この時代にルッキズムに抗ってみることにしました2.
前回の記事を読んでいただけると、伝わりやすいですが別に読まなくても大丈夫なように書きます(笑)
高校生までの人生の中で見た目をジャッジされるという経験を何回かし、大学生になったのを機に「見た目を整えよう」という目的で「可愛く」なろうとした。
youtubeでメイク動画を見あさり、服をたくさん買ってもらい、全身の毛を剃った。新しい自分に生まれ変わる気がして楽しい時もあれば、正直めんどくさいなとも感じた。
そして大学生活がスタートしてからもその努力を続けた。今流行りの「韓国メイク」、やせ体型に近づくための努力、脱毛。自分をレベルアップさせるための努力のはずなのにどんどん個性がなくなっていく気がした。そして極めつけは「ジャッジ」された時にかわいくなる努力をしていなかった高校生の時よりもショックを受けたことだった。「こんなに頑張っているのに」「やっぱり世の中顔なんじゃん」「自分はブスだからなにやってもかなわない」って。悔しいし、絶望した。
一度病んでからは「見た目」のことについて考えるのはやめようと思い、高校生の時と同じくすっぴんで私にとって自然な格好をして過ごした。
少し時間がたった後、ショッピングセンターでぶらぶらしているとき、超かわいい靴を見つけた。めっちゃかわいいっ!この靴にはこんな服が合うんじゃないかなー。それだったらこんな髪型にしたいなぁ、、、、
もしかしてこれが「かわいい」では??
どんなのが可愛く見えるかではなく、「かわいい」からそれを自分のものにするべく工夫する。これが「かわいい」だ。
そうだった。ずっと私は他人軸だったんだ。
本当は化粧で書いた眉毛よりももともと生えていた自然で黒い眉毛の方が好きだ。韓国アイドルは可愛いと思うけど、あそこまでのやせ体型には興味がない。自分のぷにぷにした二の腕は触るのが好きだった。
それを変える必要なんてなかったんだ。
世間のかわいいにあわせていくのは、自分にはあっていないと感じるようになった。そしてそれを自分に強制していた自分にも腹が立ってきた。
私が「可愛い」と思うものってこの世の中で定義されているものたちなんだろうか?違う。やっと気づいた。
わたしにとって「かわいい」という感情や文化は大切。でもそれは周りに合わせて自分の個性を失う事ではなくて、自分に対して自分を表現するためのものだったはず。
周りのかわいいが自分のかわいいのエッセンスになる場合ももちろんある。
コミュニケーションの一つになることもある。だけど、それとは別に自分のありたい姿を持つとここに宣言したい。
そのことを意識するようにしてからは、自分のことをブスとかダサいとは思わなくなった。(たまーに調子悪い時はちょっとあるけど)
よい意味で自分や人の顔に興味を持たなくなったんだと思う。
見た目じゃなくて私からにじみ出る「私」に注目してほしい。
そう思うようにもなった。
これが私のルッキズムへの抗い方である。
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