愛について(エッセイ)

 夢十夜を読んだ。言わずと知れた夏目漱石の著作物である。特に第一夜と第七夜が私の気にいる話であるのだが、今は第一夜に思いを馳せたい気分なのでそうする。

 第一夜といえば、死にゆく女に必ず逢いに行くから待っていてと願われた男が、墓のそばで百年待ち続ける、というような話である。なんとも美しく幻想的な愛の物語であるが、それを読んだ私は、自分には待っていてほしい人などいない、女の気持ちがわからないと思った。

 自分が第一夜の女と同じ状況にあったとして、誰に埋めてもらいたいか、誰なら埋めて待っていてくれるか、というようなことを真面目に考えてみた時、誰の顔も思い浮かばないというのは、どこか虚しい。

 それは、自分を愛してくれる人がいないという寂しさでなく、むしろ私自身が一人の人間さえまともに愛したことのない証であるように思えてならないからこその虚しさである。

 そんな私にも時々、とてもとても愛を叫びたい衝動に駆られる日がある。しかし愛を向ける対象のいない状態で叫ばれるそれは果たして愛であると言えるのかどうか、と疑問に思ってしまう。

 これは愛を叫びたい衝動でなく、何とも分類できない衝動を愛だと言い張りたい、或いは愛に変換したいという、全く順序が逆の願いではないか。

 あるいは、自分は本当の愛を知らないわけではなく、自分の愛が人を幸せにできると思えないから、自分が愛だと思っているそれは実は愛ではない、ということにしておいて、自分に愛など必要ない、愛して傷つけるくらいなら、愛など知らないふりをしていればいい、と無自覚に結論付けて今があるのかもしれない。

 第一夜は、女が約束通り百合の花になって会いにきたと解釈できる結末を迎える。百合という漢字と、百年後に逢う、をかけたようで良い。(事実だけ読めば百合が本当に女である証拠はどこにもないし、個人的には男の行動がどこか自発的でなく女によって誘発されているように感じるのでハッピーエンドだと断定はできないが)

 それに比べて、自分は蝶々みたいな女だな、と思う。誰かの内側の日常になろうとすると、自分の日常が破壊されるか、相手の日常を破壊してしまうかのどちらかにしかならない気がする。

 つまりは、虫籠の中に収まって二度と外へ出られなくなるか、あるいは部屋の中をパタパタ飛び回って煩わしく思われるか、ということである。誰かの外側の日常として、自然の中を孤独に飛んでいるしかない、そんなような気がする。そして、それが自分にとっての自由であり、それほど悪いものでないような気もする。

 それでも、心のどこかで、永遠の愛に憧れている。そうであるから、愛について考えてしまうのだろう。私は第一夜の女が羨ましい。男も羨ましい。百年かけてでも逢いに行きたい人、百年待ってでも逢いにきてほしい人、そんな人に巡り会いたいし、自分も誰かにとっての特別な人になってみたい。そしてそれを面倒に思わず、幸いであると認識できるように生きたい。

 なんでもいいから、永遠を約束したい。重要なのは約束それ自体で、果たされるかどうかはわからなくても良い。

 拗れて拗れて、もう何が愛だかわからないけれど、いつか、誰かに誇りを持って愛と幸いを与えられる人間になりたい。だから、未来にきっと愛おしい人が待っていると信じてみよう。

 あなた、百年経たないうちに、きっと逢いに来ますから、生きてどこかで逢いましょう。そうして、死後の約束をしてみましょう。

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翠星
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