手を取り合うには、もう手遅れみたいだけど。
+++
莉奈が潤也にフラれたらしい。その報告を聞いたのは、大輝の部屋でだった。
その日は、記念日を忘れていたお詫びに大輝が手料理を振る舞ってくれると言ったので、私は仕事が終わってから真っすぐ大輝が住むアパートに向かった。「記念日のことは気にしなくていいから」と何度も大輝に言ったのだが、私はそれなりに楽しみにしていた。というか、かなり楽しみだった。大輝の手料理を食べるなんて初めてだ。
でも、私を部屋に迎え入れた大輝の第一声はこうだった。
「莉奈が大変なんだ」
怒りを通り越して、私の頭は妙に冷え切っていた。ああはい、また莉奈ですか。そうですよね。期待した時はいつもそう。私の期待は莉奈に打ち砕かれる。
私の冷え冷えとした感情にもまったく気が付かず、大輝は聞いてもいないのに話を続ける。
「潤也くんに別れを切り出されたらしいんだ」
へー。そうなんだ。ついに莉奈はフラれたのか。私は驚かなかったが、何故か大輝がとてもショックを受けていた。おそらく莉奈からのメッセージが表示されているであろうスマホの液晶画面を厳しい表情で睨みつけている。
キッチンには、エコバッグに入ったまま放置された食材。手料理を振る舞ってくれると言っていたけど、どうやら計画は頓挫しているようだ。もう大輝の頭の中には莉奈しかいない。
俺の頭の中には常に由依がいると大輝は言っていたのに、私と一緒にいる時の彼は、莉奈のことしか考えていないように見える。莉奈と一緒にいる時にも私のことばかり考えているらしいが、それって逆じゃない? どうして目の前にいる人のことを考えないの?
「俺、莉奈のところに行かなきゃ」
「は? なんて?」
「莉奈は今から潤也くんを説得しに行くらしい。俺も一緒に行く」
使命感に燃える眼差しで大輝は宣言したが、私には頓珍漢な提案にしか聞こえなかった。
たぶん、莉奈がフラれた原因のひとつは大輝だと思うんだけど。大輝が行っても火に油を注ぎまくって炎上するだけだ。いや、それよりも……、
「なんで大輝が、そんなことしなきゃいけないのよ」
「だって、頼まれたから」
頼まれたから? タノマレタカラ。
今、何か答えが出そうな気がした。私ではなく莉奈を大事にしているように見える大輝の行動。その答えが見えたような気がしたのだ。
「ちょっと待ってよ。そもそも、大輝が行ったからって解決するの? 莉奈さんと潤也さんの問題でしょ?」
「わかんないけど、莉奈が来てくれって言ってるし。由依だって、莉奈と潤也くんが別れるなんて嫌だろ? 」
ぶっちゃけ、よそのカップルの別れ話なんかどうでもいい。でも、真剣な眼差しで問い掛けてくる大輝を見ていると、曖昧に微笑むしかできなかった。私が冷たいのかな? いや、それよりも、現実的な問題が山積みだ。
「大輝だって潤也さんとはあんまり話したことないでしょ? 何を話すの? どうやって説得なんかするの? 」
「台詞が決まってるから、大丈夫だと思う」
「は? 台詞?」
「莉奈が考えた台詞を、俺が言えばいいってことになってる。俺が莉奈をうまくフォローすればいいんだ。莉奈の長所をアピールする」
何を言ってるんだ。就職面接じゃないんだから、そんなにうまくいくはずがない。莉奈はこんなに素敵な女性なんです、今後も付き合いを続けた方が貴殿のためになると思いますよ。とでも言うつもりなのだろうか。
大輝のスマホから通知音が何度も鳴り響く。きっと莉奈がメッセージを送ってきているのだ。私と会話しながらも、大輝は液晶画面をちらちらと覗いている。私も一緒になって大輝のスマホを横から覗き込んだ。
『早く来てよ! 潤也くんに嫌われたくない! 』
『大輝からも言ってよ! 潤也くんを引き止めてよ! 』
莉奈が焦りまくっているのが液晶画面越しにも伝わってくる。まるで子供だ。
莉奈は意外と純粋なのかもしれない。自分の願望以外は無関心。周囲をどれだけ振り回しているかなんて眼中にない。
それにしても、こんな駄々っ子みたいなメッセージを送ってくる莉奈を、大輝はうっとうしく思わないのだろうか。私だったらちょっと笑っちゃうけど。
でも、液晶画面を見つめる大輝の表情は真剣そのものだ。
「由依も来ないか? 由依がいてくれるなら心強いし。莉奈も喜ぶよ」
えーと。今日は私に手料理を振る舞うんじゃなかったの?
そんなことを聞き返す気力も失っていた。そして、私の頭の中でひとつの答えが導き出される。
何かを頼まれること、頼られること。大輝はそれを断れないのだ。嫌われたくないのか、それとも、頼られることに生き甲斐を感じているのか。理由はよくわからない。
とにかく、大輝にとっては、一番自分を頼ってくれる存在が莉奈なのだ。頼られると断れない大輝は、次々と頼み事を持ち込んでくる莉奈から離れられない。厄介な頼み事であればあるほど断らないのだ。だとしたら、私は完全に莉奈に負けている。
いかに大輝の負担にならないか。そればかりを考えていた。でも、大輝は負担になる頼み事を率先して引き受け、そちらを優先してしまう。
もし、ここで私が「いやだ! 今日は私に料理を作ってくれるんじゃなかったの!? 行かないで! 」と言える性格だったなら、莉奈に張り合えるかもしれない。試しに言ってみようか。
……馬鹿馬鹿しい。
唐突に、そう思った。
どうして私が、「俺のために争わないでくれ」ごっこに付き合わなきゃいけないんだ。とんだ茶番だ。
どうして莉奈に対してこんなに嫌な気分になっていたのかも、今はっきりわかった。莉奈が大輝を友人扱いしていないからだ。莉奈にとって大輝は、都合よく動いてくれる相手。友人どころか下僕レベル。連絡をすればすぐに返事をくれる。呼び出せばすぐに応じる。助けてと言えばすぐに助けてくれる。「友人」という言葉を使えば、何のお礼もいらない。そして、言いなりになっている大輝にも腹が立っていた。
莉奈は大輝をちっとも大切にしていないし、大輝も莉奈の指示に従うだけ。だから、私はずっと悩んでいたのだ。せめて、大輝と莉奈が、互いを心の底から大切にしている本物の友人同士であったなら良かったのに。
「ほっとけばいいじゃない。莉奈の自業自得よ」
「自業自得って。なんで?」
「わかんないの? とにかく、大輝は行かなくていいよ」
「でも、莉奈には嫌われたくないし。長い付き合いだからさ」
笑っちゃう。結局、我慢しないもの勝ちじゃないか。私は大輝との関係を続けたいから、自分の不満を呑み込んでたくさんのことを我慢していたのに、こいつはいったい何を我慢した? 好きな時に好きな人と会って、好きなことを話して、そのくせ「嫌われたくない」って、馬鹿みたい。申し訳なさそうな顔をしているけど、それだけだ。私に我慢をさせていることにも気が付いていない。
優しい大輝を誠実だと思ったけれど、とんだ勘違いだ。鈍感という凶器を振り回して周囲の人間を殴りつけてくるとんでもない悪人じゃないか。
「誰からも嫌われない方法なんて存在しないよ。少なくとも、私は大輝のことを嫌いになり始めてる」
言葉にした途端、自覚した。私は、大輝のことがとっくに嫌いだったんだ。でも、認めたくなかった。この人しかいないと一度は思ったから。
「私、大輝が莉奈とばっかり仲良くしてるのがすごく嫌だった。莉奈のことも大嫌い。莉奈と過ごす時間よりも、私との時間を優先してほしかった。莉奈に会ってる暇があるなら、私と会ってほしかった」
次から次に言葉が出てくる。最後の最後でやっと本音を言えるなんて情けない。
大輝は、ただ驚きに目を見開いている。皮肉なことに、大輝が初めて私を真っすぐ見てくれたような気がした。
「そんなに俺と莉奈が仲良くしてるのが嫌だったのか? どうして言わなかったんだよ。言ってくれれば、もっと由依との時間も作ったのに」
今度は私が驚きに目を見開く番だった。
この人は何を言ってるんだろう。私の話をまったく聞いてなかったの?
「言ったよ。私の前で莉奈の話をしないでって、何度も言ったよ! 私を優先してって言ったじゃない! 」
何度も繰り返したのに、大輝は私の要望を無視した。いつでも莉奈の話をして、莉奈と会って、私よりも莉奈を優先した。私はそう記憶している。どうしてこんなに噛み合わないんだ。
「だって、由依は一度も怒らなかったじゃないか。いつも許してくれただろ? 莉奈のことも嫌いじゃないって言ってたし。それに、由依は会いたいって滅多に言わなかったから」
なんてことだ。大輝の負担になりたくない気持ちがここまで裏目に出ていたとは。仕事が忙しい大輝に「会いたい」なんて言っては押し付けになる。めんどくさい女になりたくない。そう思っていた。でも、はっきり言わないと大輝には伝わらなかったんだ。
莉奈のこともそう。私は、莉奈と大輝の関係をはっきり否定しなかった。それどころか、一度は莉奈と仲良くしようとまでしていた。
恐かったからだ。莉奈と大輝を引き離すのは無理だと、心の底ではわかっていた。だから、はっきり言えなかった。私の本気の要望を口にすれば、私たちの関係は終わるとわかっていた。
由依が嫌がることはしたくない、由依が困ることはしたくない。大輝はそう言っていたけれど、私は「困ること」も「嫌がること」も、上手く伝えられていなかった。勝手に我慢してばかり。
私の我慢がいつの日か実って、大輝の方から「今までごめんな。もう莉奈とは会わないよ」と言い出してくれるのではないか。心の奥底に、そんな願望があった。好きな人のために我慢するのは健気でかわいい? いつか報われる? そんなわけない。我慢が生み出すものなんて、ストレスだけだ。
ついさっき、私は大輝のことを莉奈の下僕だと思った。でも、もしかしたら、私も大輝の下僕だったのではないか。大輝に嫌われたくない気持ちが強すぎて、私は彼に逆らえなかった。我慢して莉奈の存在を受け入れるしかなかったのだから。
お互い無言になって静かになった室内に、大輝のスマホの通知音だけが響く。通知音が鳴る度に、大輝は液晶画面に視線を向けている。私はもう一度、キッチンに放置されているエコバッグに視線を向けた。
あーあ。大輝の手料理、食べてみたかったな。何を作るつもりだったんだろう。ていうか、大輝って料理できるのかな? そんなことも知らなかった。莉奈は知ってるんだろうな。
「由依が俺のことを嫌いになるっていうなら、もう俺には引き止める資格はないよな。由依を困らせることだけはしたくない。今までごめん」
でしょうね。あなたが選ぶのは莉奈だよね。というか、あなたが一番大事なのは、莉奈でも私でもなく、頼み事を断らない自分自身。女友達の頼み事をなんでも解決してあげるカッコイイ俺。
莉奈と縁を切ってくれとはっきり言えなかった時点で、私と大輝は既に破局していたのだ。「この人にだけは嫌われたくない」という気持ちを、大輝は私に対して持っていない。大輝自身も気が付いていないけど、私はとっくにフラれてたんだ。
暇な時間ができた時、私が最初に思い浮かべる相手は大輝だ。でも、きっと大輝は違う。大輝が思い浮かべる相手は、少なくとも私じゃない。
もし、莉奈が男だったとしても、結果は同じだったんじゃないかな。男女の友情はアリかナシか。そういう問題じゃなかったのだ。何を最優先にすべきか。私たちはそれが一致していなかった。
「由依を困らせてばかりで本当にごめん」
大輝の謝罪を聞いた途端、涙が溢れそうになった。別れが辛かった訳じゃない。たまらなく好きな瞬間もあったはずなのに、今はもう、その瞬間をひとつも思い出せないことが辛い。
「さよなら」
踵を返して部屋を出ていく。もう二度と来ないだろう部屋をあとにすると、一瞬の清々しさが訪れ、そして、息苦しいほどの寂しさに襲われた。あんなに好きだったのに、どうして。
どうすればよかったんだろう。どこで間違ったんだろう。
もし、私が思いっきりワガママに振る舞って、莉奈と同じくらい図々しく大輝に頼み事をしたり、大輝の都合なんか考えず頻繁に呼び出したりしていたら、彼は私を優先してなんでもしてくれたかもしれない。だけど、それは私が望んでいる恋人同士じゃない。ただの主従関係で、私は大輝のご主人様に成り下がる。
でも、大輝のことを考えて我慢し続けた結果、私が下僕になってしまった。
あーあ。難しいな、恋愛!
運命の人、理想の恋人。都合の良い言葉に振り回されてばかり。きっと、理想の相手なんかどこにも存在しない。だからこそ、お互いの理想にできるだけ近づくように歩み寄っていかなければならなかったのに。
大輝は今から莉奈のところに行くのだろうか。「莉奈と別れないでやってくれ」と潤也に向かって訴えている大輝の姿を想像すると、あまりに滑稽で笑ってしまう。ていうか、大輝が潤也を説得するなら、莉奈が私を説得しに来るべきじゃない? 「大輝と別れないであげて! 」って。それはそれでホラーだけど。
……え? まさか、来ないよね?
思わずスマホを確認したけど、莉奈からの連絡はない。いやいや、まさか。まさかねー。莉奈は大輝のためにそこまでしないでしょ。
自分に言い聞かせて納得したものの、大輝のアパートが完全に見えなくなる距離まで歩いてから、念のため莉奈と大輝のアカウントをブロックした。
いやー、恋愛も友情も難しい。
後編:彼氏の場合